「怒ってないわけじゃないからね」
「ええ、もちろん。……カレーのおかわりは?」
「……いる」
「軽めにしておきますよ」
昨晩食べた時より甘みが増したカレーは、結局ふたりで(大半はレンが)食べ尽くした。
そうして宣言通りに茹でてくれたトウモロコシはとても甘くて美味しくて、結局二本食べたしスイカもちょっと食べた。
食べ過ぎてるのかな、なんて疑問を抱くこともせず、食器を洗った後は昼のフリータイム。トキヤはどうやら人間をナントカにするというクッションに埋もれながら昨日買った本を読むらしく、明るいが日が差し込まない場所を陣取っている。
レンはというと、吹き込んでくる風に長い髪を揺らしつつ、無意識に鼻歌を歌いながら昨日買ったSFではないほうの本を眺めていた。小さなサイズのハードカバーの本は全編フルカラーで空の写真と、その空に付けられた名前が載っていた。今まで見た空や、網戸の外に広がる空。さまざまな名前がある。これから小説を読むたび、そこに空があるならどんな空があるのか、考えるのが楽しくなりそうだ。
日が翳ってきたことに気付いたのはトキヤだった。
「目が悪くなりますよ」
そう言ってリビングの灯りをつけてくれる。
食事の支度をしている音を聞いていると、なんとなく幸せになれる。
野菜を洗っているらしい水音も、とんとんとん、リズムよく包丁が野菜を切る音も心地よい。
よくよく考えれば、それらは自分には無縁だった音だ、とレンは気付く。
良いところのお坊ちゃんであるレンは、食事を作るなら専任の者がいたし、そもそも母親はレンが乳幼児だった頃には亡くなっているから「母親の手料理」というものに縁がないし、他の家族も男ばかりでレンのために手料理を振る舞ってくれるような人はいなかった。
トキヤと恋人同士になってから、そういえば初めて料理を作ってもらった時はものすごく嬉しかったことを思い出した。家の料理人が作った料理が嬉しくなかったというわけではなく、好きな人が自分のために料理を作ってくれて、しかもその料理がとてつもなく美味しいと思ったことが、レンの中できらきらした大切な思い出になっている。
「あとは味が染み込むのを待つだけ……、どういう顔をしてるんですか、レン」
キッチンからリビングのほうへ出てきたトキヤが、レンの顔を見て呆れたような表情をする。
「? なんのことだい?」
「……とりあえず、美形をおかしな顔で固定しないでください」
「え、……った、何するんだ、イッチー!」
頬をつねってきた神経質そうな指をはたいて落とす。
「綺麗な顔をおかしくしているので、戻しただけですよ」
「壊れたテレビじゃないんだから……、ん」
詫び代わりとも言わず、唐突にトキヤがくれたキスにうっかりと誤魔化されてしまった。
「あともう少ししないと料理が美味しく仕上がらないので待ってもらうことになりますが、ゲームでもしますか?」
「ゲーム? イッチーを煽れるならしてみたいかな」
「またあなたはそういうことを……、料理を焦がさない程度なら構いませんが」
どういうタイミングなのか、トキヤはたまに甘い時がある。それならそれで乗らない手はないと、座椅子を倒して寝転んでいた自分のほうへトキヤを引き寄せる。時雨のように鳴いているセミの声が、少し遠くになった気がした。たぶんそれは心臓の音が少し忙しなかったせいもあるだろう。
目許、こめかみ、頬、口許。優しい口付けは好きだが、そればかりでは物足りなくなる。トキヤのくちびるを追いかけ、自分のくちびるを押し付けると彼が笑ったような気配があった。むっとしてシャツの背中を強く掻いてやると、今度はくちびるに二度三度と触れ合わせてきて、それから当然のように舌が入り込んでくる。抗うつもりもなかったので受け入れ、舌で舌にからみ、擦り合い、甘噛みして、その間にTシャツの裾から手を入れてトキヤの肌に触れる。
汗ばんでいるのは火を使う調理をしていたせいだろうか。もちろんキッチンには風が入りにくかったせいもあるだろう。
そうやってトキヤに触れているのと同様、トキヤもレンに触れてくる。シャツの裾から入り込んだ指先が、腹筋や腰、胸元を撫でていく。
「ん……、はぁ……」
もっと触って欲しい、とねだろうとした時だ。
陽気な電子音が鳴り響いた。
「……食事の時間ですね。色々作ったので食べてくださいね?」
「…………あぁ」
音の正体は炊飯器が米が炊けたことを知らせてくれたものだったらしい。いいところで、と思わないでもないが、食事は大切だし相手は機械なので八つ当たりも出来ない。
大根と油揚げの煮物と豚バラのチーズ紫蘇巻き、味噌汁はオーソドックスに豆腐とワカメとネギ、おひたしにポテトサラダと、テーブルにずらりと並んだ。
恋人がトキヤで良かったことのひとつは、案外マメで料理上手で多分これもカロリーを考えて作っているのだろうなと思えるところだ。
ありがたく食べきってしまうと、デザートはシャーベットにしたスイカと焼きトウモロコシ。お互いノルマのように食べているが、美味しいのでまだ苦にはなっていない。
それぞれが風呂に入ると、北向きの寝室に敷いた布団にごろりと転がる。そういえばここに来てからスマートフォンなりノートパソコンなりと、ほとんど開いていないということを思い出す。
トキヤが風呂から上がるのはもう少しかかるだろうか。夕涼みをしてもいいだろうか。
浴室の気配を窺いつつリビングに出ると、縁側から外に出る。網戸だけ閉めておけば、室内にも風が抜けるかもしれない。Tシャツにハーフパンツというパジャマは『神宮寺レンが着そうにない夏の普段着』をコンセプトにトキヤが買ってきてくれたものだ。なかなか気楽な服装なので、これはこれで気に入っている。
自然と、空を見上げた。そうして驚く。星がたくさん見えるのだ。たしかに都会のど真ん中からは少し離れているし、周辺の家もひしめき合って建っているわけでもない。
きっともっと自然が多いところ、山の上だとか、海の上だとか、そういったところで見るよりは少ないのだろうけれど、都会の夜空に慣れたレンにしてみれば充分な星の量だ。ロケでもないのにこんなに見られるなんて、ラッキーとしか言いようがない。
家のむこうまではさすがに見えなかったが、上や左右を飽きずに眺めていると、
「そんなところにいたのですか」
声のほうを振り向けば、トキヤがサンダルを履いてやってくるところだった。
「探しましたよ。広い家でもないのに、迷子になったのかと」
「いくらなんでもひどくないかい?」
「心配したということです」
「それは……ごめん。でも、こんな素敵な星空。イッチーと見ることができて、嬉しいよ。……ハッピーバースデー、トキヤ」
ここぞとばかり、滅多に呼ばない名前を呼び、頬にキスをした。
我ながらけっこう甘い空気で言えたと思うしキスも出来たと思う。けれど、星と月の灯りだけでも、表情がちゃんと見えるのがすごい。トキヤはなんだか難しい顔をしている。
「……あれ? もしかして、オレからのキスは要らなかった?」
「……いいえ、そんなことは。……さあ、戻りますよ」
せっかくの空気を不意にするように、トキヤに手を引っ張られる。
「ええ……?」
「星空は堪能したでしょう? それに」
レンの手を引くように家へ戻るトキヤが振り返る。
「これからあなたに誕生日プレゼントを貰わなくてはいけませんからね」