夕闇の温度

 自分と一緒にいる時の蓉司は、寝てばかりいるような気がする。
 哲雄は、いつぞや同様ベッドの端を背もたれに寝入ってしまった蓉司の寝顔を見下ろしながらそんなことを思った。
 今日も間近に迫った期末試験の勉強をするために蓉司を連れて帰ってきたのだが、英語が一段落して次は古文、その前に一息つくかとお茶とお茶請けを台所で用意して帰ってきたらこの通りだ。
 窓から斜めに差し込む夕暮れの陽は室内をオレンジ色に染め、陰の黒とのコントラストが美しい。
 蓉司の、長い睫毛が落とす陰のあたりに視線を彷徨わせる。
 夕陽のせいか、顔色は悪くない。
 寝息が聞こえなければ、まるで精巧に作られた人形のようだ。
 冷たい麦茶と煎餅を小さな机に置くと、蓉司の隣に腰を下ろす。まだ目覚める様子のない寝顔を、哲雄はじっと眺めた。
 本当はひとつ年上の同級生。
 雰囲気こそ大人びてはいるが、実際は本当に年上なのかと問い質したくなるほど、危なっかしいところがある。だからつい、手を伸ばしてしまう。
「…………」
 オレンジ色に染まった頬を、人差し指の背で撫でる。身じろぎすらしないのは、よほど深く寝入っているのか。
 頬からこめかみ、長い前髪を撫でる。起きる気配は、ない。
 ――猫みたいだな。
 吐息でふと笑う。
 艶やかな黒髪は柔らかく、しばしば哲雄の家を訪れる猫を思い出させる。
 そういえば、人を信用していないような眼も――慣れる前の猫に似ていた。
「……ん、……」
 吐息と、小さく身じろぎして蓉司が目を覚ます。長い睫毛が震え、閉ざされていた黒い瞳は初めぼんやりと、次第に覚醒してゆく。
「……起きたか?」
「あ……ごめん、俺また……」
「構わねえよ」
「ん……」
 まだ汗をかいたままのグラスを示すと、蓉司は素直に麦茶に口を付ける。ほっと息を吐いてグラスを置いた後、両手を頭の上で組んで伸びをした。
「……眠れねえの?」
「え?」
「夜」
「ああ……、最近は、結構眠れてたんだけど……」
 語尾が濁るのは、昨夜はそうではなかったということか。
 眉を顰めかけると、蓉司が言葉を継いだ。
「なんか……城沼といると、眠くなる……」
「……? 退屈だったか?」
 問えば、慌てたように頭を振って否定の言葉を寄越す。
「違う! そんなんじゃなくて、なんていうか……、匂いで落ち着くっていうのもあるんだけど……それだけじゃなくて、あったかくなって……勉強してる間は、大丈夫なんだけど……」
 最後の一言は、明らかに付け足しだろう。
 だがそれは重要なことではない。
 哲雄は再度手を伸ばすと、蓉司の柔らかな黒髪を掻き混ぜるように撫でる。
「し、城沼……っ?」
 驚きに見開かれた眼は、学校にいる時よりもずいぶん幼い。
 哲雄の意図が読めずに戸惑っている様子はわかったが、それでも抵抗する様子はない。腕を掴んで引き寄せ、胸の中に収めた。
「あ……、……」
 暖かな体温、肌から伝わる鼓動。
 仄かに香る、甘い匂い。
 蓉司の首元に鼻頭を埋めたまま、頭を撫でるのは続行した。
 そのうち、体重が胸へかかってくる。さらにしばらくすれば、白く哲雄より細い腕が背へと回されてしがみつくようにシャツを掴む。
 腕の中の体を、強く抱きしめる。
 ――壊してしまうだろうか。
 そう思っても、たしかにここにいることを感じたくて、腕の力は緩められない。
 窓から入っていたオレンジの光は、すでに薄暗さを増して部屋に濃い陰を落とす。
 あまり遅くならないうちに帰さなくてはと思うが、この温もりは手放しがたい。それでいつも数瞬葛藤する。
 ――このくらいはいいか。
 ほんの少し腕の力を緩め、蓉司がわずかに身を離した隙を狙い、顎に指をかけて上向かせ、唇を掠めるだけの口付けを落とす。
 哲雄を見つめたまま見開かれた眼。すぐに頬が朱に染まった。
 まだ、慣れないらしい。
 だがそのままじっと見つめてくるのは、どういう意味があるのだろう。
「……何?」
「…………別に」
「別に、って顔じゃないだろ。何」
「…………」
 ふっと哲雄からの視線を避けるように顔を背けるが、離れようとはしない。本当に聞いて欲しくないならすぐに離れるだろうから、しばらく蓉司の様子を見ようと、見つめていた。
 ややあって、観念したらしい蓉司が蚊の鳴くようなか細い声でぽそりと呟いた。
「……舌、入れないんだなって……」
 思って、と、最後までは言わせなかった。
 強く抱きしめると、荒々しく口付けて唇や粘膜を弄る。
「んっ……、う…………ん……ッ」
 鼻に掛かった吐息、喉の奥でくぐもる声。シャツを掴んだだけの細い指。
 どれも哲雄を煽る要素にしかならない。
「……は、あ……、……」
 それでも何とか自分を抑えて一方的な蹂躙を止めると、先程のようにぎゅっと胸に抱きしめる。
 蓉司の荒い息が胸元にかかり、肌が熱を持ちそうになるのを誤魔化すように頭を乱暴に撫でてやった。
「あんまり……そういうこと、言うんじゃねえよ」
「え……?」
 戸惑った声。
 どうにも蓉司はこういったことに疎すぎる。哲雄は内心で溜息を吐いた。
 過去に女がいなかったわけではないというが、それにしてもこれはどうなのか。
 くしゃくしゃにした髪を、指先で整えるように梳く。
「わからないなら、いい」
 蓉司にわからないように溜息を吐くと、気を取り直して「崎山」と呼んだ。
「ん?」
「明後日……土曜日、バイトは何時から?」
「ええと……昼過ぎから」
「夜まで?」
「そう」
「じゃあ、明日の勉強はおまえん家で」
「構わない、けど……」
 わずかに首を傾げて哲雄を見上げる顔は、本当に猫とよく似ている。
 言えば、きっと機嫌を損ねてしまうだろうから、哲雄の胸の中にだけ留めておくことにする。
 ちらりと机の上に置いた時計を見た。19時を回っている。そろそろ母親が帰ってくる時間だ。どうせ帰っても蓉司は物を食べないのだろうから、このまま引き留めて一緒に夕飯を食べれば良い。その後、駅まで送るのも良いだろう――蓉司に拒否されなければ、だが。
 不思議そうに哲雄の顔を見ていた蓉司は、今は肩口にこめかみを預けるようにしてもたれている。
 寝るなよと囁いてやれば、大丈夫だと返ってくるが、どうにもその答えは不明瞭で、到底大丈夫とは思えない。
 ――帰ってきたら起こせばいいか……。
 蓉司の髪を撫で、体を支えるように回してやる。

 部屋はもう、すっかり闇に覆われていた。
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