「すごい雨と風だったねえ……傘があっても意味がないなんて」
マンションのエントランスに入るとようやく息を吐く。レンは濡れてしっとりした髪をかき上げた。隣にいるトキヤも濡れているのは同様で、せっかくセットしていたのが台無しだ。
溜息は重くなったが、レンは気にすることなくトキヤの背を叩く。
「さ、部屋まで案内してくれるかい? 王子様」
「案内しなくても知ってるでしょうに」
「ひとりの時なら勝手に上がるけどね、家主がいるのに勝手はしないよ」
機嫌の良さそうな顔は浮かれているのだろうか。天候に似つかわしくはないが、今日を楽しみにしていたのはトキヤも同じだ。休みを予定通りに合わせられたのも嬉しい。それが表に表れにくいというだけで。
オートロックを解除し、エレベーターに乗って部屋のある階へ。その間に鍵を用意して、スムーズにレンを部屋へ招く。
「先にシャワーを使ってください。着替えは出しておきますから……」
「着替えを出したらイッチーも浴びるだろう?」
「ええ、あなたの後で……」
「一緒に」
「…………」
何を考えているのか探る目付きになってしまったのをレンも気付いたのだろう、苦笑された。
「そんなに警戒しなくても。……旅の計画を立てることは忘れていないよ。だから浴びるだけ。オレを待ってる間にイッチーに風邪を引かせちゃ、オレがおまえのファンに怒られちゃうよ」
イッチーはオレがレディに怒られてもいいの? なんて、なかなか卑怯な問いかけだ。
溜息はせめてものポーズ。
「……わかりました。ひとまず、あなたは先にシャワーを浴びていてください。着替えを出したら私も行きますから」
「はいはい」
楽しげに浴室へ行くレンを見送ってから、寝室のクローゼットに置いてあるレンの着替えを出す。どうせ今日はもう外には出ないだろうから部屋着で構わないだろう、部屋着とはいえレンの部屋着は普通の感覚なら外出しても差し支えないような服だが。
自分の部屋着も取り出して、脱衣所の棚にそれぞれ置いておく。ちゃんとシャワーを浴びているのは音でわかる。服を脱いでしまうと、濡れた服でいくらか体温が奪われていることに改めて気付いた。たしかに一緒に入って正解だったかもしれない。
そうしてふと気付く。
旅行の打ち合わせをするのはいいとして。それが何時に終わるのかわからないのも、まあいいとして。彼はもしかして夕食と宿までここで済ますつもりだろうか。
「……まあ……いいですが」
ふう、と息を吐き、浴室のドアをノックした。
「海外もいいと思うけど……ゆっくりする時間は取りづらいから、やっぱり国内だね」
レンの言葉にトキヤも頷く。英語圏以外の場所だとレンに頼り切る可能性もあることを考えれば、そのほうがいい。
「日本の建築にも興味はありますよ。わかりやすいところで、お城とか」
「日本の城は海外の城とはまた違った良さがあるね。日本の中でも、例えば沖縄だとまた違うし」
「ええ。白鷺城や烏城と呼ばれる姫路城、岡山城、石垣が美しいと言われる熊本城なども、一度はこの目で見たいですね」
「近代の、西洋文化を取り入れてからの建築も興味深いよね。日本橋や丸の内、銀座のあたりにはまだその頃の建築物が残っているところもあるし」
「愛知のほうにある明治村に移設された建物もあるようですね」
「それは興味深いね。愛知なら名古屋城もだろう?」
どうせなら色々見られたほうがいいね、と改めて日本地図や地図アプリで場所を確認しながら打ち合わせていく。
本で気になっていた建物は付箋を貼っていたからすぐにリストアップできたし、レンがスマホで素早く建物や施設の名前と住所などの一覧表を作ってくれた。一度にあまりたくさんの建物を見るのではなく、じっくり見るほうがイッチー向きだね、と言ってくれるのはわかられていると思う。
「イッチーが見たいものも順位つけて…その中で場所が離れすぎないところをピックアップして、ホテルは程よい距離の場所、かな。レンタカーでもオレの車でも、少し距離が離れてても対応できるし」
「……あなたも来るという話でしたか?」
「一緒はダメなのかい?」
「…………」
そんなかわいく首を傾げられたら何も言えなくなってしまうではないか。
言葉に詰まっていると、反論はないと見たらしいレンはにこりと笑む。
「良かった。……新婚旅行みたいって思った?」
「なっ、……にを言っているんですかあなたは」
今度こそ反論(早口)にレンはふふふと笑う。
「オレはちょっと思ったけどね。好きな人とふたりなんて、嬉しいじゃないか」
どんな顔をすれば良い、どんな顔が正解なのだこれは。
にやけそうな頬のあたりを誤魔化すように撫でて、ふぅ、とわざとらしくなってしまった息を吐く。まったく、この人には敵わない。こんな時まで思い知るなんて。
「……夕食にしましょうか」
「食べていっていいのかい?」
「泊まる気のくせに何を言ってるんですか。メニューに文句は言わせませんよ」
「イッチーのご飯はなんでも美味しいからなんでも嬉しいよ」
「……ほんとにかわいい人ですね」
「え? 何か言った?」
「なんでもありません」
思わず漏れた呟きは、レンには届かなかったらしい。ホッとしてキッチンに入る。どうしてこう、彼に弱いのか。理由のわかっている疑問に溜息を吐くと、冷蔵庫を開けた。
トキヤ的に問題が発生したのは就寝時だ。
「……どうしてあなたもこっちに来るんですか」
ベッドは貸したでしょう、とベッドの下に敷いたマットレスに横になろうとしたトキヤが真顔になる。レンの言い分はシンプルだ。
「家主が客用マットレスで寝るなんておかしな話じゃないか。それに」
「それに?」
「……恋人同士が同じベッドで寝て、何の不都合があるんだい?」
「…………」
思わず目を見開いてレンを見た。その反応をどう受け取ったのか、レンはやれやれと溜息を吐く。
「……どうりで、シャワーの時もなんだか警戒していたわけだ……」
「え、いえその」
「オレ、ちゃんと返事したと思うけど?」
咎めるレンの視線が痛い。思わず俯いた。
「……そう、です、ね」
「信じてなかった?」
「……夢見心地、だった、ので」
「幻想や夢のオレじゃなくて、ちゃんと今目の前にいるオレに触って欲しいんだけど?」
「う……、はい……」
「じゃあ、キスをちょうだい」
「は?!」
目を剥いて驚くと、レンは肩を竦め、何でもないことのように言う。
「仲直りはキス。定番だろう? それに今回はイッチーが悪いんだから、イッチーからのキスじゃないとダメだよ」
「…………」
「……どうしてそんなすごい顔をするかな。オレにキスするの、そんなにイヤ?」
「違います! ただ、あなたに触れる勇気が、その……」
「オレに触れたくて告白してくれたんじゃないの?」
「……そう、です」
「恋人同士なんだから、合意があれば好きに触っていいんだよ。今はイッチーの好きに触っていいって思ってるし……、……触られたいとも思うし」
「レン……」
レンが、神宮寺レンがそんなことを言うなんて。トキヤは思わず天井を仰いだ。
「……思い残すことはありませんね……」
「イッチーそれオレがOKした時も言ってたけど、イッチーは思い残さなくてもオレは残るのわかってるよね?」
オレを残して勝手に逝かないでくれよ。
肉の薄い頬をつねられて、顔をしかめる。こればかりは甘んじて受けた。
「それで、今イッチーがオレにすることは?」
「……すみませんでした」
内心のめちゃくちゃに激しい動悸を抑え、レンの頬に触れーーくちびるに口付ける。当たり前だが、やわらかい感触に感動した。
間近の距離で、レンをじっと見つめる。きれいな夏空色の瞳に、吸い込まれるかと錯覚する。そのままの距離で微笑まれると、自分は死ぬのではないかとトキヤは思った。
「……不合格」
「えっ」
「そんな、子供みたいなキスじゃ、誤魔化されてあげられないな」
もっと、ちゃんと、恋人らしいキスを。
要望には目がくらりと眩む気がした。少し、離れて、正気を。思ったが、レンの腕がいつのまにか首から背へ回されていてトキヤを逃がさない。
少しだけ上目の、ねだるような表情。誰ですかこんなかわいい表情をレンに覚えさせたのは、と心の中の壁を何度も殴打する。
「ね。はやく」
「…………」
心臓が早鐘を打っているのは、おそらく気付かれている。近い距離をさらに縮め、レンのくちびるにくちびるでそっと触れた。二度、三度。それから思い切って彼のくちびるを舐める。
舌で触れてもやわらかさは変わらないことに感動していると、くちびるとは違う感触が舌に触れて少し驚いた。レンの舌だと気付くのと、彼の舌に自分の舌を絡めるのと、どちらが早かっただろう。
「……ン……」
どちらのものとも知れない吐息が漏れる。
もっと触れたいという欲求が急激に突き上がり、貸したパジャマの裾から手を忍ばせて素肌に触れた。
湿度と熱を増した吐息が部屋を満たすのに、そう時間はかからなかった。