「真世」
寝所の扉を閉めた途端に背後から声を掛けられる。
決して聞き慣れてはいけない声のはずだが、聞けば胸がほの暖かくなった。
「……また抜け出て来たのか、カガセオ」
滅多に出てはいけないと、何度も言っているのに一向に聞き入れる気配はない。懲りないのか――単に聞くつもりがないのか。どちらかだ。
一度しっかり言い聞かせる必要があるかもしれない。そう思いながら振り返ると、予想したより近い位置にカガセオが立っていた。いつもの穏やかな笑みと、裾の長い着物。雰囲気のせいか、どこか作り物めいている。いや、実際に彼は作り物だった。
「あまり皆に姿を見せて回るな」
「そうそう見えません」
「……そういう問題でもないんだが……まぁいい」
諦観の篭った息を吐くと、細身の長身を見上げた。
「今日はどうした?」
問えば、カガセオは足を真世へと進める。
「私がどうしたわけではないのですが……」
「?」
怪訝に思い首を傾げれば、間近に秀麗な面が寄せられた。
何をするわけでもなく、閉ざされた目蓋越しに見つめられているのを感じる。
カガセオの目蓋は上下を縫い付けられてはいるが、眼によらないもので見ているせいか、おおむね閉ざされたままでいることが多い。そこに「大僧正」の、真世の眼球が在るから、保護のためだ。とはいえ、閉ざされっぱなしというわけでもなく、縫い付けられたままでも目蓋を開くこともできるのだが。
「…………貴方は、」
閉ざされたままだった目蓋が、ふと開かれる。自分の眼が自分を見ているというのは不思議なものだなと、真世は頭の隅で思った。
「疲労しているのに、それを隠しているのは何故ですか」
「そんなことはない」
そんなことまで見通せるのか。出かかった疑問は、口にするわけにはいかない。
瞬きすると、カガセオをしっかりと見つめる。
「……自覚が薄いのですね」
「何がだ?」
「貴方が、私の契約者だということです」
ぴくりと眉が引きつる。
何を言いたいのかわからないフリができれば良かったが、そうするには真世は聡すぎた。
だが、どう返せば良いのか。
思案していた間は数秒のはずだが、カガセオは風のように顔を近付けて、ほとんど触れる距離で真世を見つめてくる。
「……触れます」
「な……に?」
カガセオの放った言葉の意味を量りかね、呆然とした。
わずかな動揺は隙へ繋がる。それを見逃さなかったカガセオに手首を掴まれ、引っ張られるように奥へ連れていかれた。
奥にあるのは寝台だけ。体を休めるためだけの部屋だからそれで構わないはずなのに、今は不吉な予感しかしない。
「カガセオ、離せ」
「…………」
腕を強く引かれた。バランスをくずす。せめて受け身を取らなければと思っていたのに、背に当たったのは柔らかな布団の感触。
だがほっとしたのも束の間、すぐにカガセオが覆い被さってくる。
「……カガセオ?」
困惑。
彼の行動原理がよくわからないのはいつものことだが、わかろうと思わないわけではない。わからないからこそ、問いを発する。「どうした?」と。
カガセオは真顔で真世を見下ろしていたが、ふと顔を間近に寄せ真世の袷から冷えた手を這わせた。彼の髪や肌から香る新緑、花の薫りが、この場にそぐわない。
触れると言ったのだったか。それはまったく構わないが、わざわざ夜衣を乱してまで素肌に触れる必要はあるのか。疑問が浮かぶが、手のひらが胸を滑り息を呑むことで霧散してしまう。
カガセオの手は細く、指が長くてたおやかだ。一見すると女性の手のようだが、大きさでは一般的な女性の手を上回る。
温度のない手のひらが真世の肌を撫でる。ひやりとした感触に、肌がわずかに粟立つ。
(冷めた湯に入っているようだ……)
真冬ならまた別の感想を抱いたかもしれない。
胸元から脇、筋の薄く張った腹筋。撫で、あるいは摩るように、体に触れてくる。
(誰かに触れられるのは、久しぶりだな)
冷静にそんなことを考えているようで、ちっとも冷静でなかったのは、カガセオがどこに触れようとしているのかわからなかったことから明らかだ。
カガセオの手がそこへ及ぶに至り、反射的に上体を起こす。
「カガセオ!」
「はい」
「どこを触っている……いや、そこは触るな」
「貴方の体に変わりはないでしょう」
「そういう問題ではなく……、みだりに触れていい場所ではないと言っているのだ」
溜息を吐き、はだけられた裾を直そうとすると、手を掴まれた。見上げると、普段は閉ざした目蓋を薄ら開いて真世を見つめている。
「カガセオ……、」
「触れたいと、私は言いました」
「先程も言っただろう。みだりに触れていい場所ではないと」
「それでも」
カガセオは吐息がかかる距離まで顔を寄せると、真世の目をじっと覗きこむ。
「触れたいと思うのです」
「…………」
正面から真顔で言われ、視線こそ逸らさなかったものの内心を落ち着けるのは苦労がいった。動揺。あるいは狼狽。光言宗の長たる者が、聖者たる身が、俗な言葉ひとつに翻弄されるなどあってはならないし、ありえないことだ。
だが現実はどうだ。
人ならぬ者の視線をまともに見返し、内心の混乱を宥めるのに精一杯。どうして自分が揺らいでいるのか、わかっているせいだ。
(……そういう意味ではないとしても)
不埒な想いを抱いているのは、結局自分の方だと思い知らされる。カガセオは日常会話などを話すには充分な性能があるが、それはコンピュータのAIのようなもので、そこに感情は含まれない。人間の体を使っていない人造物だから、仕方がないこと。
(そんなことはわかっている)
人のように話し、穏やかな微笑を浮かべているカガセオには、心がない。考えることができても、感情がない。だから心を通わせることはありえない。
わかっているから触れないようにしてきたのに。
だから抵抗するのは最後の見栄のようなものだった。
真世の肌はどこもかしこも熱くて、触れているだけで火傷してしまいそうだ。そう感じるのは、カガセオに体温がないせいだろう。
「……っ、あ……あッ」
開かせていた足がびくりと引きつる。
自分が与える刺激が効果をもたらしているのは明らかで、カガセオは閉じようとする真世の足を片手で抑えながら、勃ちきらない彼の性器へ舌を這わせた。
「カ、ガセオ……やめ、ろ……」
応える代わりに根元から先端へと舌を滑らせる。息を詰める気配がし、抵抗が弱まった。その隙に先端を舌の平でねっとりと舐ぶれば、短い声が漏らされた。こうしたことの巧拙はよくわからないが、性器には先程より熱が回っている。ということは、悦いということなのだろう。
だとすれば、止める必要はない。
鈴口を舌で弄り、唇で先端を挟むように銜える。息を呑んだ真世の手がカガセオの頭を退かそうと押してきたが、止める気はなかった。
「う……、っく……」
何かを必死に堪える声と表情を上目に見、舌を押し付けるように震わせれば、真世の体が小さく跳ねた。
そんなに、耐える必要があるのだろうか。
僧侶が欲に溺れることを戒められていることは知っているが、事ここに至り、そこまで我慢しなくても良さそうなのに。そう思うのは人事だからか。それともカガセオが人ではないからか。
ぐっと深くまで飲み込み、浅くまで抜くのを数度繰り返す。
時折、カガセオの頭に置かれた真世の手に力が篭り、内股が震えるのがわかった。繰り返したことで特に反応が顕著だったところを把握すると、そこへ重点的に舌を這わせる。この時には既に、性器の先端から雫が溢れていた。
「い、やだ……、っあ、カガセオっ……!」
歯を食いしばり、制止を求める。けれどカガセオが口に含んだものは熱の解放を待つばかりだ。理性と裏腹の体。
自分でも――体温のない身でも、人をこんなにも熱くできる。冷え、凍えさせるばかりではない。不思議だと思うし、興味深くもあった。
「……っあ、あ……っ」
いっそう性器に熱が集まる。そろそろかと思い、口淫を深くした。
「カガ、セオ……っ、ふ、ぁ……ああ……っ!」
抑え切れなかった高い声。カガセオの髪を掴む手にいっそうの力が加わる。次には真世の腰や足が跳ねた。カガセオの口中に放たれた熱い迸り。反射のようにそれを飲み込んでしまうと、先端に吸い付いてからようやく解放した。
荒い呼吸を繰り返して脱力している様子の真世の夜衣の裾を直す。真世が強くカガセオを非難している眼差しを投げ付けているのがわかる。
「……どういう、つもりだ」
振り絞るような声音で問われても、カガセオは平然としていた。
「触れたかったと、言ったでしょう」
「他に理由はないのか」
「ない……わけではありませんが」
「何だ?」
「……疲れたでしょう。今日は休んで下さい」
「言わぬつもりか」
「言わぬが花、という言葉があるでしょう」
「それを言うなら『知らぬが花』だ」
そうでしたと返すが、どちらにせよ同じことだ。
「……おやすみなさい、真世」
一方的に話を断ち切り、在るべき場所へ戻った。真世の声は聞こえたが、あえて遮断してしまう。
――気遣われることなど、彼は望んでいないだろうから。だからこうするより他に術を知らない。
吐いた溜息は、誰にも触れず闇に溶けた。