もう少し

「……あんまり、見るなよ」
 過去、何度そう言われただろう。数えかけて止めた。どうせ覚えていなくても『たくさん』だ。
 ふ、とくちびるを和らげて息を吐く。
「別に。見てねぇよ」
 同じ言葉を何度返しただろう。
 そのたびに、蓉司は少し怒ったような、不機嫌な顔をする。
「嘘、つくなよ」
 ぼそりと呟くような、咎めの言葉。だが怒っているのではないことはわかっていた。
「嘘じゃない」
「……真顔で言うなよ。見てただろ。今も、見てるし……」
「何か問題でもあるか?」
 今は、会話をしているから相手の顔、眼を見て話す。普通のことで、何も問題はないはずだ。
 だが蓉司は口の中でごにょごにょと何か言い澱んだ。
「……何」
「だから……、普段無駄に鋭いくせに、どうしてわからないんだ」
「……?」
 まるで哲雄が悪いのだと言わんばかりの言葉。いや、実際言外にそう言っているのだろう。
 しかし、哲雄に思い当たる節はない。
 ただ、落ち着かない様子でTシャツの裾を弄っている表情は、蓉司が何を言いたいのかを伝えている。
「……今更だろ」
 思わずぼそりと口に出してしまった。途端、蓉司の顔が耳まで赤くなる。そんな表情すら目が離せない。
「……今までも、そうだったのか?」
「何が」
「付き合ってたんだろ、女の子と」
 そっぽを向かれてしまったので、蓉司の表情は見えない。だが黒い髪の間から見える形の良い耳は、まだ赤い。
 もし、蓉司の言葉を認めたらどうするのだろう。そんな意地の悪い考えも浮かんだが、嘘をつく気はなかった。
「ねぇよ」
「…………」
 声が届かなかったはずはない。だが蓉司はこちらを向かない。
 見ていたいのも、目が離せないのも、触れたいと思ったのも――自分の中の強い感情が向けられるのも、すべて蓉司だから。
 今まで、他の誰にもそう思ったことはない。
 その気持ちが少しでも、こちらを向いてくれない背に届けば良い。
 そんな気持ちを込めて、囁くように言った。
「おまえだけだ」
 蓉司の肩が小さく震えたのを合図にしたように、手を伸ばす。腕の中にぬくもりを捕まえた。
 大切な、ぬくもり。
 蓉司の腹のあたりで組んだ手の上に、少しひんやりした手が重ねられる。
 何のかのと言いながら、結局は許容してくれるのだ、蓉司は。
 許されている。
 そう、感じる。
 悪戯に、目の前の白いうなじに鼻先を埋める。甘い体臭。落ち着く匂い。
「何、してるんだよ……」
 くすぐったい、と抗議される。だが逃げようとはしない。嫌ではないから逃げないのだろう、と哲雄は判断する。
 鼻先で首筋をくすぐり、くちびるをうなじへ触れさせる。鼓動が、くちびるから伝わってきたような気がした。
「ちょっ……城沼?」
 振り向く気配があったが、腕に力を込めて封じ込む。戸惑っている気配は、哲雄の真意を計りかねているからか。
 本当は、もっとひどいことがしたいのだと言ったら――蓉司はどんな表情をするだろう。その表情は、他の誰かも見たことがあるのか。
 嫌われてしまうだろうか。せっかく互いの家を行き来できる程には親しくなったのに?
 ――自制心がいつまでもつか。
 ともすれば、すぐに焼け付いてしまいそうな糸。
 哲雄は、自分で思っていたほど自分が理性的な人間ではないと、蓉司と出会ってから知った。そして存外、狭量だとも。
 自分は変わったのだろうか。哲雄は自問する。それとも、元々持っていた資質のようなものが、今になって表面化したか。だとすると、外的刺激により変質、あるいは浮上したと考えるべきか。
 小難しい考えは、テキストの中だけでよい。哲雄は目を閉じ、思考を追いやった。
 さて――。
 蓉司はどこまで許してくれるだろう。腕の中で大人しくしてくれている様は、まるで借りてきた猫のようだ。
「……城沼……?」
 沈黙に耐え切れなくなったような蓉司の声に、瞼をゆっくり開く。
 もう少しこのままでいさせて欲しい。
 もう、少し。
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