「マサト、それは?」
ナツキが、マサトが抱き上げているものについて問いかける。
「塔の近くで倒れていた」
「……他種族、放っておいても良かったのでは?」
「俺たちが原因でこれが死んだと思われても、無用な諍いの原因になるだろう。治療を施し、歩ける程度に回復したら帰ってもらう」
「……なら、いいですけど」
もともとマサトは他種族の文化や生態に対して興味を抱いている。その興味のままに連れてきたのかもしれないが、根本的な問題があった。
「他種族の治療なんて、どんなふうにするのか知っているんですか?」
「……一応、……以前ウサギを看ただろう……? 知識としては、看護もわかるのだし……」
綺麗な水で消毒し、薬草をすり潰して傷口に塗り、増血剤を作って与えたり。「本」で得た知識を、マサトはナツキの協力も得て使っていく。
一方、塔の最奥部で書物を読み漁っていたトキヤは、一冊の分厚い事典を読みきってから塔の中が少しいつもと違う空気であることに気付き、眉を顰めていた。
「邪魔をしてこなければ……」
良いのですが、と気怠く言いかけたのを、足音が聞こえて溜息を吐く。邪魔はされるようだ。とはいえ、この聞き慣れた足音はマサトだろう。やや乱れているようだが。
「トキヤ」
「……どうかしましたか」
「おまえに、相応の知識があるとわかっている上での頼みだ」
「イヤです」
「まだ何も言ってないぞ……?!」
愕然とするマサトに、トキヤはわざとらしい溜息を吐く。以前から思っていたことだが、この塔で暮らす三人の中で、マサトが一番オートマタらしくない。
「面倒事は持ち込まないで欲しいと、以前ケガをしたウサギを連れてきた時に、言ったはずですが」
「う……そうだが……」
途端にしょんぼりとしてしまったマサトに再度、溜息を吐く。どうして自ら厄介ごとに首を突っ込むのか、トキヤには理解できない。
「トキヤ、あまりマサトを責めないでください。僕たちに関係がないわけではありませんから」
マサトの後ろから顔を出したのはナツキだった。
「ナツキ、あなたまで。……あなたも、面倒事は嫌いだと思っていましたが……」
「これを放っておくと、もっと面倒事に巻き込まれる可能性がある、と判断しました」
「…………聞きましょう」
深い溜息を吐いてしまったのは仕方がない。そうしてナツキとマサトが説明してくれたことは、もっと深い溜息案件だった。たしかに彼らが危惧するような事態になることは、大いに考えられた。他種族より理性的なオートマタ同士でも、他の集団であろうと全員が同じように考えられるかと言えば違う。獣人、ビーストは本能で動く種族だから、なおさらその可能性が高い。
場所を移し、大怪我を負った獣人が寝かされている部屋に入る。
獣人は基本的に単独行動を好むが、すべての獣人が単独行動をしているわけではないことは知っている。仮に単独行動をしていないタイプ、群れを作っているタイプであるなら、この獣人を放り出して野垂れ死にでもさせるとオートマタによって殺されたと誤解しかねない。誤解されたまま報復活動でも仕掛けられたら、たしかにもっと面倒だとトキヤでもわかる。
わかるが、それはそれ、これはこれだ。
「これですか? 先ほどの話に出た獣人は」
「ああ……まだ顔色が悪い」
「失血はだいぶ止まりました」
床に寝かされている獣人は、脇腹のあたりが赤く染まり、濃い蜂蜜のような色の髪はすっかり乱れている。顔色の悪さは、血が足りないせいか。
「……きれいな水と、それとは別に沸騰させた湯、清潔な布と……いつだったか上の階で見つけた毛皮の敷物と上掛け。埃を払って、使いましょう。マサトは水と湯を、ナツキは毛皮と上掛けを。布は一度、沸騰させた湯にくぐらせます」
たくさん用意しないと足りないかもしれないが、幸いここには先人の遺物が多く残っていた。場所さえ覚えていればいつでも用意できる。ただ、水だけは外から汲んでくる必要があった。
トキヤの指示に、ふたりは素直に従う。水はとにかくたくさん必要だったから、毛皮と上掛けを用意したナツキはそのままマサトの手伝いに行った。
火が必要になるのは暗い場所で本を読む時だけだと思っていたが、まさかこんな時に必要になるとは。
「…………何ページ読めたか……」
塔の最奥部に保管されていた本は、百年経っても二百年経っても読み切ることはなかった。
そこに書かれた事象、事件、事典、すべてがトキヤの気を引き、惹かれて止まない。それらを一文字でも多く吸収したい。知りたい。オートマタの身体がこんな時にありがたい。眠らなくても活動が続けられるし、多くの書物の内容を記憶できるからだ。
それらのページをめくり、新たな知識を得ていくことだけをしたい。感情がないと噂されるオートマタでも、トキヤの欲求は本にだけ向いていた。人が見れば『執着』と呼んだかもしれない。
だから、知識を吸収する時間を妨害されることは何より忌むことだし怒りを覚えても仕方がないことだ。後のことを考えて今は収めているだけで。
「トキヤ、これで揃っただろうか」
マサトとナツキ、トキヤ自身が揃えた道具、またマサトが以前に作っていて先に獣人の治療に使った残りの薬を一瞥し、頷く。男は風が吹き込まない部屋に運ばれ、毛皮の上に寝かされた。
「……私も、本で得た知識だけですが……」
もし今後何かあった時にはマサトとナツキだけでもどうにかできるようにと、トキヤを教師に全員で治療に参加した。
沸騰した湯で消毒した布に傷薬をたっぷり塗布し、消毒した傷口に当てて包帯をキツめに巻く。本当は大きな傷口は火で焼いたほうがいいが、それは何故か躊躇われた。
増血剤は無理にでも飲ませる。熱が出ているから冷やすために額に当てた布はこまめに替える。熱は出ても寒気を感じるだろうから、毛皮の上に寝かせたのはおそらく正解だ。そして上掛けはしっかり掛けておく。床に転がしておいては、床の石に体温を奪われてしまいかねない。
身体についた血は拭ってやり、定期的に身体も拭いてやればいい。清潔に保つことが大事だ。
そして――。
「ナツキは、塔の周囲を警戒してください」
「警戒、ですか?」
小首を傾げたナツキにトキヤは頷く。
「その獣人を襲ったのは、大型の獣のようですが……違う傷もありました。獣の傷に紛れていてよくわかりませんでしたが、もしその傷を負わせた者が、その獣人が生きていると知れば、何をしてくるかわかりませんから」
「わかりました。何かあれば知らせます」
哨戒にはナツキはよく向いている。ヒトであれば繊細、敏感というのだろうか。細かなところによく気付き、異変は三人の中で一番早く察知する。身体能力も高いから、これまでも何かあった時は頼りになった。
「トキヤ、後は俺が看よう」
マサトは三人の中で一番、塔の外や他種族に対する好奇心が強い。それにナツキやトキヤが自分のことに対して無頓着であることも、さりげなくフォローしてくれる。他人のことなど放っておけばいいのに、と、塔の最奥部で籠もりきりになってしまった時によく思う。――イヤではないが。
部屋の隅に置いたランタンが、石壁に揺れる影をつくる。
「そうですね……」
そうしてください、と言おうとした口が止まる。立ち上がろうとしたが、何かに引っかかって止められた。引っ張られたところを視線で追うと、コートの裾を掴まれていた。寝ているはずの、男に。いや、目は薄らと開いているような。
「……寝ていなさい。まだ起き上がっていい体ではありません」
あなたを害すつもりは今のところありませんから。
見上げてくる瞳の色はよくわからなかったが、何故だか目を逸らせないと思った。論理的に説明がつかないことなんてこの世にはないと思っていたのに、どうして目が離せなかったのか、理由はいまだにわからない。
トキヤが言ったことがわかったのかどうかはわからないが、獣人はじっとトキヤを見つめた後でふっと目を閉じた。コートを掴んでいた指も、力を無くしぱたりと毛皮の上に落ちる。マサトが少し焦った様子で獣人の様子を見たが、おそらく気を失っただけだろう。
起きた時にはまず増血剤と水を与え、薄味をつけた野菜や肉を煮込んだ柔らかいものを与えるといい。そんな本の知識をマサトに伝えると、トキヤはまた塔の奥深くへ引きこもりに行った。
目覚めた時、まったく見覚えのない場所だったから驚くのは、当然の反応だったと思う。
「ッ……!」
身体を走った激痛に、咄嗟に身体を起こすこともできなかった。こんなことも初めてだ。
「あまり無理をしないほうがいい」
覚えのない声と、声を掛けられるまで気配を感じなかったことに、最大級の警戒をする。振り向けば、黒っぽい髪の、見た目は穏やかそうで長いコートを着た男が立っていた。手に何かを持っている。
「おまえは……」
「この近くで倒れていたおまえを拾ってここまで運んだ。手当は俺の仲間ふたりが手伝ってくれた。……まだ傷はちゃんと塞がっていないだろう、おとなしく休め」
「倒れてたオレを拾ってって……じゃあ、おまえがオレを助けてくれたのか」
「結果としてそうなっただけだ」
どうやら、少なくとも敵ではない。が、異種族であることは、見た目からして明らかだ。おまけに表情の変化に乏しいから何を考えているのかわからない。
「おまえにとってはあまり上等な寝床ではないだろうが、まだ休め。熱も下がった気配がなかった。そのまま出て行かれると死亡する確率が上がる」
「死亡する確率って……」
「そうですね、おとなしくして早く治して早く出て行ってください」
「ナツキ」
目の前の男よりはいくぶん冷えた声が部屋の出入口の外から聞こえ、それから背が高い男が姿を見せた。目の前の男と似たコートを着ている。
「マサト、外に異変はありませんでした。ただ、もしかしたら夜に雨が降るかもしれません」
「雨か……天候が変わる時には怪我にも障るという。おとなしく寝ておくのが一番だぞ」
強引に寝かしつけられていた場所へまた寝かされる。その時、自分が寝かされていたのがずいぶん上等な毛皮の上だと気付いた。
血を流すような怪我人を、こんな毛皮の上で寝かせるなんて。
頓着しないにも限度があるのでは、と思うが、額に乗せられた冷たい布が心地よく、ゆるゆると眠りに誘われていった。
次に目が覚めた時に気付いたのは、猛烈にお腹が空いているということだ。
「今の音はなんだ」
真面目に問われるとかえって恥ずかしいが、隠しても仕方がない。正直に空腹であるということを伝えると、マサトは笑いもせずに頷いた。
「食事だな。トキヤに言われていたから、用意はしてある。先に水を飲んで少し待っていろ」
「トキヤ?」
自分が会ったのは、うろ覚えだがこの男と、背が高い男。たしかナツキと言っていたか。そういえば「俺の仲間ふたり」と聞いた覚えはあるが、そのうちのひとりか。
「ああ。彼は俺たちの中でも知識欲が旺盛で、本を読むのが好きな男だ。気が付くと数日読み続けていることもある」
「本の虫、ねえ……」
一度出て行ったマサトを見送ると、レンは自分の身体のチェックを始める。怪我を負ったのは、どちらも左の脇腹だ。おそるおそると触れれば、もちろんまだ痛みはある。傷口の熱もまだ下がっていないようだ。それ以外は腕も動くししっぽも脚も動く。ただ、歩くのにはまだ難儀しそうな気配。
「うーん……」
起きられるようになったとはいえ、できればもう数日大人しくしておいたほうがいいのはわかる。けれどここは他種族の縄張りで、マサトはそうでもなさそうだが、ナツキのほうはレンをあまり歓迎していない雰囲気だった。
どの種族も、同種族以外の種族を歓迎しないのは同じだ。エルフなどは里が違えばエルフ同士でも牽制しあうこともあるらしい。
そんな風だから、基本的に種が違えばわかりあえるわけがない。そう思われているし、彼ら――オートマタはその中でも飛び抜けてわからない。機械の身体に心が宿るのかどうか、レンにもわからないからだ。根も葉もないと思われる噂話はいくらか耳にしたことはあるが。
とはいえ、他の種族は獣人、ビーストの自分たちを怖がり、排除したがるのに、ここのオートマタはそうではないというところは興味深い。あらゆる種族の中でも最強だという噂が正しいせいなのだろうか。
「まあいいか……」
寝床に手をつく。ふかふかとした毛はやわらかく、すべすべしているしあたたかくて心地よい。いったいどんな獣の毛皮なのだろう。
考えていると、マサトが帰ってきた。木の器と、匙を手渡してくれる。
「ビーストが肉を好むのは知っているが、数日何も食べていないところに肉だけというのは身体に良くないそうだ。料理をする機会はあまり多くはないが……」
器の中身は、葉物と根菜と肉を赤い何かで煮たものらしい。それ以外に香りが良いのは、別の何かが入っているのか。
温かな温度と良い香りに誘われるように、おそるおそる匙で掬い、一口食べてみる。スープが赤いのは潰したトマトだろう。熱い、が食べられないほどでもない。だがそれ以上に。
「……美味い」
「そうか、良かった」
ほっとしたような表情は、オートマタらしくないのではないか。思ったが、今は食欲を優先する。いつもなら野菜はあまり食べないし、肉を焼いただけの料理は料理らしくはない。それでいいと思っていたが、くたくたになった野菜や口に入れた途端にほろほろと崩れる肉がこんなに美味しいとは、初めて知った。
大きな器に山盛りにされていた煮込み料理は、すぐにレンの胃に収まってしまった。そうしてまた、寝かしつけられようとしてしまう。
「おい……」
「あと数日はおとなしくしておくのだな。……外に出て、怪我を負わせた同じものと相対した時に、少なくとも逃げ切れる程度になるまでは」
マサトの言うことも、もっともだ。せっかく救われた命を無駄に散らすのでは意味がない。
「……ひとつ聞かせてくれ」
「なんだ?」
「オレは、何日意識を失っていた?」
「ここに運ばれてからの期間で言えば、四日だ」
「……まずいな……」
今すぐにここを出たとしても、自分の縄張りへ戻るのはどんなに早くてもおそらく夜になる。それでもギリギリだが、万全でない状態で動けば縄張りを広げようとする同族と戦った場合、勝てる見込みは減る。
縄張りの維持だけを考えるのなら、今すぐにでもここを発ったほうがいい。だが身体を優先するなら数日おとなしくしたほうがいい。他種族より頑丈な身体をしているから、傷が塞がって問題なく動くには数日あれば充分だ。
だとするなら少なくともあと数日はここで療養させてもらうのがいいに決まっているが、そうすると仲の良い連中もさすがに不審がるのではないか。無闇な心配をもらうのは避けたいが、かといってすぐに事情を説明もできるわけがなかった。
さすがに大騒ぎをすることはないだろうが――。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
若干の不安材料はあるものの、今は傷を治すことに専念することにしよう。
早く癒えてくれ。
念じながら、目を閉じる。眠りはすぐにやってきた。
トキヤにとって、本を読む時間が至福というわけではない。本を読むことで知識が増えること、知らない世界を知れること、体験することに興味を惹かれるし、塔の最奥部にはトキヤのためにでもあるかのように、大量の蔵書がある。――平たく言えば本を読む時間が至福ということになるのだが、何が違うのか誰もわからない。
この塔が建設された当初、どういった目的があったのかはわからないけれど。目覚めた時からここにいるトキヤにとって、ここに本が大量にあるというのは、幸せなことでもあった。
本を読んでいる時、トキヤは本にのめり込む。本の数だけ世界がある。読んでいる時、トキヤは世界を旅する旅人だ。
現実の世界の音は何も聞こえないし、感じない。世界に存在するのはトキヤだけだ。
「……ふ……」
一冊の本を読み終えると、本を傍らに避ける。読んだ本は右、未読本は左だ。
息を吐くと、次の本に手を伸ばそうとした。
「ねえ」
呼びかけられて、はっと声のほうを振り向く。マサトでもナツキでもない気配、声。
扉の傍に立っていたのは、一目で獣人族とわかる男だった。
「何者ですか」
「先日助けてもらった者だよ。レンっていうんだ。よろしく、トキヤ」
「……よろしくするつもりも、馴れ合うつもりもありません。勝手に名前を呼ばないでください」
「そうもいかないよ。助けてもらったお礼はちゃんと返すのが流儀なんだ」
「本を読むのを邪魔しないで頂ければそれでいいです」
「つれないな……」
「つれなくて結構。馴れ合うつもりはないと、言いました」
「強情だねぇ……」
苦笑する気配。構わず、次に読もうと思った本に手を伸ばそうとする。
「じゃあ、オレも勝手にお礼するけど。コレ、置いていくから……使えそうだったら、使ってくれる? 他にお礼を思い付いたら、言ってくれてもいいけどね」
机にことりと置かれたのは、小さな瓶。
「あんたたちオートマタが、どんなものが必要なのか知らないからさ。使うんじゃないかって思ったものを持ってきたよ。関節の動きとか固くなったら使って」
じゃあね、と笑んだ顔は、何故だか記憶領域からすぐに消えなかった。
消せなかった。
**********
「他にお礼を思い付いたら、と言ったのは、あなたでしょう」
「言ったね、そういえば……」
はぁ、と溜息を吐く。命を助けてもらったのだし言った言葉に嘘はないが、言い方が迂闊だったかと反省しておく。
じ、と顔を逸らしたこちらを見つめてくる視線が痛い。
「オレの顔に何かついてる? 熱烈に見てくるじゃないか」
「こちらを、向いてください」
「……どうして」
顔を見る必要はないだろうと思っていると、トキヤは見つめたままで口を開いた。
「先日、……数年ぶりに、外を見ました」
「…………」
数年ぶりとは、引きこもりにもほどがあるのではないか。仲の良い仲間のところで遊ぶのが好きなレンには、年単位どころか数日でも外に出られないのは御免だと思うのに。
「それで、同じように数年ぶりに、空を見て……あなたの色だと、思ったんです」
「……は……?」
何を言い出すのか。どんな顔でそんなことを言っているのか。思わずトキヤの顔を見た。
「ああ……やはり」
頬に、手のひらを当てられた。少しひんやりしている。血が通っていないのだから当然か。
そうして彼は、トキヤは、いつもは表情が変わらないのに――嬉しそうに、笑んでいた。
何度もこの塔を訪れているが、トキヤの無表情以外の表情を見たのは、これが初めてだ。笑うと少し、幼い。
かわいいんじゃないか。
思ったのに。
「やはり、青空はあなたの色ですね」
「…………」
とんだ口説き文句だ。
「いや……あのね、トキヤ。そういうことはレディにこそ言う言葉であって、」
「空を見ていたら、自然とあなたのことが浮かんだ。……空は何度も見ているはずなのに、あなたが産まれるよりずっと前からあの色だったのに、不思議です。あなたの色としか、思えなくなってしまった」
「だからね……、……参ったな……」
「……空に触れることは叶いませんが」
トキヤの手のひらが、頬を撫でてくれる。初めて言葉を交わした時からは想像も出来ないほど、触れ方はやさしい。
「あなたに触れることは、できる。……どうしても、触れたいと思ったんです。触れられるところのすべてを」
「…………」
言葉には多大に語弊があると思うが、要するに自分の、レンのことを知りたいということなら、理解はできる。興味を持ってくれたということだろう。
無関心でいられるより、ずっといい。異種族でも、仲良くできるのならそれに越したことはない。
などと考えていたらいつの間にか壁際に追い詰められていた。
「キミね、相手を壁際に追い詰めるものじゃないよ」
「話をしたり触れたいと思っても、あなたが、逃げようとするからです。……逃げないでください」
基本が無表情だからわかりにくいが、しょんぼりした様子を見せないでほしい。つい、絆されてしまいそうになる。
「……オレのどこにそんなに触りたいんだい」
「皮膚や髪、身体のすべてに」
あっさり言い切られてしまうと、逆に少し困ってしまう。どうして自分に触れることにこだわるのか、わからない。
「……まぁ……命までは取られないか」
「え?」
「こっちの話。……触るなら、優しくしてね」
変な言い回しになった、と言った後で気付いたが、トキヤは気にした様子もなく頷くと、シャツの裾から手を入れてくる。ひくりと震えたのは、その手が思いがけず冷たかったからだ。
腹筋はあまり凹凸があるわけではないが、ビーストなのだし、それなりにしっかりついていると思う。胸筋もそうだ。すごく厚みがあるわけではないが、薄いわけでもない。少なくとも、狩りに支障はないくらいにはどこも筋肉はしっかりついている。
トキヤの手は、まるでどこにどんな筋肉がついているのか確かめているようでもある。
少なくともレンと同じようなヒト型をしているなら、同じような姿をしているのではないかと思うが。
きっちり着込まれたトキヤの服を見る。もしかしてその下は、自分たちのような身体ではないとでもいうのだろうか。
「……っ」
脇腹から背へ腕が回る。手のひらがくすぐったい。それにまるで抱きしめられているように触れられるのは、なんだか身の置き場に困る。抱きしめられているようなものなので、逃げることはできないのだが。
不意に、やわらかな感触が。くすぐったくて慌てて自分の身体を見下ろせば、トキヤが肌に顔を寄せていた。
「なに、してるんだい……?」
「触れていました」
それ以外に何が? とでも言いたそうな口ぶりに、言葉の選択を誤ったなと思う。
「今、なにで触った?」
「くちびるですが」
「……あっさり答えるね……」
「あなたに触れたいと言いましたが、手で、とは限定しませんでした」
「……なるほど……」
そういえばそうだ。
けれど、だからといって、くちびるで触れられることを予想できたはずもない。
トキヤはふたたび肌に顔を寄せる。手のひらで、くちびるで、そして――
「っ、いま舐めただろう……!?」
「ええ。何で触れても、あなたは気持ちがいいですね」
「…………」
そういう問題ではない、気がする。
けれど狼狽えるのはレンばかりで、トキヤが動じる気配はまったくない。狼狽えるだけおかしいのは、まるでレンだけのような。
いや、そんなはずはない。そんなはずはない。
きっと、こんな塔に引きこもって暮らしているから、トキヤのほうに常識がないというだけの話だ。オートマタ全員がこんなふうではない、はず。ここに住んでいる彼らの他にオートマタを知っているわけではないが。
「ぅ……、っ」
脇腹を撫でられ、腹筋にくちびるで触れられ、舐められるのは良くない予感がする。
そうして腹のあたりに気を取られていると、冷たい感触が脚に触れた。
「いつのまに……」
ボトムまで脱がされている、のはともかく。
「ちょ……っ、下着まで脱がす必要はないだろう!?」
「触れられるすべてに触れたいと言いましたが……」
「いや、そうだけど」
「……だめですか……?」
「…………」
返す言葉に詰まる。そういう、哀しげにも縋ってくるようにも見える表情で見上げてくるのは、本当に反則だ。こちらがそういう表情に弱いとわかっていて、わざとしているのではないかとさえ思う。
他の種族の身体に好奇心が芽生えた、のだろう。あれはなあに、と親にいちいちと問う子どものようなものだ。後々まで言われるくらいなら、いま満たしてやったほうがいいのかもしれない。
「……わかったよ。でも、触りすぎないようにね」
「はい」
許可を与えてから、ふと、「触りすぎない」の加減はビーストとオートマタで同じなのだろうかと疑問がよぎった。
後の祭だったと気付くのは、もう少し後だ。
壁に凭れていた背が、ずるずると落ちていく。支える力がなくなっていたからだ。つられるように、トキヤも体勢を低くする。
鎖骨のあたりまでまくりあげられたシャツが晒した胸、薄紅の中心に口付けられ、舐められる。舌はやわらかいのだな、と、場にそぐわないことが頭をよぎった。
強引に一度出させられたせいで、抵抗する力はすっかり弱くなってしまった。
「もう……ほとんど全部触ってしまったんじゃないか?」
なおも熱心に身体に触れてくるのはどういうわけか。大きく息をつくと、トキヤを見る。
見たことを少し後悔した。
「いえ、まだ……あなたに触れていて生じた、不可解な事象について、解決と……あなたの身体への関心が、失せていません」
「…………」
そんな眼を、見たことがある。
狩りの時、仲の良い同族が見せた、獲物を前にした獣の眼。
あれに似ている。とすると、今の場合は獲物はレンだということになる。いや、まさか、そんな。
「……一度にそんなに触らなくてもいいと思うけど……というか充分に触られたとオレは思ってるけど。……おまえに生じた不可解な事象って、何」
浮かんだ疑惑を否定する材料が欲しくて問いかける。トキヤはいつもの通り真面目な表情だ。冗談や誤魔化しはしないだろう。
「あなたを見ていると……正確には、私が触れることによって、様々な反応を返すあなたを見ていると、身の内が熱くなる感覚があり、もっとその姿を、顔を、見ていたいと思うんです。『何か』……『誰か』に対してそんな風になるのは初めてで……」
解決方法があるとすれば、自分をそうさせたレンにあるのではないかと思った、とトキヤは言う。
レンは言葉を失った。考えられる限り、もっとも最悪な結論なのではないだろうか。
いや、しかし。トキヤの夕暮れ色の瞳を見る。
夜の帳が下りる頃の空は、星がきらきらと瞬くのが見え始めて、昼の空とは違った趣でうつくしいと思う。昔から、眠れない時は寝床を抜けて暗い空に煌めく星や月を眺めたものだ。苛立った気持ちも、哀しい想いも、孤独も、夜の蒼い空間に慰められた。そんなことを思い出させてくれる色の瞳だ。
手を伸ばし、そっとトキヤの頬に触れる。無表情なのに、どこか不思議そうにしているのは、初対面の頃では見抜けなかった。そう、最初は愛想もない、本ばかりのつまらない男だと思っていたのだ。からかい甲斐ならマサトのほうがよほどある。あれはトキヤやナツキと比較しても、オートマタにしては感情の起伏があるように思うし、他の種族の文化などに興味を持って訊いてくるものだから、好奇心も旺盛だろう。
なのに、今は少しの変化がわかるようになった、この無機質な男がかわいらしいと思える。本の世界にしか興味を示さなかった、この男が。
「……仕方ないな……、……トキヤ」
ほら、と両手を開いて、軽く「おいで」と呼ぶ。軽く目を見開いた彼は、数瞬、レンが何を言っているのか、トキヤに何を求めているのか、わからない様子だった。けれど言われた言葉の意味を考えたらしく、もともと近かった距離をさらに詰めてきた。
――詰めただけで終わるとは何事だ。
「ほら……ハグだよ。抱きしめるんだ、オレを」
まさかハグもわからないとか言い出すのだろうか。思いつつ、先にトキヤの身体へ腕を回すと、トキヤも同じように腕を回してくれる。どうやら理解してくれたようだ。苦しいほどの強さで抱きしめてくれる。
「ちょっと……苦しすぎるかな。熱烈なのは嫌いじゃないけど……もう少し、力を抜けるかい?」
「はい」
言えば、抱擁は心地よい程度になった。ふぅ、と息を吐くと、あの、と控えめな声をかけられる。トキヤがやや上目でこちらを見ていた。
「……まだ、触れてもいいでしょうか?」
「まあ……悪くはないけれど」
「ですが、この腕も放しがたいと思うので……」
トキヤも抱擁を心地よいと思ってくれているのなら何よりだ。そう思っていたのに。
「抱きしめたまま、くちびるで触れても?」
どうしてそんな結論に達したのか。訊いても多分レンには理解できない理屈でもってそうなったのだろうということだけは想像に難くない。
けれど、それはもうほとんど性行為に近いのではないだろうか。
「……おまえ、さ」
「はい」
「……このまま触ってたら、オレがどうなるかとか考えないわけ」
「どうか……なってしまうのですか?」
「きみ、仮にも本の虫なら、興奮させた相手がどうなるかくらい、わかりそうなものじゃないかい?」
「…………」
瞳をうろうろさせ、考え込む様子。肌は白いし、すべすべとした感触は気に入っている。夜闇色の瞳は昼空色の自分の瞳と対になっているようできれいだ。
頭は間違いなくいいだろう。それも紙ベースの知識で、現実的でないところもある。外に出て、実際に見るものの多くが、彼の知識、想像よりどれほど鮮やかで、驚きに満ちているか。見せてやりたいとも思う。
そう、彼が知っているのは「知識として」だ。
「ビーストであるなら、興奮させた相手を害することも考えられますが……一般的には、欲情、を」
「そう。……そういった知識の本もちゃんとあったんだね。読んでてくれて何より。でも学習したことは活かさないと、学習の意味がないな」
「…………」
少しばかり悔しそうにするのがかわいらしいなんて、言えばきっと怒るだろう。
「学習をしなければ意味がない、なら」
「……えっ」
「活かします」
「そんな宣言をすることじゃ……えっ、トキヤ、何をする気だい」
「欲情をどうにかする方法は、大雑把に分けてふたつ。ひとつ、欲情が消えるまで我慢をする。ですがこの場合、私はあなたに触りたいので、あなたが我慢をしなければなりません。今さっき私に警告を発したことから察するに、私がこのまま触れれば、あなたはきっと我慢ができなくなるのでしょう」
「…………」
「とするなら、我慢をしたりさせたりする手段は、下策。もうひとつの方法が良いと思われます」
イヤな予感しかしないというのはこのこと。
そして、そういう予感ばかりが何故か当たるのだ。
「一応訊くけど、もうひとつの方法って……?」
「吐き出してしまえばいい」
にこりと笑むうつくしい男に、くらりと目眩がした。
「は、ッ……、ァッ」
びく、と身体が震える。
はじめは拙かったトキヤの手、指は、一度吐き出したというのに確実にレンの熱を煽ったし、彼の熱も伝えてくるようでもある。
もっとも、挿入されたトキヤの欲のほうがよほどわかりやすかったが。
「っ、く……ッレン、」
「アッ、あ!」
わずかに身じろがれるだけで銜えこんだナカが擦れ、ひどい、暴力的なまでの快感に襲われる。必死にトキヤの背にしがみついていなければ、意識さえ飛んでしまいそうだ。
荒い呼吸と時折高く跳ねる嬌声が、塔の最奥部に響く。
「あまり、締めすぎないで……くるしい、ので」
「ッあ、うごく、な……!」
「むりです、……止まら、ない」
ぐ、っと腰を深くまで入るように押しつけてくる。トキヤの動きを阻むように狭めていたナカを擦られるのは、ひどい快感だった。背中はトキヤの上着一枚だけ敷かれていたが、その下は石畳なのに、痛みを感じない。いや、繋がっているところから与えられる感覚以外はすべて朧だった。
「ア、アッ……ッぅ、アッ」
トキヤが抽挿を繰り返すたび、すすり泣くような、噎び泣くような声があがるのを止められない。しがみついた背中に爪を立てていることも気付かず、ひときわ気持ちが悦いところを擦られた時には反射的に身を捩り、逃げをうとうとしたが、腰をしっかりと掴まれていては出来るはずもなかった。
自分よりずいぶん細身に見えたのに。
いったいどこにこんな力が、と思うが、そういえば彼はオートマタなのだったとぼんやり思い出す。
オートマタに感情がないと言っていたのはどこの輩だ。目の前の男はたしかにオートマタなのに、獣人である自分にこんなにも激情をぶつけている。大嘘つきではないか。
などと考えられるようになったのも、少し後になってからだ。
「は、ぁ……レン……っ」
きもちいい、と熱に浮かされたようなトキヤの呟き。
「……あと、すこし……」
「ん……ッあ、アッ」
トキヤの動きが増す。まるで本能に従うように、レンのナカをひどく突き上げ、首筋を甘く、時にキツく噛み、全身で訴えてくるのだ。
おまえが欲しいと。
「っく、……レン、……ッ」
「あ、……ッ!」
ひときわ奥を、と思うと、トキヤの熱が弾けた。前後して、レンの意識が白く弾けた。
「あの……レン……」
「…………」
いつだったか、彼が初めてこの塔に来た時。あの時は『招かざる客』だったが、今では『招いてはいないが、来ても歓迎していい客』くらいにはなっている。だから彼の寝床はこの塔の中では一番上等だ。クッションをいくつも重ね、その上にキレイにした毛皮を敷いて、寒くないように毛布も何枚か重ねている。
最奥部の書架で何度かの行為に及んだ後、レンをそこまで運んだのはトキヤだ。さすがに石畳の上で寝かせるのは気が引けたし、身体も拭いておくのがいいだろうと考え、その通りにした。
一夜明けて客室(と呼ぶことにしたレン専用の部屋)を覗きに来てみれば、レンは甚だしく機嫌が悪かった。トキヤにはその理由がわからない。
「……冷める前に、食べてください。スープはマサトの自信作で……鳥の肉は、ナツキが狩ってきたものを、私が調理しました。水は、果物を切ったものを漬けておくと美味しいと、本に書いてあったので、試しに作ってみたのですが……」
トレイに乗せたささやかな料理を、レンはちらりと見た。それから溜息をひとつ吐いて、水を一口飲む。
「……おいしい」
「よかった」
ようやく一言発してくれたことにホッとする。その後は無言で食べ進めていたが、カラになったグラスにまた同じ水を注げば飲んでくれたので、本当に気に入ってくれたのかもしれない。そうだと嬉しい。
レンが皿をすっかりカラにしたタイミングでトレイを避ける。それからじっと彼の顔を見つめた。
「……なんだい」
「どうして、あなたが、……怒っているのか。……私が、怒らせてしまったのか。考えていました」
「原因はわかった?」
「…………」
ふるふると首を振る。情けないが、今まで読んだ本の知識を総動員しても、目の前の謎はまったく解けない。
レンのふさふさのしっぽが毛皮の表面を撫でる。
「……正直なのは嫌いじゃない。……言っておくけど」
怒ったような顔のレンが、強い視線でトキヤを見つめる。いや、これは睨まれているのか。
「オレは、ひとりで眠るのは好きじゃない。……わかるかい?」
「ええと……」
この場合のベストの答えは、と自分の中を探る。
「……次にあなたが眠る時には、私も一緒に眠ります」
「正解」
頷いたレンがこちらへと手を伸ばし――寝床に引き込まれた。
「えっ」
「オレはね、今日はたぶん腰が立たない。腰が立たないっていうことは、歩いて帰れない。歩けたところで走れないから面倒だ。だから今日もここに泊まらせてもらうし、今からもう一度眠るから、いま言った言葉を実行してもらう。オーケー?」
「…………」
たぶんまだレンは怒っている。反論するのは得策ではない。そのくらいはトキヤにも理解できた。
「わかりました」
こくりと頷くと、トレイをもう少し寝床から離したところにやり、レンと一緒の毛布にくるまった。
「……あたたかいですね、レン」
「おまえは少し冷たいね。夏場には重宝しそうだ。……で、この腕はなに?」
咎める口調ではなく、ただ疑問だという様子でレンに回した腕をぽんぽんと叩かれた。
「あ……いえ、その、勝手に」
「勝手に?」
「意識を、してなかったです」
「……無意識ってこと?」
「はい」
ふぅん? とレンは一瞬考え、次の一瞬でトキヤの身体に腕を回してきた。
「オレは体温が高いからね。少しくらいトキヤに分けても平気さ」
ふふ、と笑うレンはきれいで、かわいらしく――胸のあたりが苦しくなり、つい抱きしめる腕に力が入る。苦しいよ、と笑われて慌てて緩めると、背中をぽんぽんと撫でられた。
今のレンやこんな時間が『愛しい』と言うのだとは、もう少し後になってから知ることになる。