帰り道

 意外と、かわいいところがある。
 年下の同級生との帰り道を思い出し、蓉司は胸がほんのり温かくなったのを感じた。



 他人を寄せ付けない雰囲気で、大柄で、鋭い眼をした優等生。得体の知れない迫力も他者を近付けさせないことに一役買っているのだろう、同じクラスになった当初は誰かと行動を共にしているところなど見たことがない。睦の情報によれば、一年の頃も特に親しい人間はいなかったそうだ。
 彼に寄っていくのは一部の豪胆な女子だけで、一時は見るたびに女が違っていたものだから、憶測ばかりの噂も相当流れたという。睦の情報によると、女関係の噂――取っ替え引っ替えだとか――は、かなり信憑性が高いのではないかという。だが哲雄のほうから誘っているところなどは誰も見たことがないらしく、それも男子の嫉妬を買っている一因らしい。
 そんな男とこうして帰路を共にしているのは近頃、珍しいことではない。契機は蓉司たちの担任である上屋がもたらした。病気がちで留年した蓉司の授業の遅れを気遣い、学年でもトップクラスの成績を誇る哲雄に勉強を見てもらってはどうかと提案を受けたのだ。
 気遣われているのはわかっていたからひとつ返事で受けたが、クラスメイトとも関わりを持とうとしないという点では蓉司も哲雄も似たようなものだったから、まさか哲雄も応じるとは思ってもみなかった。
 体が弱い、年上の同級生の勉強を見るなど、内心では嫌がっているのではないかなどと最初は戸惑いもしたたが、三週間が過ぎる頃には慣れてきた。哲雄が嫌がっている様子を見せないせいもあるが、得体の知れない男なりに見せる感情の変化らしきものに蓉司が気付いたせいもある。
 いつもと同じ帰り道、今日は蓉司のマンションで勉強しようと話がまとまり、最寄駅から歩いていた。
 交わす言葉はほとんどないが、気詰まりではない。むしろ初夏の風に穏やかさを感じていると、電柱の陰からひょっこり、猫が顔を覗かせた。
「…………」
 どちらからともなく足を止め、白と黒のぶち猫を見つめる。すぐに逃げてしまうかと思ったが、猫はこちらを見ると小さく鳴き、足元へ近寄ってきた。そうして、哲雄の脚の間をぐるぐると、体を擦り付けるように歩き回る。
「……人懐っこい猫だな」
 思わず蓉司が呟くのと哲雄が腰を落としたのはほとんど同時だ。何をするのかと見守れば、猫の体をそっと大きな手のひらで撫でる。猫はすぐに哲雄の手に甘えるように、首のあたりを擦り付けた。
 撫でる哲雄を窺えば、穏やか、というより柔らかな表情で猫を見つめ、優しげな手つきで顎の下や耳の後ろなどを撫でている。
 そんな表情もするのか。
 思うと、心臓が大きく跳ねた。
「……猫、好きなのか」
「ああ」
 軽く頷き返される。学校で聞いたなら意外に違いなかったが、この時はやっぱりなと思った。それほど哲雄の表情は柔らかい。
 哲雄の隣にしゃがみ込むと、蓉司も猫を撫でようと手を伸ばす。
「おまえも、好きなのか」
「ああ」
 短い毛並みと温かな感触に、蓉司の表情も自然と柔らかくなる。
「動物は好きだ」
「そうか」
 蓉司の言葉に何か納得したように素直に頷き、くちびるは薄ら孤を描いた。精悍な横顔に、視線が縫い止められたように釘付けになる。
 生活感のかけらも見せない、機械のような年下の男が初めて蓉司に見せた、人間臭い表情。
 そんな表情も、できるのか。
 笑顔などまったく想像できなかったししなかったが、こうして目の前にしてみると、やはり哲雄も人間で、年下なのだと改めて思わされる。
「……行くか」
 ひとしきり猫を構った後、哲雄が立ち上がる。猫も哲雄と蓉司に撫でられて満足したのだろう、ひとつ伸びをしてにゃあと鳴くと行ってしまった。
「可愛かったな」
「飼い猫だろ、どっかの」
「なんでわかるんだ?」
「野良だったら逃げるだろ。人に慣れてるだけかもしれねーけど、毛並み、綺麗だったし」
「へえ……詳しいな。飼ってるのか?」
「いや。けど、よく来るのがいるから」
 マンションまでの道程、そんな他愛のない話をぽつぽつとした。思えば、それをきっかけにしてよく話すようになったのかもしれない。





「蓉司ぃー、今日はバーガー屋、寄れる?」
「ごめん。今日は、ちょっと」
 申し訳なく思いながら謝ると、途端に睦が口を尖らす。
「えー、またかよー! 最近ずっとそうだよなー。もしかして、俺のこと避けてる?」
「違うよ。ただ、先に約束したから」
「誰と?」
「……城沼」
「しぃろぉぬぅまぁー?……なに、それって、前言ってた勉強見るとかってヤツ?」
「うん」
「じゃあ、仕方ないけど……それなら明日、付き合ってよ」
「いいけど」
「やった! 約束だかんな! 城沼が何か言っても、蓉司は明日、俺とメシな!」
「わかったよ」
 子供のように嬉しそうにする睦に、思わず苦笑が漏れる。まるで犬のようだ。
 犬。
 ふと思い付きを口にしてみる。
「……睦」
「ん? 何、蓉司」
 帰りかけた睦が振り返る。声を掛けられるとは思わなかったのだろう、不思議そうな表情をしていた。
「犬と猫、どっちが好きなんだ?」
「へっ? 何それ」
 質問の意図がわからないと言いたげに、大きく見開かれた目が数度瞬きした。そんな睦を見ると、思い付きをそのまま口にした自分にバツが悪くなってくる。
「いや、ちょっと聞いてみたかっただけなんだけど……」
「へぇ、めっずらし……あ、悪い意味じゃないかんな!」
 慌てて否定する睦に「わかってるよ」と笑う。すると安心したようにほっと息を吐いた睦が「そうだなー」と頬を掻いた。
「俺は、犬かなー。うちも犬飼ってるし」
「そうなのか」
「うん、メリーっていうんだけど……あ、今度写真持ってくるよ」
 愛犬家らしい睦の言葉に笑みを滲ませる。やはりペットを飼っていると、人に見てもらいたくなるのだろうか。
 そんなことを思いながらペット談義に陥りかけた会話を切り上げて、昇降口へ向かう。先に教室を出ていた哲雄が、目立たぬ場所で待ってくれていた。
「ごめん、遅くなった」
「構わねぇよ。三田に捕まってたんだろ」
「まあ、そう……かな」
 一方的に捕まっていたと断言はできないが、たいしたことを話していたわけではない。
 言葉少なに歩き出しながら、蓉司はちらりと隣を窺う。
 教室にいる時はやはり見えない壁のようなものを感じたが、今はそうでもない。不思議なものだ。哲雄は哲雄で、演技をしているだとか装っているだとか、そういう雰囲気は一切ない。蓉司自身にしても自分が変わったという意識はないから、哲雄に対する印象の変化はどこから来るのか。
 考えごとをしていると、足元が疎かになっていたらしい。
「う、わ……っ」
 がくりと膝から崩れる。段差に気付かず、踏み外した。このままだと顔面を打つ――
 だが、蓉司の顔が地面に打ち付けられることはなかった。
「……大丈夫か」
 すぐ傍で、哲雄の声。思わず瞑っていた目を開き現状確認をすれば、哲雄に上腕を掴まれている。おかげで転ばずに済んだのだ。
 ほっと息を吐く。
「ごめん。……ありがとう」
「構わねぇよ。考え事でもしてたのか」
「ああ……うん」
「何考えてたんだ」
 足元見てねぇと危ねーぞ、と頭を撫でられる。やっぱり手が大きいなどと思いながら、正直に答えていた。
「別に……城沼のこと考えてただけだけど」
「……俺のこと?」
 怪訝に眉を顰め、真っ直ぐ見つめられる。そんな表情をされるようなおかしなことを言ったつもりはない。
「猫好きなところとか、学校での城沼しか知らない奴が見たら、すごい驚くんだろうなって思って」
「…………驚いたのか、おまえも」
「意外だったかな」
 先日、道端で猫と戯れた時のことを思い出して小さく微笑む。あの時の哲雄から感じるいつもの壁や硬い雰囲気は、薄らいでいた。思い込みかもしれないが、そう感じたのだ。
「いっつも無表情だし何考えてるかわかんないけど、猫に対してはそうじゃなかったから」
「猫は喋らねぇし、鬱陶しくねぇから」
 その言葉に、引っかかりを感じた。が、それを言葉として近くするより先に、まだ哲雄に腕を掴まれたままだという事実のほうを思い出してしまった。
「あ……悪い。もう大丈夫だから」
「ああ」
 腕を解放されると、ゆっくり歩き出す。
 本当はもっと早く歩くのだろうに、蓉司を気遣ってかテンポを合わせてくれるのが面映ゆい。そんなこと気にしなくてもいいのに、そんな細やかな気遣いをくれるなんて誰が知っているだろう。
「……誰にでも、そうなのか?」
「……?」
 意味を問う視線が横目に投げられる。
 さすがに端的すぎたかと、蓉司は言葉を足した。
「歩く速さ合わせたり、さっきみたいに支えてくれたり、考えてみたら勉強見てくれるのも面倒だろ。誰にでもそうするのかと思って」
「誰にでも、ってわけじゃねぇよ」
 ぶっきらぼうに返された答えの意味を、どう捉えればいいのだろう。
 黙り込んだ蓉司をどう思ったのか、歩きながら哲雄が更に言い放つ。
「おまえだけだ」
「……えっ……」
 今度こそ意味を捉え損ね、蓉司は思わず脚を止めた。数歩先まで行き過ぎた哲雄が振り返る。そこにあるのは常と同じ表情――に見えたが、少し違うような気がした。どこが違うかなんて、うまく言い表せないけれど。
 戸惑う蓉司を促すように、哲雄は「行くぞ」と踵を返して駅への道を辿る。慌てて横に並びながら、今の言葉はどういう意味かと訊いても「そのままの意味だけど」とつれない返事を返された。
 どういう意味だろう。
 そのままの意味、で良いのか。
 歩く速さを揃えてくれるのも、勉強を見てくれるのも、転倒しかけたのを支えてくれるのも。
 自分だけだと。
 女ならその言葉を素直に受け取り、喜べば良い。だが蓉司は男で、哲雄も男だ。額面通り受け取って喜ぶわけにもいかない。
 友情、と言い切るには腑に落ちない。割り切れない。
「崎山。大丈夫か」
「え……?」
「変な顔、してる。どっか具合でも悪ぃんじゃねーの」
 そんなつもりはなかったが、哲雄の言葉の真意を考えているうちに百面相をしていたらしい。焦って大丈夫だと返したが、哲雄は微妙な表情をしていた。本当に具合は悪くないのかと疑われたのかもしれない。
「おまえこそ、どうなんだよ」
「何が?」
「誰にでも油断してるのか」
「油断?」
 どういう意味だと目線で精悍な横顔に問えば、一瞥される。
「さっき。転びかけただろ」
「……たまたまだろ。しょっちゅう転ぶわけじゃないし」
「そうじゃねーよ」
「?」
「他の奴のこと考えて気ぃ取られて躓くこと、あるんじゃねーの」
「ないよ。そうそう他人のことなんて考えないだろ、普通」
 きっぱり否定すれば、今度は哲雄が歩む足を止めた。
「城沼?」
 どうかしたのかと顔を覗き込むと、顔を逸らされた上に大きな溜息まで吐かれた。――ますます意味がわからない。
「おまえさ……」
「何」
「……いや、いい」
 もう一度息を吐き出し、思い直したように歩き出した哲雄に更に問いを投げかけようとしたが、ふと目に入ったものに気付き、すべてが吹っ飛んだ。
 もともと哲雄の肌は蓉司の肌と違い褐色だ。日焼けではなく地肌の色がそうなのだと言っていた。おまけに表情の変化が乏しいのは前述済みだが、顔色にしても変わるところを見たことがない。
 だが――
 その時の城沼の耳殻は、たしかに薄らと朱を帯びていた。
 目にしたのは数度瞬きする間のことだが、見間違いではない、はずだ。
 どうしてそこで耳が染まるのか。
 訊きたかったが、できなかった。
 おそらく自分も哲雄以上に耳が染まっているであろうことを、蓉司は自覚したからだ。おまえはどうして朱くなっているんだと問い返された場合、上手く言い逃れる自信はない。
 だから黙って顔を背けて足を動かすことしかできなかった。
 たとえ誰かがふたりの様子を見て不自然に思ったとしても、その日は哲雄の家に着くまで、どちらかが口を開くことはなかった。
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