日暮れの湿度

 金曜日の午後の授業は、どこか浮かれた空気が教室に漂う。最後の授業ともなれば尚更で、緩みきった空気は教師までもが同じだったりする。
 HRが終わると、クラスメイトたちは賑やかに友達と帰ったり、お喋りに興じる。蓉司も睦に声を掛けられたが、話もそこそこに切り上げ、バッグを持つと下駄箱へと向かった。
 あたりを見回せば、目立たない隅に目当ての人物が立っていた。真っ直ぐそちらへ向かう。
「悪い……待ったか?」
「別に」
 行こう、と言わなくてもどちらからともなく靴を履き替え、歩き出す。
 多くの生徒たちが学校から吐き出され、それぞれの家路を辿る。その中に混ざって駅へと向かいながら、蓉司と哲雄はやはり無言だった。
 夏休み前の一山、期末テストを目前に控えたその日は、蓉司の家で勉強をする予定だ。
 近頃は蓉司の体調も良く、欠席することは滅多になくなったが、それでも授業で不安な部分はある。テストの山掛けと、蓉司の苦手部分の克服が目的だ。中間テストはなんとか乗り切れたが、期末で落としては意味がない。
 ――昨日は途中で眠ってしまったから、今日は気を付けよう。
 殊勝なことを密かに誓っていると、蓉司のマンションはすぐだった。
 
 
 
 
 
「……休憩」
 区切りの付いた古文のテキストを閉じ、蓉司は両手を頭の上へと伸ばして伸びをする。肩の辺りの固まった筋肉が伸ばされる感触が心地好い。
 ふぅと一息吐くと、哲雄が眼鏡を外す。
「城沼って……」
「?」
「……眼鏡つけてると、感じ、変わるよな」
 首を傾げているのは、自分ではわからない、ということか。
「視力、そんなに悪いのか?」
「別に」
「今も掛けてただろ。普段は掛けなくて大丈夫なのか?」
「ああ。ちゃんと見えてる」
「ほんとに?」
「ああ」
 哲雄の表情がわずかに変わる。身を乗り出してまで問い質したのは、さすがに大人げなかったか。にわかに恥ずかしくなり、体を引こうとすると、腕を哲雄に掴まれる。
「え、」
 倒れる。
 衝撃を覚悟し、思わず目を閉じたが、蓉司が予想した衝撃はまったくない。それどころか、ふわりと温かさに包まれた。
 ゆっくり目を開けると、哲雄に支えられていた。そのまま腕をさらに引かれ、胸に抱きしめられる。
 まったく、脈絡が不明だ。
 だが、こうして抱きしめられているのは嫌いではない。真夏目前で汗をかく時期ではあるが、暑苦しさもない。ただ、落ち着く。
 嗅ぎ慣れた匂いが、鼻孔をくすぐった。
 懐かしさと安らぎと――官能を呼び起こすような、匂い。
 顔を上げれば、驚くほど近くに哲雄の顔があった。真っ直ぐに見つめられ、見つめ返し、そっと顔を近付ける。そうするのが自然なように思えたのだ。
 鼻頭が触れ、羽根で触れるように擦れ合わせると、すぐに唇同士が触れ合った。呼吸すらも奪われるような激しい口付けをされるより、ずっといいと思う。
 哲雄の乾いた唇は柔らかく、差し出されたぬめらかな舌に上唇を舐められる。お返しとばかりに舌を差し出し、悪戯心に哲雄の舌を舌先でつつくと、絡め取られ、擦り合わされた。
「……ん……う、んっ……」
 合間に湿った吐息を漏らし、息苦しさに眉が顰められる。それでも止めようとは思わず、もっと貪りたい。本能が求めるからなのかもしれないし、ただそうしたいという純粋な欲求なのかもしれない。どちらでも構わない。ただ、欲しいと思う。
 ――哲雄も同じ、だろうか。
 ふとそんな考えが浮かぶ。
 無口な哲雄はあまり本心を語らない。聞けば答えてくれる時もあるが、それにしてもこんな時に「何考えてる?」とは、さすがに聞けない。
 歯列をなぞられ、下唇を食み返し、上顎を舐められて背筋が震える。
 鼻に掛かる吐息ばかりの声は熱を孕み、哲雄の香りに脳髄まで蕩かされてしまうのではないかという危惧すら甘い毒薬のようだ。
 また、あの顔をしているだろうか。
 哲雄の部屋で初めて事に及んだ時に見た、獣のような表情。喰らい尽くそうと、しているだろうか。喰らわれて、しまうのだろうか。
 ――だとしても、一方的に喰らわれているだけではいたくない。
「…………、……」
「は、ぁ……っあ……!」
 いつの間にか制服のシャツの裾から侵入した哲雄の手のひらが、蓉司の腹筋から胸へと撫で上げる。温度と乾いた手のひら。その感触の心地よさに、皮膚の下がざわめく。
 本当に、哲雄の熱は麻薬のようだ。心地良い、いや良すぎるから、もっとずっと触っていて欲しいなどと思ってしまう。
 ようやく唇が解放され、忙しなく呼吸する。声を殺そうと思っても、痺れた唇や酸素が足りていない肺はままならず、わずかな刺激にすら小さく声が漏れた。
 耳朶を食まれ、大きな手のひらは胸元と腰のあたりを彷徨う。
 肌を触れ合わせるのは心地良い。
 誰とでもそうなのだろうか。
 誰の肌と触れ合っても、こんなに――肌が、熱が溶け合うような心地良さを感じられるのだろうか。
 ――城沼なら、知ってるのかな……。
 いつか聞いた、女を取っ替え引っ替えしていたという噂。向こうから寄ってくるんだと、睦あたりが聞いたら怒り出しそうなことを言っていた。
 ――後で、聞いてみようか。
 覚えていたら、と心の中で呟く。
「あっ、あ……っ」
 舌全体で胸の先を舐められる。その後、つつくように弄られ、歯を立てられた。硬い感触が、身の内に甘い刺激をもたらす。
 腰骨を撫でていた手が下腹を撫で、制服のパンツを寛げる。骨張った無骨な指が下着を膝へ押し下げ、薄ら熱を帯びた蓉司の性器を撫でた。喉が鳴る音は、はたしてどちらのものだっただろう。
 がりがりと、刺激を堪えるように床を爪で引っ掻く。その指を、哲雄の手が捕らえた。
「な、に……」
「怪我、するだろ……」
 哲雄が吐息混じりに囁いたと思ったら、蓉司の視界が反転した。
「うわ……っ?」
 哲雄を見下ろし、彼の腰を跨ぐように膝立ちにさせられる。取られた手は、背中へと回された。捕まっていろということなのか。
 半端に絡まっていたパンツを下着ごと脱がされ、腰を引き寄せられる。哲雄の顔を見下ろす形になった。間近に寄った精悍な顔に、どきりと鼓動が跳ねる。蓉司を見上げる薄茶の眼の奥には、情欲の炎が灯っていた。
 ――吸い込まれそう、だな……
 哲雄の眼に、自分はどう映っているのだろう。同じ炎のかぎろいを、哲雄は見付けるだろうか。
 互いに多弁ではないためわからないことは多いが、それでも眼にはなにがしかの感情が現れる、と思う。特に哲雄に関しては、眼は口ほどに物を言うということは事実だということを実感することがたびたびだ。
 蓉司の薄い唇に、哲雄の指が触れる。意図を察し、薄く口を開くと歯列をなぞり、蓉司の舌をくすぐった。
 この先を予感させる行為に、羞恥――あるいは期待によって体の熱が上がりそうだ。
 口中を探る二本の指に舌を絡める。その隙にも、哲雄は目の前の蓉司の白い肌に口付け、臍の脇に歯を立てたのは一瞬で、舌は腹筋から下へと滑り落ちた。
「……んっ、あ……!」
 性器の根本に口付けられ、熱の籠もったそこへ唇と舌が絡みつく。ぬめらかな感触に背がびくりと跳ねた。
「し、ろぬま……っ」
 何度かされたが、やはり慣れることはできない。嫌だと体をよじって理性を示したが、腰を掴まれてしまい、逃げられない。
 そのうちに、理性は徐々に悦楽へと押し流されてゆく。
 陰茎を先端まで辿られ、陰嚢を手のひらで揉み込まれる。体を支えている膝が震え、嚥下しきれない唾液が顎を伝った。哲雄の肩の辺りに置いた手は彼のシャツをきつく握りしめ、いっそう白さを増していた。
「ふっ、あ……は、あ……っ」
「……ん……、……」
 俯けば、哲雄が自分のものを銜えている姿が見える。彼の視線は、蓉司に向けられていた。野生の獣のような眼が、蓉司を捉えて放さない。羞恥に体が熱くなろうと、哲雄の指を銜えたままではどうにもならない。
 こんな時にしか、見られない表情。
 他の誰かにも、見せたことはあるのか。ふと、先程の下らない考えが脳裏を過ぎる。言いようのない靄が、胸中で湧いた。色を付けるなら、きっと灰か黒だ。
 いい加減、顎が疲れてきたと痺れた頭の片隅で思った頃、ようやく口中から指が引き抜かれた。蓉司の唾液で濡れた指は悪戯に肌を滑り、臀部を撫で、割れ目を辿る。
 そうして奥の窄まりに触れられれば、シャツを掴む指に更に力が加わった。
「あ、あッ……んッ、う……ああ……ッ」
 胸元に濡れた感触。気付けば、哲雄は性器から口を離して胸に舌を這わせていた。代わりに大きな手が蓉司の性器を包み、哲雄の唾液と性器から零れる先走りとで濡れたそれを緩やかに擦る。
 哲雄の過去を責めるつもりは毛頭ない。だが、手慣れたような所作を目の当たりにするたび、小さく蓉司の胸が痛むことも事実だ。たとえ自分が受ける苦痛を少しでも和らげようとしてくれているのだとしても、棘は抜けてはくれない。
 その痛みの名を、何と言うのだろう――。
 濡れた指の侵入は慎重に進められた。痛みを以前ほど感じないのは、前に与えられている刺激に気が逸れているからか。
 この行為をこれからも何度もするのなら、数カ月後にはすっかり慣らされてしまいそうだ。――哲雄に。
 それが嫌というわけではないが、数カ月も先のことはわからない。今、数秒先のことすらわからないのだから、当然か。
 その想像がはしたないものだと気付くには少しだけ時間がかかり、気付いた時には小さく頭を降って思考を追いやった。
「……、……何……?」
「な、んでも……ない……ッ」
 崩れそうになる膝を、腰へ回された哲雄の腕が支える。蓉司は哲雄の肩を掴んだまま、首元へ額を擦り付けるようにして前後の刺激を受け入れた。
 鼻腔をくすぐるのは、官能を増させる香り。強く香るその匂いは、蓉司の脳髄を痺れさせて体を快楽へ流そうとする。
 こめかみに口付けられ、耳殻を舌が這う。
 聴覚を犯すのはどちらの水音なのか判然とせず、身の内の熱が追い上がってゆく。
「っん、は……あ、あ……」
「……ん、……」
 内部で動かされる哲雄の指の動きが滑らかになり、入れられる本数が増やされたことを圧迫で知る。
 入口を開かされ、中でばらばらに動く指と、性器に絡みつき、蓉司の熱を追い詰めてゆく指。どちらも同じ指で、翻弄されるのは同じだ。
 たとえば、他の誰かの指でも、こんな風になってしまうのだろうか。否、と蓉司は泡のように浮かんだ己の考えを否定した。他の誰も、自分をこんな風には出来ないし、されたくもない。
 哲雄だから。
 そうなるのだと思う。哲雄以外の誰も、自分をこんなに乱すことは出来ない。
 ――ああ、そうか。
 曖昧になる思考の中、蓉司は唐突に悟った。いや、棘の正体を理解したと思った。
 中に埋められた指の動きがスムーズになった頃、圧迫が失せる。性器は先走りでどろどろになり、限界が近いのは蓉司自身がよくわかっていた。
 膝は崩れ、哲雄にしがみつくしかできない。
 荒い呼吸を整える間もなく衣擦れの音がし、哲雄の熱が宛がわれる。腰を抱かれ、ゆっくりとした動作で埋められていく。
「あっ……あ、あ……んッ」
「……、く……っ」
 苦しげな吐息。哲雄もきついのだろう。思っても、なかなか力は抜けない。
「蓉司……」
 名を囁かれ、伏せていた顔をのろのろと上げる。獰猛な眼が、蓉司を射ている。普段誰も見ることはないだろうその眼差し、飢えた野性動物のような表情は、少なくとも今は自分だけに向けられるもの。
 血が沸き立つように昂ぶるのがわかる。恍惚とその顔、眼に見惚れていると、唇を塞がれた。そのまま、哲雄の性器が更に深くへと入ってくる。
「んっ、んん……、あ……んっ……」
「……ふ……、っ……」
 ゆるゆると腰が揺らされる。唇は触れ合わせたままだ。息苦しいが、それでも止めない。止めて欲しくなくて、背中へ腕を回した。応えるように、哲雄の抱擁、動きが激しくなる。
 中を擦る哲雄の性器が感じる場所に当たると、蓉司は肩を跳ねさせた。嬌声は互いの口中でくぐもり、飲み込む。
 揺すられるたび、淫猥な水音が立つ。口腔をくまなく蹂躙する舌に混ぜられたどちらのものかもわからなくなった唾液が口の端から垂れるが、構う余裕などあるはずがない。
 はしたない蜜を溢れさせる蓉司の性器は二人の間で擦られて、間もなく限界に達しようとしていた。
「んん、あ……う、ん……は、っんん――ッ!」
 哲雄の背に回した指が、きつくシャツを握りしめる。もしかしたら爪を立てていたかもしれない。思考が白く塗り潰されたのでわからない。
 数度深く穿たれ、奥で何かが弾けた感覚の後、ようやく唇が離される。きつく抱きしめられ、互いに荒い呼吸を整えることもせず、しばらくそのまま抱き合っていた。

 
 
 
 
「ご……ごめん」
 体を離して簡単に身繕いした後、蓉司は哲雄に頭を下げた。
「別に。気にしなくていい」
「でも……」
 さすがに、その格好で外に出るわけにはいかないだろう。
 もごもごと発した蓉司の言葉に、哲雄は小さく笑ったようだ。顔を上げられないので、雰囲気を感じただけだが。
 哲雄のシャツには、蓉司の吐いた精がべったりと付いていた。蓉司のシャツにも多少は掛かっていたが、ベストのほうは無事だ。
 最中は余裕が無くてまったく気が回らなかったが、そもそも初めに気付いておくべきだった。
 しょんぼりと項垂れる蓉司の頭を、哲雄の手が撫でる。慰めるようなその動作が、また蓉司に申し訳なさを増させる。これで制服のパンツまで汚していたら、更に蓉司は落ち込んでいただろう。
「……脱げよ」
 ぼそりと思い切って呟く。それで哲雄の手が止まったので顔を上げると、微妙な表情をしていた。どうかしたのかと思いながら、続けて言う。
「洗うから」
「……ああ」
 脱いだシャツを受け取ると、自分のシャツと一緒に洗濯機へ放り込み、ボタンを押す。
 代わりに何か着るものを、と思うが、おそらく自分の服では哲雄には小さいだろうことに気付く。身長はあまり変わらないが、体格は哲雄のほうがずいぶん上回っているのだ。
 それでもたまに着ているTシャツが大きめのサイズだったことを思い出し、引っ張り出すとそれを渡した。
 上半身だけとはいえ、素肌を晒されたままでは色々と目の遣り場に困る。同性なのだから気にすることはないと言えばそうなのだが、蓉司にしてみれば哲雄は別問題だ。
「ついでに、シャワーも使ってくればいい」
 Tシャツとタオルを手渡しながら言うと、哲雄は何か言いたげだったが、珍しく蓉司が押し切って先に浴びさせた。
 短いシャワーを浴び終え、礼を言って哲雄が着込んだ黒のTシャツはなんとか彼にも着られるサイズだったようで、蓉司は心の中でほっとした。
「……着ないのか?」
「えっ?」
「服」
 哲雄に指摘されて、ようやく自分が下着一枚だったことに気付く。
 夏とはいえ、この夜は暑いわけではなかった。今はまだ汗ばむほどだが、体を冷やす前に何か着たほうがいいだろう。
「……シャワー、浴びるし」
「そうか」
 哲雄の視線が和らぐ。本当に心配させる前に浴びてしまおうと、浴室へ向かった。
 さっぱりして浴室から出ると、哲雄がちょうど部屋から出てくるところだった。
「どうか、したのか?」
「飯。食いに行くかと思って」
「ああ……」
 そういえば、とっくに日も暮れてそんな時間になっていた。
 小食な自分はともかく、哲雄は腹が減っているに違いない。頷くと、財布と携帯電話だけを持って外へ出る。
 不思議な気分だ。
 いつもなら、食事をした後、そのまま別れて家へ帰る。
 だが、今日は。
 自分の失態が原因とはいえ、食事が終わっても哲雄はまた蓉司の部屋へ来る。
 家へ戻っても、まだ乾燥まで終わってなければいい。
 そうすれば、もう少し――哲雄と一緒に居られる。
 そんなことで浮ついた気持ちになるのは自分だけだろうか。哲雄へ目を遣ると、手を差し伸べられる。その手を握ると、強く握り返された。
 いつまでも人通りがなければ良いのに。
 思いながら、駅前までの道をふたりでゆっくりと歩いた。後で、今ふと思い出したことも聞いてみようかと思いながら。
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