蕩ける温度

 ふぅと息を吐いて足を崩す。
 勉強の合間の休憩はいつものことで、それが蓉司の部屋であろうと哲雄の部屋であろうと変わりはない。ただ飲み物を出すのが自分か哲雄かというだけの話だ。
 カバンから携帯を取り出して時刻を確認する。6時前であることを確認すると、携帯をまたカバンの中へとしまい込む。
「……あ」
 小さな包みが手にあたり、何だったかと思い出しながら取り出す。
 そういえば、帰りしなにいつもの運転手を待つ善弥に絡まれた折、押し付けられたのだ。
「よーちんたち、また勉強? じゃあこれ、休憩の時にでも食べるといいよ〜。結構辛めだったと思うから」
 お裾分け、とビニルの袋ごと渡されて、中まで見ていなかった。
 食べるといいよと言った以上、食べ物には違いないのだろうけれど。
 くれる脈絡がよくわからないが、そもそも善弥に脈絡を求めること自体が間違いであるようにも思う。
 包装を剥がし、手のひらに載る箱を開けると、中に入っていたのはチョコレートだった。
 以前姉がバレンタインデーのプレゼントにくれたことがあるが、このチョコレートもその類のものなのだろうか。4つに仕切られたチョコレートのうち、ひとつを手に取ってみる。裏返してみても、ごく普通の――ちょっと高級な――チョコレートにしか見えない。
 一口サイズなので、そのまま口に放り込んでみる。
 たしかに甘くはない。ビターチョコレートのようだ。
「……!」
 噛み締めると、中からとろりとした液体状の何かが出てきた。舌をびりびりと刺激する。だが、辛いとはまた違うような気がした。
 とはいえ吐き出してしまうわけにもいかず、何度か租借しただけで飲み込んでしまった。
 不味くはない。
 が、中に入っていたのは何だったのだろう。
 ガナッシュのようなものだろうか。それにしては甘くなかった。
 チョコレートは残り3つ。色の濃い、ビターらしきチョコレートはもう1つある。今蓉司が食べたものとは、形が違って上にナッツが載せられている。これも甘くはないのだろうか。
 おそるおそる摘んで、思い切って口の中へ放り込んだ。一口噛み締める。感触は、先程のチョコレートと同じだ。中からとろりとした液体が出てきた。
 舌を焼くような辛さの正体。
 もしかしたら――
「……酒……?」
 甘くはない。
 言いようによっては辛い――のかもしれないが、蓉司の好む辛さとは種類が違う。
 よほど強い酒が入っているのではないだろうか。酒に詳しいわけではないからわからないが。
 ――城沼……
 哲雄なら、わかるだろうか。
 バーテンのバイトをやっていると言っていた。客に酒のことを訊かれることもあるだろう。それなら、これが何の酒なのかわかるかもしれない。
 1つは残しておこう、と思いながら、もう1つへ手を伸ばした。

 哲雄が部屋に戻ってきたのは、その少し後だった。
 
「……崎山?」
 哲雄の声に、蓉司は緩慢な動作で首をそちらに向けた。
 小さなテーブルに盆ごと茶の入ったグラスを置くと、ベッドに頭をもたれさせている蓉司を覗き込んでくる。
「具合、悪いのか」
 そう問われるのも無理はない。
 目は半分閉じているようなものだし、腕と脚は床に力なく投げ出されている。だらけきっている、とも言えるが、いくら休憩とはいえ蓉司がこんなだらしない姿をしていることはなかった。
 じ、っと哲雄を見上げていると、大きな手のひらが額に当てられる。
「熱は……ねえな」
 でも顔が赤い、と気遣わしげな眼差しで見つめられ、ほんの少し居心地の悪さを感じた。
 熱は、ない。
 けれど。
「……あつ、い」
「……?」
 退けられかけた手を掴む。
 いつもは自分より暖かな温度が、今日はどうしたことか、ひんやりとしているように感じる。それが心地好い。
「……城沼の手……、気持ちいい……」
「崎山……何か、あったのか」
「ん……熱い。体が……」
 額から頬、喉、鎖骨のあたりへと哲雄の手を当てていく。
 肌の感触。
 体温。
 どちらも今の蓉司には砂漠で与えられた水のように、肌に染みる。――けれどすぐに飢えてしまう。
 もっと触れていたい。肌に触れていて欲しい。
 ――もっと。
「崎山?」
 戸惑う哲雄の声に答えず、手を離すと制服のベストを脱ぎ捨てた。タイをほどくのももどかしく、ボタンを外してしまうと哲雄の手を掴み、胸元へ当てた。やはり、気持ちいい。
 じっと自分を窺う薄茶の視線。もう片方の手を伸ばして、頬に触れてみる。――手のひらとは違う感触。他はどうなのだろう。
「城沼……」
 頬を撫でた手を滑らせ、首へ回して引き寄せる。間近に迫った顔に、自然と目を閉じた。
 唇が触れ合う。
「……ン……、」
 乾燥していると思った時には、舌で触れていた。荒れたところを撫でるように舐めると、哲雄の舌にくすぐられる。
 お返しにと更に舌を差し出し口内を探ろうとすれば、吸い上げられて甘く噛まれた。いつもの奪うような荒っぽさはなく、どこか優しい、子供の頭を撫でるような口付けだ。
 陶然と唇を合わせていると、不意に肌を撫でられて体がびくりと震える。
「ッ、は……、……」
「……知らねえからな」
 今日はおまえが悪い。
 言われた言葉はほんの少しも理解できなかった。

 
 
「……で? 何があったんだよ」
 事後、気怠い体を哲雄にもたれさせていると背後から問われた。
「何が、って……」
「何かあっただろ。俺が茶、持ってくるまでに」
 取り立てて何かあったわけではない。
 ただ――そう、ただ、食べただけだ。チョコレートを。
「……チョコレート?」
「ああ。翁長がくれたんだ。休憩の時にでも食べてねって」
 体を起こし、勉強していたテーブルの上に放っておいたままのチョコレートの箱を引き寄せる。
「これ。結構辛いって聞いてたんだけど……」
「……辛いのか?」
「いや、辛いっていうか……何か入ってたんだけど、唐辛子とかの辛さじゃなかった。城沼も、食べてみるか?」
 そのために1つだけ残していたのだと思い出し、摘んで哲雄の唇に持って行く。哲雄はチョコレートと蓉司を交互に見つめていたが、やがてゆっくり唇を開いてくれた。
 哲雄の眉根が寄ったのは、そのすぐ後だ。
「……おまえ、これ……」
「どうした?」
「……これ、酒入ってる」
「え?」
「かなり強い酒だろ、これ。わかんなかったのか?」
「舌がびりびりするとは思ったけど……酒だと思わなかったから」
「…………」
 つまり、体が熱かったのはチョコレートに入っていた酒に酔ったということなのだろう。
 原因がわかったのはいいが、かなり大胆なことをした気がする。最中も。
 今更になってそんなことを思い出して体を縮こまらせていると、哲雄に頭を撫でられた。
「気分は?」
「え?」
「悪くないか? 頭、痛いとかは?」
「あぁ……大丈夫」
「そうか。ならいいけど」
 背中から回った腕が、蓉司を包むように抱きしめてくる。
 この温度も、肌も、本当に――不思議なほど蓉司を落ち着かせてくれる。
「……今度、翁長から受け取ったもんは食うなよ」
 また変なもんだと困るから。
 囁きに、大人しく頷いた。

 梅雨も間近な、ある日の出来事だった。
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