隣から聞こえるかすかな寝息に、哲雄は車窓に視線を遣ったまま眼を細める。そこには常の鋭さはない。
自分の肩へとかかる重みが数分前から徐々に増していた。多分こうなるだろうという予測もあったから、驚かなかった。
程よく空調が効き、適度のざわめきがあり、不規則な振動はまるで赤子をあやす母親の手の動きに似て、おまけにまた寝不足だと言っていた。これで眠らないほうがどうかしているほど条件が整いすぎている。
疲れたもあったのだろう。
蓉司は今日、哲雄に付き合って、彼らの最寄り駅から数駅離れた駅近くの大型の本屋へ来てくれた。
間近に迫った試験勉強兼受験勉強をする予定だったが、学校から駅までの帰り道、たまたま取り寄せを依頼していた本屋から連絡が入り、それならついでに問題集も物色しようということになったのだ。
結局、問題集を物色するだけでは収まらず、カフェで一息ついたのを挟んで文庫や新書本までチェックしてしまった。
蓉司は哲雄について回り、哲雄が引き取った本や手に取った本を興味深そうに覗き込んだり、質問したりしていた。それらの質問や感想は哲雄にしてみれば他愛のないことであり意外なことであったが、蓉司の反応がいちいち新鮮でもあり、可愛いとも思えたため、ついつい本屋に長居してしまった。
黒髪がさらりと哲雄の肩を擽る。長い前髪が目許を隠していて、表情はよくわからない。だがきっと穏やかな顔をしているのだろう。いつか見た寝顔は、苦しみも警戒も怯えもない、まるで子供のようだった。いや、むしろ家によく来る猫のほうが近いか。
実際、勉強を見るようになる前の蓉司は懐く前の猫そのもので、誰も信用していない、警戒心の強そうな眼を哲雄だけではなく周囲へも向けていた。自分から、周囲への関わりを嫌っていた節もある。
それが今では哲雄だけでなく、睦や善弥、クラスメイトへの接し方も変化した。柔らかくなった、と思う。見た目よりはぼんやりしたところがあるし、どこか放っておけない、目を離せないのは出会った当初と変わらないのだが。
車内アナウンスが流れて人の出入りがあっても、蓉司が目を覚ます気配はない。よほど深く寝入ってしまったのか、これでは起こすのに気が引ける。軽く形の良い頭を撫でてみるが、起きる気配はなかった。
仕方ないなと小さく溜息を吐くと蓉司を起こさないように買った本を取り出し、ページをめくる。
蓉司が起きるのが早いか、電車が終点に着くのが早いか。
いつかもこんなことがあったな、と思い出しながら、哲雄は自分の口許が綻んだことに気付かなかった。
「崎山。……まだ怒ってるのか」
「……怒ってない」
隠しきれていない不機嫌さと棘を感じ、哲雄は内心で溜息を吐いた。
終点までは行かなかったものの、蓉司が降りる駅、あるいは哲雄が降りる駅からは数駅乗り越し、引き返して、今ようやく蓉司の家に辿り着いたところだった。
たしかに、駅に着く少し前に起こせば良かったのだろう。そうすれば折り返しの時間という無駄はなかった。もっと早く家に着くことができたし、勉強の時間ももう少し取れたとは思う。
洗ったじゃがいもの芽を取り除き、皮を剥く。蓉司は機嫌を斜めにしたまま窓の外を見ているのだろう。背中に視線は感じない。
「じゃあ、不機嫌」
「…………」
だんまりは、当たらずとも遠からずといったところか。
人参、玉葱を手早く剥き、じゃがいも同様に一口サイズにすると、薄切りの牛肉と一緒にフライパンで軽く炒める。
テレビなど点いてはいないので、今は哲雄が調理中に立てる音しか響かない。背後の蓉司の気配を窺えば、窓辺に寄って外を見ているようだ。
窓は開いていない。だが日が落ちてから気温はかなり下がった。制服が皺になるからと着替えたTシャツは、五分丈だったが晒された腕は肌の白さとあいまって、ひどく寒そうに見える。
調味料を入れて味をととのえると、手早く味噌汁も作ってしまう。料理が得意というわけではなかったが、調理実習や家庭科のテキストに載っている程度であれば手順は覚えていたし、休日前に蓉司の家に泊まる時には作ることもある。
手を洗い、水道の蛇口を捻る。きゅっ、と小気味よい音はいかにも一段落付きましたと宣言しているかのようだ。
あとは、米が炊き上がるのを待つだけ。
エプロンをダイニングチェアにかけると、相変わらず窓の外へ視線をやったままの蓉司を見つめる。換気扇の音が耳につく。夕食時らしい匂いが漂っていたが、しばらくすれば薄まるだろう。
「崎山。座んねぇの」
「…………」
「……まだ、怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、なんでこっち見ねぇんだ」
「…………」
蓉司は時々、哲雄にはまったくわからないことがある。何を考えているのか、所作から窺い知ることが困難だ。元々互いに多弁な性質ではないから、行動や目線、数少ない言葉から察するばかりだが、今日は――というより、今はよくわからない。
だが、今日の場合は明らかに電車で寝入ってしまった蓉司を起こさなかったことに端を発しているに違いない。それなのに、どうして頑なに認めようとしないのか。
一歩、二歩と近付く。しかしこのままでは手を伸ばすことも躊躇われた。
「……起こさなかったのは、疲れてると思ったからだ。すぐに寝ただろ、おまえ。結構店の中歩き回ったから。だから、」
「そこじゃない」
憤然とした蓉司に遮られ、哲雄は一度口をつぐむ。
振り返った蓉司は、頬をかすかに赤らめて哲雄を睨み付けている。すぐに抱きしめたい衝動に駆られたが、何とか理性で堪える。
「……じゃあ、何だ」
「…………」
「……崎山」
ぴくりと肩が震えたように見えたのは、見間違いかもしれない。
「言ってくれねぇと、わかんねーよ」
蓉司の逸らした顔が、窓ガラスに鏡のように映る。
何か言いたいことがある時の顔。
けれど言わないでいるのは何故か。
短い沈黙を打ち消したのは、哲雄だった。
「……言いたくないなら、いい。けど、俺の何がおまえをそんな風にさせたのか、わかんねぇと、謝れねぇよ」
窓ガラスに映る、下唇を噛み締めてガラス越しに哲雄を上目で軽く睨む眼。夜と同じような色の眼は「わかれよ」と言いたげだ。
吸い寄せられるように更に蓉司に近付き、背中から抱きしめた。
哲雄よりかなり低い体温。腕が冷たいのは、暖まりにくい窓辺にずっといるからだ。
「冷えてる。……風邪、引くだろ」
呟き、両腕もまとめて抱きしめる。
抵抗されるかと思ったが、なかった。
蓉司は俯いたまま、顔を上げようとしない。
「…………」
先程よりは温んだ腕を離すと、俯いた頭を撫でる。
「……それ」
掠れた声音は、しばらく黙っていたからか。哲雄は撫でる手を止めず、言葉の続きを待った。
「電車の中でも……ずっと、してたのか?」
「…………」
言われた言葉を反芻する。
それ、とは今こうして頭を撫でていることを言っているのだろう。
ずっと、とは、蓉司が寝ていた間を指すのだろうか。
「別に……ずっとじゃねぇよ」
「本当に?」
「ああ」
本を読んでいたのだ。
手すさびにページを捲っている間は当然、手は本のほうへ行っている。
だから嘘ではない。
蓉司は顔を上げずに哲雄の言葉が本当かどうか考えていたようだが、寝ている間のことがわかるわけもない。
「……起きた時、周り見たら……みんな、見てた」
「そう、だったか?」
周囲のことなど眼中になかったため、まったく気付かなかった。蓉司は不機嫌そうに「そうだよ」と断言する。ではきっとそうだったのだろう、と哲雄は納得した。
だがそれが、蓉司のこの態度とどう結び付くのかわからない。
そんな哲雄の無言の空気を察したのか、蓉司は拗ねたような口調で呟いた。
「……恥ずかしい、だろ……」
人前で、と消え入りそうな声が付け足される。
それでようやく納得した。
「恥ずかしかったのか」
「あ、当たり前だろ。男同士で普通、そういうこと、しないから」
はたして自分たちのどこまでを『普通』の定義で括って良いのだろう。
男同士で普通しない、ということであれば、こんなことよりもっとずっと普通はしないであろうことまでしてしまっているというのに。
さすがに言葉にすることはしなかった。これ以上臍を曲げられるのは避けたい。
「……クラスの女子はしてたから、普通だと思ってた」
「女子とは違うだろ……まったく……」
大仰な溜息が聞こえた。
どうやらもう機嫌は直ったらしいとそれでわかる。
「……電車の中で寝た俺も悪いから、もういいよ」
言外に許す、と言ってくれたらしい。振り返った蓉司は、微笑んでいた。
「でも、今度はちゃんと起こしてくれよな」
「……覚えてたら」
「なんだよ、それ。忘れることじゃないだろ」
呆れたように笑う蓉司の頬を、手のひらで撫でる。自分の表情も緩むのがわかった。
タイミングを見計らったように、炊飯器が米の炊きあがりを告げる。肉じゃがもちょうどいい具合だろう。夕食を食べたら、先日の続きから始める。
また眠られたら、起こせるだろうか。
自分に問いかけ、内心で首を傾げる。
それは少々難しい問題だ。複雑な連立方程式を解くよりよほど、哲雄にとっては難しい。
器にふたり分の食事を盛りつけながら、電車の中の寝顔を思い出す。
穏やかな、和らいだ表情。
長い睫毛が落とす影、肉の薄い頬、薄く開いて呼吸を繰り返すくちびる。
ずっと見ていたかったから起こせなかったのだと言えば、また怒られるか――それとも呆れられてしまうか。
どちらにせよ、言うつもりはないので黙っておく。