――ああ、まただ。
蓉司は目の前で繰り広げられる、ある意味においては見慣れた光景に溜息を隠さない。
「いっつもおまえと勉強ばっかじゃ、蓉司の息が詰まるだろ!」
「試験は再来週だ。おまえも遊んでる場合じゃないだろ」
「俺は直前になってエンジンがかかるタイプなんだっつの! おまえに言われなくても大丈夫ですー」
「そんなことは、一教科でも俺に勝ってから言え」
挑発的な哲雄の言葉に、睦が明らかに怒りを燃やした。犬か猫なら毛を逆立て、牙を剥いて唸っているところだろう。
対する哲雄は、親しい人間だからこそわかる程度の表情の変化だ。ロボットだと同級生たちに陰口を叩かれても仕方がない。それがいっそう睦の怒りを煽る。それをわかっていてやっているのかいないのか。
「……ほんっとムッカつくよなぁ、城沼ってさああ」
「そいつはどーも」
「褒めてねえ! 蓉司ー、蓉司もなんか言ってやってよ、この石像に!」
矛先がこちらへ向けられそうな気配に、蓉司は「ふたりとも、落ち着けよ……」としか言いようがない。何度となく繰り返されてきた光景だが、飽きずに応酬するふたりはもしかしたら律儀なのだろうか。
事の発端はと言えば、放課後、そろそろ帰ろうかと支度をしているところに睦がやってきて、帰りにファーストフードにでも寄らないかと誘いを掛けてきてくれたのだが、生憎と先約があった。それを告げると睦は嫌そうな顔をして、哲雄もどうせどちらかの家で勉強するのだからと蓉司の席へやってきたところで、戦いの火蓋が切って落とされたのだ。
たしかに睦の言う通り、このところ放課後は哲雄と一緒にいることは多い。が、それは目前に控えた試験のためでもあるし、ひいては進級のためでもある。蓉司と親しくしている睦がその事情を知らないわけではない。わかっているからこそ気遣ってくれたことも多々あった。
学校にいる間は睦と一緒にいる時間が多い。喋っている時間だけなら確実に最多だろう。休み時間など気が付くと蓉司の席へ睦がやってくるからなのだが、どうにもそれだけでは喋り足りないらしい。蓉司は人付き合いの良いほうではない自分をわかっているため、よく構ってくれるなあと感心することしきりではあるが、頻繁にこんな状況に陥ってしまうのは何とかならないものかと頭を悩ませることがしばしばだ。
哲雄にしても、たいていの生徒相手なら適当にあしらうくせに、睦に対してはかなりまともに相手をしている。喋る量で言えば、一番喋っているのではないかと思う。見方を変えれば、このふたりは仲が良いのかもしれない。が、本人たちに言えば全力で否定されるのが目に見えているので止めておく。
何度目かわからない溜息を吐いたところで、「よーちーん」と明るい声が背中から降ってきて、重みが伸し掛かってきた。振り返らなくても誰だかわかる。こんなことをしてくる人間はひとりしか心当たりがない。
「……翁長。……重い」
「まこっちゃんとてっちゃん、相変わらずだねえ」
遠回しに退けと言った言葉は、さりげなく無視された。更なるトラブルメイカーの登場に蓉司はいっそう気鬱になりながら、こめかみのあたりを指で押さえる。
先程とは別の意味で溜息を吐くと、善弥が顔を覗き込んできた。
「なになにー? 今日はみんな一緒に帰るのー?」
「いや……俺は城沼と勉強するんだけど、睦が遊びに行こうって」
「先に約束したのはどっち?」
「城沼」
「あー、最近よーちん付き合い悪いもんねえ。てっちゃんとばっかり一緒だしー」
「そ、そんなことはないと、思うけど……」
改めて他人に指摘されると、やはりそうなのだろうかと考えさせられる。だが、目的は勉強だ。決して疚しいものではない。断言できる。
善弥はと言えば、にこにこと子供のような笑顔で哲雄と睦の遣り取りを眺めていたが、ふと悪戯な眼を輝かせて蓉司を見た。
――嫌な予感がする。
口には出さなかったが、そう思った。たいていの場合、有り難くないことにその予感は当たっている。
「あのふたり、ほんとに仲がいいよねえ」
「……翁長も、そう思うか?」
「思う思う。でも、素直じゃないからああなっちゃうんだよね、きっと。でさあ、よーちん。俺、いいこと思いついちゃったんだけど」
――来た。
言葉には出さずに心構えをする。
「……いいこと?」
「そ。いいこと。上手くいったら、てっちゃんとまこっちゃん、喧嘩せずに仲良くなることが出来るかも!」
「……そんな方法、あるのか?」
「よーちんが協力してくれれば、できるよ。……たぶん」
にこにこと愛想よく浮かべている笑顔からは、内心がまったく読めない。哲雄とは別の意味で、善弥の考えていることは蓉司には理解不能だった。
だがいつまでも、いつ終わるとも知れない口論の決着を待っているよりはいいかもしれない。
普段の蓉司ならそんなことは思いもしなかっただろうが、この時は善弥の言葉に興味を示した。ふたりの不毛な舌戦にいい加減疲れていたのだと、後になって思う。
「協力って……何をすればいいんだ?」
「簡単だよー。まず、ふたりにバレないように外に出よ?」
激しい口調の哲雄と睦の舌戦は、どうやら下らない内容にまで及んでいる。今のところそちらに集中しており、外野の行動まで視野に入っていないのは間違いない。蓉司は自分の鞄を肩に掛けると、善弥に庇われるようにそっと教室を出た。
「翁長……この後は、どうするんだ?」
「んー? ふふふ、そろそろ来てるかなー」
「来てるって……何が」
「まあ、いいじゃない。とりあえず俺に任せてー」
「ちょ……手は繋がなくてもいいだろ」
「気にしない気にしなーい」
鼻歌まじりで蓉司の手を引っ張って先導する善弥に引きずられるように歩きながら、選択肢を間違ったかもしれないと後悔しても、後の祭だった。
「だから、今日くらい……おいちょっと待て城沼、話終わってねーぞ!」
急に自分に背を向け、鞄を手に取った哲雄に睦は苛立ったまま行く手を遮るように仁王立ちになり、睨み付ける。
無論哲雄がその程度で怯むはずもなく、先程まで同様、冷ややかな視線を返された。ほとんどの同級生はこの視線に怯んですごすごと引き下がるのだが、睦は持ち前の負けん気で受け止める。
だが次に哲雄が発した言葉には、心底から驚かされた。
「……崎山がいない」
「は? 蓉司ならさっきからそこに……」
座ってただろと言いながら振り返ったのは、蓉司の席。先程まではたしかにそこに座っていたのに、今は誰もいない。慌てて教室を見回すが、誰の姿もなかった。級友たちもとっくに下校してしまったらしい。
「いねえ?! ちょっ、城沼、おまえ隠してねえだろうな?!」
「……馬鹿か」
本気で馬鹿にした哲雄の視線を受けて、さすがに馬鹿なことを言ったと睦も小指の先ほど反省をした。だが、しょげている場合ではない。
「先に帰った……とか?」
「本気でそう思うか?」
「いや、蓉司なら待ってくれると思う。いっつも、そーだし」
どうなるにせよ、駅までの道程は三人同じだ。だから蓉司が勉強で睦の誘いに乗れない時でも、駅までは一緒に帰ることが多い。今日も最終的にはそうなるだろうと思っていた。睦だって蓉司の勉強の邪魔はしたくないのだ。けれどいつもいつも哲雄と行ってしまうのを見送るのは癪で、だから時々こうやって絡んでしまう。苦笑しながらも本気では怒らないあたりが蓉司らしいし、そんな大らかな一面も睦は気に入っていた。
だから今、この場に蓉司がいないというのは睦にしてみれば――おそらく哲雄にしてみても、ありえないことだ。
――とうとう見捨てられたとか。
蓉司に限ってそれはない、と睦は内心で強く否定する。今見捨てられるくらいならとっくの昔に見捨てられている、というより、蓉司はそういう性質の人間ではない、と確信していた。だから違う。
けれどどう見ても自分たち以外に誰もいない教室に、上手い説明を加えられそうにはない。
途方に暮れかけた時、尻ポケットに入れていた携帯が鳴った。
「誰だよ、こんな時に……」
もうひとつ、自分のではない着信音は哲雄の携帯だろうか。どうでもいいが。思いながら自分の携帯電話の画面に目を走らせる。
着信はメールだった。
ほとんどふたり同時に、メールの受信画面を確認した。一読して、更に再読する。
「……これ……」
「…………」
差出人は、蓉司だ。が、問題はそこではない。
メールの内容に息を飲む。
『今、連れて行かれてる。ふたりで、助けに来てくれ』
『さっき、重い扉が開く音がした。たぶんまだ校内。暗い』
氷水を頭から掛けられたような衝撃。
すっと、血の気が引いた。
「本当にこっちかよ」
「だったら別の場所探せよ、おまえは」
振り向きもせず素っ気ない言葉を返した哲雄の背に舌を出す。
闇雲に探し回って意味がないことは睦もよくわかっている。急がば回れというやつだ。だからこうして意を曲げて哲雄と行動を共にしている。哲雄が確信のある行動をしていなければ、睦は別行動をしていたに違いない。
これではまるで哲雄に責任をなすりつけているみたいで格好悪い。いや、蓉司がいなくなったのは哲雄のせいでもあるのだから間違ってはいない。自分に言い聞かせると睦は溜息を吐いた。
一階から中庭へ出る扉を開く。大股に走る哲雄は、どうやら睦にも馴染みの建物へ向かっている。
「……聖堂? ここに、蓉司がいるっていうのか」
哲雄は睦の呟きには答えず、聖堂の扉に手を掛ける。普段なら鍵が掛かっているはずの扉が開くはずがなかったが、予想を裏切り、ゆっくりと開いた。
明かりの点いていない聖堂の中は授業で入堂する時より踏み入りがたい空気に包まれている。外よりいっそう冷えた気温。ステンドグラスから入る夕方の陽光だけが唯一の光源だ。
「蓉司! いるのか?」
聖堂内に響く睦の声に返事はない。人の気配もない。それでも睦はあちらこちらと椅子の下まで覗いて回る。
「蓉司ー!……ここじゃねぇんじゃね?」
入口にいたはずの哲雄を振り返るが、そこにはいない。慌てて堂内を見回せば、いつも聖教者がありがたいお説教を垂れる時に使う、腰ほどの高さの机の前にいた。
「おい、城沼ぁ!」
こいつの嫌なところは人の話を聞いるのかわからないところだと舌打ちのひとつもしたい気持ちで睨むと、哲雄は睦の眼前に白い紙を突きつけた。
「あ? 何だよ、それ」
「ここにあった」
「見せろよ」
睦の言葉に、哲雄は意外にあっさりと紙――ノートの切れ端に文字を書き付けたものを見せてくれた。
そこに書いてある文字に目を走らせ、一度首を傾げてもう一度じっと見る。
「……なんだこりゃ」
頓狂な声をあげてしまったのも無理はない。
そこに書いてあったのは、とても意味があるとは思えないような言葉だった。
『必ず行くのに、滅多に行かないところ。普通はひとつだけど、ここには三つずつある。そのうちのよく行くところ』
声に出して読んでみてもよくわからない。
哲雄の感想は、いっそ爽快だった。
「崎山の字じゃない」
見ればわかる。当たり前だ。
突っ込みたいところをぐっと堪え、紙片を指先でつつく。
「誰かの悪戯じゃねーの」
「何のために」
「俺が知るかよ。それとも、哲雄はこの意味不明の文章が蓉司が誰かに連れて行かれたのと関係あるっていうのか?」
「ない、とは断言できない」
「なんで?」
曖昧な物言いだが、哲雄の視線は紙片に落とされたままだ。睦を顧みることなく、言葉を続ける。
「ここ、授業以外で使うことはねぇだろ、ほとんど」
「ああ……そうだな」
「最後に使ったのがどこのクラスか知らねぇけど……掃除するだろ」
「それが?」
「気付くだろ、普通。当番の奴が」
哲雄の言葉は睦の意表を衝いた。
確かに、哲雄の言う通りだ。
掃除当番がサボりつつも一応掃除をしたのなら、こんな紙切れが目立つところに放置されているままというのはおかしい。たとえサボッた生徒に見落とされたとしても、掃除終了後に見回りに来る牧師が気付かないはずがない。
「じゃ……誰かが掃除の後に置いたってことか」
「そうなる。おまけに、わざわざ鍵も開けっ放しにしたままだ」
加えて、蓉司からのメール。
あれが確実に聖堂のことを指しているのであれば、この紙は間違いなく睦と哲雄に宛てられたものだ。
ようやく睦も哲雄の言葉を信用する気になった。
「じゃあさ、これもまたどっか……学園内の場所を示してるって言うのか?」
「だろうな」
「だーっ、もっとわかりやすく書けっつーの! どこだよこれ! 何なんだよこれ! 意味わかんねー!」
訳のわからなさに頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。対照的に哲雄は紙片に視線で穴を開ける気かと勘繰りたくなるほど、文章を反芻していた。
諦めて学校中を手当たり次第に探したほうが早いんじゃないかと睦が口にしかけた時、哲雄が動いた。
「行くぞ」
目的語のない言葉を寄越しただけで聖堂を出て行こうとする哲雄に、睦が慌てて後を追う。
「おい、なんだよ。わかったのかよ!」
「ああ」
おそらく「どこだ」と訊いても答えは返ってこない。睦にしても、哲雄の後を追うのが精一杯だ。
あの城沼哲雄が学園内を走っている。
そう思うと奇妙でもある。優等生の模範のように思われている男が、無表情に階段を駆け上る様など、一体誰が想像できるだろうか。
込み上げてきた笑いは、哲雄がある場所で止まったことで慌てて誤魔化した。
「ここは…………男子トイレ?」
気が抜けた声を発してしまった。
けれど、誰でも同様な声を出しただろう。走ってまで来た場所が男子トイレ、おまけに睦たちのクラスがある階のトイレなのだから、教室まで戻ってきたに等しい。
「なんだよ城沼、こんな時に用でも足すのか?」
だから急いでいたのか――というわけではないらしいことは、振り返った哲雄の冷たい視線で理解した。「馬鹿かおまえは」と言ったのがわかる視線というのも、すごい能力だ。まったく嬉しくはないが。
ともあれ、それならここが意味不明の文章が示した場所ということになるのか。哲雄の後に続いてトイレへ入り、見回す。一見しても、特に変わった様子はない。
「なんもねーじゃんか。蓉司もいねぇし。違ったんじゃねーの?」
「……あった」
「えっ?」
個室を覗き込んでいた哲雄の脇から頭を突っ込む。
「…………ふざけてるな」
トイレットペーパーの紙を切り取る部分に挟まっていたのは、先程と同じくらいの大きさの紙片。ただし、書いてある文章は違うようだ。
哲雄が取り上げて読む。
「チャンピオン決定場所」
「は?……それだけ?」
「これだけだ」
睦の目の前に紙片が翳される。哲雄の言葉通り、たったそれだけの文字が記されている。筆跡はやはり蓉司の物ではない。先程の文章を書いた人間と同じ筆跡な気はする。癖が似ていた。だがそれがわかって何になるというのだ。蓉司が紙片から出てくるわけではない。
廊下に戻ると、睦はいよいよ深い溜息を吐いた。
「チャンピオンって何だよ……もーマジ、意味わかんね。……おまえ、なんか心当たりあるか?」
「……どっちかといえば、おまえじゃねーの」
「は?」
目と口をこれ以上ないくらい開いて哲雄を見上げた。
「心当たり。あるとすればおまえだろ」
いきなり何を言い出すのだ、この男は。
チャンピオンなんて、これっぽっちも――
「あ!」
不意に脳裏に閃いた。
「大食い王座決定戦! そうだ、去年俺、チャンピオンだっけ……」
「どこでやった?」
「体育館!」
答えながらふたりして走り出している。どうにも、先程から走ってばかりだ。
元体育会系としては、この程度の走りなど走る内に入らない。だがちっとも体育会系に見えない哲雄が息も切らしていないのは少しだけ気に入らなかった。
「三田」
背後から哲雄に声を掛けられ、走りながら振り向く。
「なんだよ?」
「こっち」
「あ?」
哲雄が指さした方向は、目指す体育館から逸れている。
目的地はわかっているのに何故違う方向を示すのか、哲雄の真意を図りかねて首を傾げると、言葉を足してくれた。
「裏から回る」
「裏ァ? なんで裏なんかから……」
「目立たないように行くだろ、崎山連れて移動してるんなら。だったら裏だ」
そう言われてみればそうだ。
体育館ではまだ部活中の生徒が多く残っているはず。睦が以前所属したバスケ部も、体育館で練習中だろう。そんな中、堂々と拉致した人間を連れて歩くような奴はいない。あの紙片が指しているのが大食い王座決定戦の舞台であるなら、体育館のステージがまさにその舞台だから、さぞかし目立つだろう。
いちいち細かな点に気付き、指摘するのが哲雄だというのは面白くないが、腐っている場合ではない。哲雄に並び、体育館裏へと回る廊下を走り抜ける。数人の生徒や顔見知りとすれ違ったが、哲雄も一緒だったため、声を掛けられることはなかった。
鼻歌交じりで半歩前を行く善弥に手を引かれながら、蓉司は今度はどこへ行くのかと尋ねた。
「んー、次で最後、かなー。よーちん、疲れちゃった?」
「あれだけ歩き回れば疲れるだろ、普通」
「えー、そーお? 俺はぁ、よーちんと一緒だったから疲れなかったよー?」
「……なんだよ、それ」
「言葉の通りだよー? あ、よーちんはここまでね」
昇降口に到着すると、善弥は掴んでいた蓉司の手を離した。
「ここまで、って……」
機嫌の良い笑顔を見せている善弥が、蓉司に向かって紙とペンを差し出した。
「最後の場所はぁ、よーちんがひとりで行くんだよ。で、その行き先を、さっきまで俺が書いてたみたいに、それに書いて」
「え……」
「あ、渡すのはてっちゃんにだけだから。そのつもりで書いてねー」
「城沼、だけ……?」
今、校内で蓉司を探しているのは哲雄だけではない。睦も一緒のはずだ。それなのに哲雄にだけとは、どういう意味だろう。
蓉司の疑問を察したらしい善弥は「うふふ」と声を出して笑う。
「まこっちゃんはー、俺と一緒に帰るから。新しいシャツが欲しいんだけど、まこっちゃんにも付き合ってもらいたいんだよねー」
だからてっちゃん宛てだけだよと笑顔を崩さない。
「……そう、言われても……」
「ほらほら、早くー。急がないとふたりが来ちゃったら意味がなくなっちゃうよー?」
急かされても急に思い付くものではない。
だがなんとか心当たりの場所をそれっぽく書くと、紙片を折り畳んで紙とペンを返す。善弥はいつも持っているバッグから白い封筒を取り出して紙片を入れると、封筒の表に「てっちゃんへ」と、ハートマーク付きで書いていた。
「これでオッケー! じゃ、よーちんはその場所に行ってスタンバイしててねー!」
「あ……ああ……」
手を振る上機嫌の善弥に見送られながら、踵を返して歩き出す。意図はさっぱりわからなかったが、とりあえずは言われた通りにしておこう。後で何をされるかわからない。蓉司にしてみれば、何が起こるにせよ、そちらのほうが恐ろしい。
連れ回されている間も、何が何だかよくわからなかった。これで本当に哲雄と睦の仲が良くなったりするのだろうか。正直、未だに半信半疑なのだが、これは仕方がないと言っていいはずだ。
こんなことをしているうちに、陽はとうに暮れている。濃紺の夜空には星や月が煌めき、近所の家々には明かりが灯り、練習に熱の籠もっている部活の元気の良い掛け声や、ブラスバンドの楽器の音がどこからか聞こえてくるのが存外、心地好い。
普段はこんな遅い時間まで学校に残ることは滅多にない。図書館や化学準備室で調べ物や勉強をする時くらいだろうか。だがそれも様々な邪魔が入るので頻繁ではなかった。
中庭を突っ切り、旧校舎の階段を上る。見慣れた扉をそっと開くと、肌寒さを感じる風が吹き抜けた。フェンスの傍までくると、バッグを下ろして外の景色を眺める。
携帯電話で時刻を確認すれば、五時をとうに過ぎ六時に近かった。徐々に日が長くなっているとはいっても、暗くなるわけだ。蓉司は息を吐くとフェンスを背もたれにして座り込んだ。
いつも屋上に来る時はたいてい昼で、午後の太陽が心地好い。こんな時間に来ることはないが、もっとずっと暗いのではないかと漠然と思っていた。フェンスの向こうへ視線を投げれば民家やビルの明かりが暗闇の中で散らばっている。後片付けをしていない玩具のようでもあり、豆電球をまばらに点灯させたようでもある。
知っている場所なのに知らないところへ迷い込んでしまったような不安をくすぐるように、風が、カルキの匂いを運んでくる。
いつまで待っていればいいのだろう――そもそも、哲雄と睦が善弥の悪戯に付き合っているという保証はどこにもないのではないか。とっくに帰ってしまったということも考えられる。
ポケットから携帯電話を取り出すと、画面を眺める。
今どこにいる? なんて、それだけを訊くために電話をするのは躊躇してしまう。メールなら良いだろうか。
思案していると蝶番の軋む音がして、扉が開いた。思わず顔をそちらに向ける。見知った姿が現れると、蓉司は安堵の溜息を吐いた。
「……城沼……」
「……やっと、いた……」
気を抜いたような息を吐くと、蓉司の傍までやってくる。横に立つ哲雄を見上げると、こめかみから汗が伝うのが見えた。息を切らした様子はないが、肌寒いこの時期に汗を流すほど走った、ということだろうか。
「大丈夫、か?」
「こっちの台詞だ」
「え?」
「途中で何となくわかったけど……メール、心配した」
「あ……」
隣に腰を下ろした哲雄の顔をまじまじと見つめる。
善弥の口車に乗って教室を出た後、言われるがままに送ったメールの内容を思い出した。蓉司が受け取ったなら、たしかに心配したに違いない。
「……ごめん」
「翁長だろ、あれ」
「えっ?」
「メールもだけど、メモ。色んなとこに置いてあった奴」
「あ……ああ、そう。翁長が書いたんだけど、よくわかったな」
「字が、おまえのじゃなかったし。……つか、」
哲雄が真っ直ぐ蓉司を視界に捉える。
「体、大丈夫か」
「体?」
「歩き回ったか走り回ったかしただろ、校内。疲れてないか?」
「ああ……少し。でも、疲れより……ちょっと寒いかな」
制服の上着は着ていたが、首回りを撫でていく風はどうしようもない。哲雄はわずかに眉をしかめると、蓉司の手を取って立ち上がった。
「城沼?」
「帰ろう。風邪、引くだろ」
「あ……ああ」
見れば、哲雄も鞄を持っている。そのまま帰るつもりで鞄を持ったまま校内を探し回ってくれたのか。罪悪感が胸を衝く。
そうとも知らず、哲雄は蓉司の手を引いて屋上から校内へと扉を開けた。
掴まれた手首からは、哲雄の手の温かさが伝わってきた。夜風に冷えたからだがそこから暖まるようで、嬉しくなる。
「……メモ、よくわかったな」
善弥に渡された紙に書いたのは、たった一言だ。
――いつもの場所。
哲雄は振り返らず、吐息で笑った気配だけが伝わった。
「わかるに決まってる」
「そう、か……」
「けど、封筒のほうは翁長だろ、これ」
階段の踊り場で立ち止まると、鞄の中から白い封筒を取り出す。たしかに善弥が持っていた物と同じ物に見える。表には「てっちゃんへ」とハートマーク付きで宛名が書かれていたはずだ。哲雄はそれを裏返し、表のほうを蓉司に見せた。
そこには『てっちゃんへ』以外にも、
『ハッピーバースデーてっちゃん! 遅れちゃったけど、俺からの誕生日プレゼントだよ〜! ただし今日限定ね!』
と癖のある字で書かれている。
別れた後で付け足したのだろう、とは思うが……
「城沼の誕生日って……四日だったよな?」
「ああ」
だから遅れちゃったけど、なのだろう。
それにしても、あれは哲雄と睦の仲をよくするため、のことではなかったのか。どうにも善弥の行動は真意がわかりにくい。一体どちらのためにあんな手の込んだ真似に巻き込んだのか。今度会ったら訊いておこう。――善弥が覚えているかどうかはわからないけれど。
封筒を鞄にしまうと、哲雄はまた蓉司の手を引いて歩き出す。
校内に残っている人がいなくて、良かった。
見られることを気にしなくて良い。
男同士で、まして哲雄と手を繋いでいるところを見られた日には、一体どんな恐ろしい噂を囁かれるのか、わからない。噂自体はどうでも良いが、他人にとやかく言われるのは嫌だと思う。
哲雄のことなんて、知ってる人のほうが少ないのに。
本当はどんなに優しくて、不器用な男か――報せて回る気もないけれど。
「……どうした?」
下駄箱で靴を履き替え、昇降口を下りる。哲雄が軽く振り向いた。気遣わしげな顔に「なんでもない」と微笑を返すと、今度は蓉司が城沼の手を取った。哲雄の薄茶の目が、わずかに見開かれる。驚いたのだと思うと、愉快な気持ちになった。
いつもいつも自分ばかり驚かされているのは、癪だ。
「……崎山?」
「早く帰ろう。……勉強、教えてくれるんだろ」
「ああ……」
手を繋ぐのは、駅前の通りに出るまで。それまでなら、ほとんど人目に付かず歩ける。
いつもより少しゆったりとした速度で歩きながら、気恥ずかしさより嬉しさが勝っている自分の気持ちが信じられなかった。嫌ではないのだけれど、不思議な気分だ。
明日は土曜、休日だ。何もなければそのまま泊まっていけばいい。
口には出さず、哲雄の整った横顔へ話しかけた。
こんな気分を、気持ちを、なんというのだろう。本当に言葉はもどかしい。今の気持ちそのままを伝える単語は見当たらない。見当たらないから伝えられないではないか。
街灯に照らされた歩道を駅まで辿る間、蓉司は自分の少ない語彙の中から一生懸命単語を探していたが、結局見付からなかった。
仕方ない。
諦めではなく、どちらかといえば前向きにそう思う。
今見付からなくても、いずれ見付かるかもしれない。
その時に、哲雄に伝えられれば良い。
整った横顔は相変わらず何を考えているのか窺い知れなかったが、それは哲雄も同じではないか。哲雄も、蓉司が考えていることはわからない、だろう。お相子だ。
だから、
いずれ、見付かった時に。
あまり早くその時が来なければいいと願い、繋いだ手をそっと離した。