庭園にて、ふたり

 カガセオに心があるのか。

 考えることは可能で、言葉を紡ぐこともできる。五感もある。
 それでも彼は人間ではない。

 では、人ではないから心がないのか。

 決め付けるのはいささか性急過ぎる、と真世は考える。
 何故なら、彼を頂点とする光言宗は、人でないモノを屠るために人ではなくなった女性――主に少女――を使役するが、彼女たちに心がないわけではない。むしろ心があるからこそ、それぞれの理由のために屍たちと戦うからだ。
 だが一方で、カガセオには彼女らとは一線を画す存在理由がある。
 カガセオの存在理由は、昔も今もただひとつ。
 魔に遭うては魔を打ち払い、神に遭うては神を打ち払う。
 そのために造りだされたモノだ。

 万物に神霊は宿る。
 神にも心があるように描かれたのは神話だが、彼にもあって欲しいと願っただけなのか。

(……だからどうだというのだろうな)
 真世は庭園の隅に設えられたベンチに腰掛けると、膝で頬杖をつく。昼であれば麗らかな光が差し込む庭園は、今は必要最小限の明かりしかないため、ほとんど暗闇だ。警備の者たちはいるが、基本的に日中は偉家十聖の血に連なる者や世話係しか近付かず、まして夜ともなれば日中以上に近寄る者はいない。つまりこの時間は格好の息抜き場ということだ。
 見るともなしに見ている木々の先に思い浮かぶのは、ただひとりの姿。
 十代の頃や修法始めて日が浅い頃なら、まだ信心が浅いのだ、あるいは若いからだと笑い話や揶揄の種になるかもしれないのに。三十過ぎの、ましてや大僧正位にある者の悩みとしては笑えない類の話になる。
(重症だな)
 内心の苦笑は、表面上には溜息となって誤魔化された。
「真世」
「っ!」
 思いがけずかけられた声に、反射的に顔を上げる。臨戦態勢をとらなかったのは、敵意がなかったからだ。いや、声で誰だかわかったせいかもしれない。
「……こんなところにまで出てきたのか」
 言葉の終わりに彼の名を呟けば、普段通りの微笑を返してくれる。穏やかな微笑み。
「ええ。貴方の様子が気になりました」
「私の……?」
 訝しくカガセオの顔を見上げると、彼は「はい」と頷いた。優雅な仕草はとても好ましい。
「気にされるようなことは何もないぞ」
「……本当に?」
 問われる前にほんの少し空いた間が気になる。だが構わず立ち上がった。
「……何度も言わせるな」
「真世。……逃げるのですか」
「…………」
 その場を立ち去ろうとした足を止めると、くるりとカガセオを振り返る。
 聞き捨てならない言葉を聞いた。
「逃げるのではない。話が終いだから部屋に戻るだけだ。私は何からも逃げはしない」
「それなら、もう少しくらいよろしいでしょう」
「……私の話を聞いていたか?」
「ええ。私はまだ戻りたくない。だからもう少しここにいて下さい」
「…………」
 悪びれない笑顔。
 何かあろうとなかろうと、カガセオはその笑顔を浮かべている。真世の内心になどお構い無しだ。
(人の気も知らないで)
 八つ当たりのひとつくらい、したくもなる。
 じっと見つめていても、カガセオは表情を変えない。
 痺れを切らしたのは、真世だ。
「……何かあったんじゃなかったのか」
「はじめに言いました。気になったのです」
「何もない、とも言った」
「…………昼に、」
 カガセオはそこで言葉を切ると、縫い付けられている目蓋をふと開く。そこにあるのは己の眼だとわかってはいても、見ているのはカガセオだと思うと別の思いが胸に湧く。
「行を行いました。玉室で」
「……ああ。それが?」
 大僧正の務めとして年に一度か二度行われる、玉室での行。それは玉室の動作確認でもあるし、カガセオの能力を研鑽するための機会でもある。
 大僧正位にあれば、それがどれだけ重要な使命を帯びているか知らないはずがない。勿論それをカガセオが知らぬはずもなかった。
「前回より下がっていました」
「!……」
 こともなげに言われた言葉に、真世は目を眇める。
 計測や結果は前回とさして変わらないはずだ。なのにカガセオは下がっていると言う。これは契約者と屍姫にしかわからない問題か。
 カガセオは淡々と言葉を続けた。
「状態や状況によって力の振り幅が変わる契約者も、かつてはおられました。ですが真世、あなたは今まで常に一定の高い力を保っている。いつでも私の持つ力を全力で行使することができる人です」
「…………」
 否定も肯定もしがたく、黙っているしかない。
「かつてなかったことに、興味を持ちました」
「きょう、み……?」
「興味というのは少しおかしいかもしれません。もともとあったものですから。……やはり、気になったと言うのが一番近いです」
「は……?」
 間抜けた声を発してしまったのは、予想しなかった言葉を寄越されたせいだ。
「気になる?」
「はい」
「…………」
 深い意味はないのだろう。
 それでも嬉しいと思ってしまうのは、まだ俗から抜け切れていないからか。
「……真世」
「なん……、うわっ」
 強い力に体を引かれた。その次に、ぶつかる。何にとは考えるより先に視認した。カガセオの肌。――抱きしめられている。
 冷静と混乱の対極した思考の中、ともかく離れようと腕を突っ張らせる。が、カガセオの腕が緩む気配は微塵もなかった。
「カガセオ、離せ」
「何故ですか」
 そう来たか。
 嫌だと言われれば、毅然と突っぱねることもできた。だが「何故」と問われては理由を話す必要がある。もっともらしい言い分ならいくらでも用意できるが、カガセオがそれで納得するかどうか。
(どうしてこう、こじれるのだ)
 思考も言葉も。
 もっと単純なら、こんなに悩まなくて済むのに。
(……いや)
 複雑にしているのは自分自身だ。真世の思考が、物事を複雑に捉えているにすぎない。カガセオはシンプルにできている。そういうモノだから。
(……冷たい、な)
 ひんやりとした体温に、しばし身を預けてみる。
 人ではないから、カガセオの温度は冷たい。優しいとも、哀しいとも思う。
「……カガセオ。熱くはないのか?」
 真世がカガセオの体を冷たいと感じるなら、逆にカガセオは真世の体を熱いと感じるのではないか。
 当たり前のことに気付くのが遅れたことに内心で舌打ちすると、離れた方が良いだろうと判断して胸を押す。が、カガセオの体がわずかにも揺るがなかった。細身の外見の割に、案外力が強い。
「?……カガセオ?」
「大丈夫です、真世」
 微笑みは常のものと変わらない。
「熱いですが、火傷するほどではありません」
 仮に火傷をしても治りますし、と平然と言ってのけるカガセオに、真世は苦笑を浮かべる。
「無理をする必要はないだろう」
「無理ではなく、触りたいから触っているだけです」
「……何故?」
 先程同じことを訊かれた。まともに答えを返さなかったから、回答があることを期待して訊いたのではない。ほとんど条件反射だ。
 幾許かの期待をまったく抱かなかったと言えば、嘘になるが。
「知りたいことがあれば触れてみれば良いと……聞きました」
 誰からと発しかけた言葉を歯の裏で止める。考えるまでもなく、先代までの大僧正の誰かだろう。カガセオは大僧正以外の者とはほとんど会話しないのだから。
「それで……抱擁しようと思ったのか?」
「そうです。……何がおかしいのですか、真世」
「ずいぶん突飛な発想をするのだな……」
「そうですか?」
「あぁ。手を握るとか、もっと他にあるだろう」
「…………」
 カガセオはわずかに身を離すと、真世の顔をじっと覗き込む。
「……触れる部分が多ければ、その分、真世のことをより知れるのではないかと思いました」
「…………」
 噴き出しそうになったのを腹筋で押さえ込む。カガセオはあくまで真面目に言っているのだ。
 軽く抱き返してやりながら、背をあやすように撫でてやる。自分の熱を、少しでもカガセオに分けられたら良いのに。そんな思いをこめて。
「……何か、……っ!」
 わかったかと問いたかった言葉は、形の良い薄い唇に遮られた。
(…………しまった)
 何をされるのか予測できたのに、体が動かなかった。
 いや――そうではない。
 言い訳にしたかったのだ。思いがけないことだったと。
「……、……っ!?」
 びくりと体が震えたのは、冷えた舌が唇を舐め、口中に侵入したから。
 温度だけは低いが感触は変わらない、と思う。他人の温度を感じるなど、久しく味わったことはないが。
「……は……、」
 歯列の裏側をなぞった後、カガセオの舌は真世の口中を好きに動き回る。一瞬離れたかと思うと、角度を変えてより深く。上顎を舐められると、肩が跳ねてしまった。
 執拗にそこを舐めてくるところを見ると、真世が反応したのはわかったらしい。
「ぅ……、っん……!」
 いい加減に離せと腕でカガセオの胸を押す。存外あっさりとカガセオは身を引いてくれた。
「……今日はもう休む。お前も戻れ」
「はい」
 夜衣を整えると、今度は足を止めなかった。
 内心の、叫びだしたいような衝動は抑え、しまい込んだ。
>>> go back