黄昏の森

 白き森はエルフたちに安らぎをもたらすが、はたして他の種族にも同じ効果はあるのだろうか?
 森の奥深く、滅多に訪れる者のいない場所でアラゴルンは寝転んでいた。仰向き、乳白に輝く枝を見上げる。枝に寝食された空は茜に染まりつつある。
 奥方の森が黄金に染まる、美しきひと時。左腕を枕に、左手の指は降り積もった柔らかな木の葉を弄った。くるくると指先で歯を弄ぶ動きを、不意に止める。
「……何かあったのか?」
 薄く感じた気配に問う。
「いや……」
 戸惑った気配が傍らまでやってきた。
 所在なげに頭のあたりに立ち、アラゴルンを見下ろしたのは、旅の仲間だった。
「あんたの方こそ、どうかしたのかと……」
「私が?」
 上体を起こし、仲間――ボロミアを見上げる。彼は戸惑った瞳をアラゴルンへ落としていた。
「――どうもしないさ。この場所が好きなだけだ」
 余計な心配をかけたなら謝る、と小さく頭を下げると、彼は慌てたように両手を振った。
「何もないなら構わないんだ。この森へ着いた夜からいつも数時間消えるだろう。気になっただけだから」
「…………」
 隠していたわけではないが、よく気付いたものだ。仲間の輪から外れる時は気配をそっと断っていたが、消えた後のことを気にされるとは。
 わずかな動揺を殺し、木の葉を弾く。指はほの温かい土をまさぐった。
 ボロミアは何気なく言葉を発する。
「静かだな、ここは」
「ああ。エルフすら滅多に来ない」
「森の外れじゃないのか?」
「いや……、この森は広い。まだ先はあるだろう。ここから先は行ったことがないからわからないが、森の圏内には違いない」
 エルフが見回りをする圏内だから大丈夫だと、ボロミアが諌言するより先回りする。
「座っても?」
「ああ」
 微苦笑したボロミアがどかりと隣に腰を下ろす。腰に下げた白い角笛が見えた。――ゴンドールの角笛。白き都の大将の象徴であり、執政の長子たる証でもある。彼が次代の執政である証でもあった。
 かつて別の名を名乗っていた頃、彼の父がそれを所持していたのを見た。堂々とした男で、信頼に足る高潔な人物だった。最近はあまり良い噂を聞かないように思うが、あの頃は賢人であったと思う。
 彼に嫌われてしまったのは、アラゴルンの自業自得だ。何故彼、デネソールが自分を嫌うのか、アラゴルンは推測することが出来たし、その推測は間違っていないだろう。
 時機ではなかった、と言って、はたして納得してくれるか。――してくれないだろう。その点も、まるで負い目のようにアラゴルンの心に影を落としている。
 この男は。
 ボロミアはどう思っているのだろう。
 考えかけて、思い出した。エルロンドの会議でアラゴルンの正体を知ったボロミアが投げ付けた言葉を。
「何を考えていた?」
「……ん?」
 過去へ巡らせていた思考を不意に断ち切られ、慌てて目線を上げれば、ボロミアの緑灰の瞳がアラゴルンを見下ろしている。
(あの時と同じように、まっすぐ見つめるのだな)
 思っても口には出さず、代わりに微笑を浮かべる。あの時と違うのは、猜疑が見えないことくらいか。
「……旅の、この先のことを」
 言い訳は、即席にしては上手くいったらしい。ボロミアは「なるほど」と頷き、視線を木々へと移した。その時に感じた気持ちは、言葉では言い表せない。
「……ガンダルフがいなくなったのは、痛手だな」
「ああ。彼がこの先、どんな風に道を選んでかの地へ行こうとしていたのか……わからない」
「アラゴルン、あんたは――私と共にミナス・ティリスへ来てはくれないのか?」
 木々の隙間からわずかに見える空を見上げた。茜の空は宵色が増している。夜が近付いているのだ。日が完全に落ちきるまでには、仲間たちの元へ戻らなければならない。夕食を食いはぐれてしまうかもしれないから。
 答えぬアラゴルンに焦れたように、ボロミアが身を寄せる。「アラゴルン、」
「先日も私はあんたに言った。共にミナス・ティリスへ帰ろう、と。あんたは答えてはくれなかったが。……戻りたくはないのか? あんたの、いわば故郷ではないのか? それとも、同じ種族を――人間を、あんたは信用していないのか?」
 ボロミアの声は真剣であり、冗談をわずかも許さぬ響きがある。
 にもかかわらず、アラゴルンは空を見上げていた。ボロミアの柔らかそうな茶の髪越しに見える暮色を。
(ああ、最後の問いは我が夕星も私にくれたものでもあった)
 無意識に右手が首元の夕星をまさぐる。
 信用していないのは人間のことではない。他の誰より、自分自身を信用していない。かの弱き者と同じ血が流れているこの身を、どうして信用できるだろう?
 答えれば、ボロミアは彼女と同じ答えをくれるだろうか。
 ふとアラゴルンは気付いた。自身が、ボロミアに彼女と同じ答えを求めているということに。
 求めてどうする。与えられて何が変わるというのか。
 浮かびかけた苦笑を誤魔化すように目を閉じると、首を振った。
「…………今は、まだ。――その答えを出す時ではない。私は……指輪を、フロドを、モルドールまで導かねば」
 ボロミアはおそらく失望の眼差しを向けているだろう。アラゴルンはそれを見たくはなかった。だから目を閉ざしたまま身を起こし、立ち上がってもボロミアを見ない。
「さあ、皆の所へ戻ろう。すっかり暮れてしまうまで、時間がいくらもない」
 のろのろと身を起こしたボロミアが後ろを付いてくるのを気配で感じながら、アラゴルンは振り返らず歩いた。
 ボロミアの目を見るのが恐ろしかった。