迷い子と流離い人

 会議から数日。ボロミアはエルロンドの館の周りを逍遥していた。
 エルフの匠による館の造形はどこも繊細で、柱一つ、床の一つにすら美へのこだわりを感じた。
 白の都のそれより線が細く木々に溶け込むそれらは、目は癒してくれるが心を落ち着かなくさせた。思うに、根っからの武人たる自分は、美と対極の位置に居る。美しさを素直に受け止められても、愛でる感性がないのだろう。
 台盆に置かれていたナルシルや、イシルドゥアがサウロンの指を斬り落としたあの絵にも、美しさにではなく歴史的事実に感銘を受けたのだ。
「……ん?」
 つれづれに思いを馳せている間に、どうやら館から随分離れてしまったらしい。周りを顧みたが、若木の幹と紛う柱も、木々の折り重なったようなアーチも屋根も、視界のどこにも映らなかった。
 多少の起伏はあれど、全体的になだらかな森だ。方向や距離感すら掴めぬ前後不覚になっては、術がない。太陽の居場所を仰いだが、雲が目映い姿を覆い隠していた。
 それでも悲観せず、歩いていればどこかに出るだろうと、根拠もないのに楽観的に断じて広葉樹を見上げ、歩みを進める。
 本格的にまずいかもしれないと思ったのは、一刻も歩いた頃だった。少なくとも、ここにはボロミアの帰りを心配するような者はいない(何しろボロミア以上に神出鬼没な輩がいるので、彼らの関心はもっぱら彼に注がれるのだ)。とはいえ明日は小さい人に剣の稽古をつけると約束がある。少なくともその時間までに戻らねば、彼らを待ちぼうけさせてしまう。約束を違えるのは、自分で自分を許せない。
「兄上、もう少し周りをご覧ください」
 弟の苦笑が聞こえるようだ。ファラミアならきっとそう言う。とはいえ、ゴンドールから遠く離れたこの地では、賢弟の助言を求めることも叶わない。
 溜息し、ひときわ太い樹の幹に凭れて地に座り込む。疲れてはいなかったが、このまま何も考えずに歩くのは危険だと、遅まきながら気が付いたのだ。とはいえ、目印のない森の中、どこをどう歩けば良いのか――
 考えあぐねていると、頭上から何かが降ってきた。黒くて大きい。すわオークかと身構えたが、すぐに違うとわかった。
「……奇遇だ」
 何故か気まずそうにこちらを振り返ったのは、アラゴルンだった。敵ではなかったことに安堵し、柄から手を離す。
 頭にかかった葉を無造作に頭を降って落とすと、アラゴルンはそのままこちらに視線だけを寄越す。
「こんな所で何をしていたんだ?」
 もう少し離れると森から出てしまうぞと真顔で言われる。
 まさか迷っていたとも言えず、不機嫌に「散歩だ」とだけ返した。
「散歩ね」
 嘘ではない。事実を少し隠しているだけだ。
 心の中の言い訳が通じたのかどうか、野伏はそれ以上追及はせず、小さく笑っただけだった。あの夜の笑みに似ている。
「そういうあんたは、ここで何をしていたんだ」
 笑われたのが癪で問うと、彼は「まあ、ちょっと」と視線を宙にさまよわせた。
「? 隠さなくてはならないほど、やましいことなのか?」
「やましいわけではないが……散歩だ」
「木の上を?」
 純粋な疑問からの問いだったが、アラゴルンは一瞬の沈黙の後、「……木の上を」とボロミアに背を向けた。その仕草が余りに気まずそうだったので重ねて問いたかったが、ボロミアが何か言うより早く「それより、」と先を取られた。
「館ではそろそろ夕食の時間だろう。私は戻るが、あんたはどうする?」
 まだ散歩を続けるつもりかと、今の話題を忘れたように声音を変えられた。
「わたしは……」
 野伏もこの男そのものが苦手ではあったし、もう少し歩いても構わなかったが、ふと自分の状況に思い至った。
 広くて目印のない森。ここから裂け谷の主の館までどう歩けば辿り着くのか―― 一人で戻るには苦労するに違いない。夜までに着けば上等だろう。しかし、「一緒に帰ろう」とも「館まで案内してくれ」とも、矜持に邪魔され言い難かった。
 ボロミアの内心を推し量ったわけではないだろうが、アラゴルンは口元で微笑し、返事をしかねているボロミアの肩を叩いた。
「私もまともな食事を摂りたい。戻る場所は同じなのだから、一緒に行こう」
 野伏が同道するから気に食わないと言うほど、狭量ではないだろう?
 挑発ともとれる言葉に引っ掛かったが、表に出すのは大人気ないと息を吐き、気を取り直す。どのみち、案内がなければ戻れない。
 一つ頷くと、アラゴルンは直ちに踵を返した。やはり彼はこのあたりの地理に詳しいらしい。目印になるものなどないような木々の中、どうやって目的地まで辿り着けるというのか。
「道を知る術はいくらでもある」
 同じに見える木々も決して同じではありえないし、森の中を何年も歩き回っていれば自然と距離感が掴める。何より、判りやすいように印をつけているから。
 太陽が昇る方角と同じ位明らかなことだと断じる口調は、会議の時と同じ、淡々としたものだった。常に野山を歩く彼ら野伏ならではの得意技なのだろう。ボロミアはそう納得した。
「あんたは……」
 喋りかけるつもりはなかったのに、思いつきを口にしてしまった。
「ここに住んでいたのか」
 答えは返されないのではないかと思ったが、気にするまでもなく、軽く答えてくれた。
「幼い頃に」
「今は?」
 何を馬鹿なことを訊いているのかと悔やんだが、それより沈黙を恐れた。風音以外の静寂は、息を重くさせるような気がした。
 問うても答えは返されないのではないかと危惧したが、思いの外アラゴルンは答えてくれた。ただし、言葉は短い。
「野伏だから」
 定住はしない、と無表情な声。
 わかりきったことだとわかっていたが、それでも重ねて問うた。産まれた時からの野伏などおるまい。
「家はないのか」
「……ないな」
 そうか、と相槌を打ちかけ、彼の本来の家の在処に気付いた。しかしそれは王を否定した後であるがゆえに口にはしづらい。
 アラゴルンの背中に視線を走らせる。薄汚れた服をまとった彼に、王の威厳は見えない。
 例えば。
 あの会議の席でもしこの男が裂け谷の主のような威厳をかもしていたら。麗美な衣装をまとって座っていたら。自分はすぐにこの男を王だと認めただろうか?
 過去への仮定ほど愚かしいことはない。理解しながら詮なきことを思う理由が、今のボロミアにはわからなかった。
 戻るつもりはないのだろうか。ずっと野伏でいるつもりなのだろうか。――ずっと? 彼を、王を待つ者が大勢いるのに?
 そのことをこの男は知っているのだろうか。それでもなお野伏でずっといるつもりなのだろうか。王より先に逝く者の方が多いとわかっていて?
 回答の得られぬ問いを繰り返しながら、ただアラゴルンの後をついて歩いた。
 沈黙の重さは、気にならなくなっていた。