その日の夜番は大きな人ふたり、すなわちアラゴルンとボロミアだった。
かつては荘厳な宮殿だった廃墟は静かだが、生き物の気配を感じる。油断せず、ふたりは回りに気を配っていた。
闇に慣れた目で、ボロミアは隣に座るアラゴルンを盗み見る。
そういえば、このような間近で彼の顔をしげしげ見つめることは、あまりない。いや、まったくないと言っていいか。よく見れば顔立ちは整っているし、何者にも支配されがたい空気を持っている。王者の気というものがあるならばこのようなものだろうか。それとも流離い人特有の気なのだろうか。盗み見るだけのはずが、いつの間にかアラゴルンの横顔から目を離せないでいた。
ややあって、不意に静寂を破ったのは、アラゴルンの方だった。
「あんたはわたしを恐れているだろう」
反論しようとしたボロミアの言葉を手で制する。
「隠さなくてもいい。あんたの目は、あんたの言動以上に正直だ」
口の端へわずかに笑みを浮かべ、静かな口調を選んだ。不満そうではあったが、ボロミアは大人しくアラゴルンの言葉が続くのを待っている。
話題としては少々唐突ではあるし、いっそう彼に嫌われるかもしれなかったが、団体行動をとっている以上、二人きりで話す機会など滅多にあるまい。アラゴルンは慎重に言葉を選った。
「あんたがわたしに向ける目、それは裂け谷にいた時よりは幾分棘がなくなったようだが、それでも他の仲間達に向けるものとは随分違うように思う。これは野伏の馳夫としての勘だ。……どうだ、当たっているだろう?」
穏やかな問いはボロミアを揶揄するものではない。こちらへ顔を傾けたアラゴルンの瞳は、周囲が闇であるにも関らず灰色だ。闇に取り込まれずそこにある。陽光の下でもないのにそんなことを感じた理由はわからない。
ボロミアは逞しい肩を震わせて、溜息を静かに吐いた。
何故、悟られるのか。
うまく隠してきたつもりだった。
裂け谷の会議で彼に反発し、エルロンドが語った事実に疑心を抱いていたのは事実。
だがこの旅程中での様々な出来事の数々、ごく些細な出来事の積み重ねのような事らの中で、それは些末なのだと気付いた。
氏素性など関係なく、この旅へかける真摯な姿勢。敵が現れれば真っ先に突っ込み、稀なる剣技でオークどもを斃す。常に戦場へ身を置いたボロミアにとって、アラゴルンの強さは信頼できるものだ。
膝に置いた指が、落ち着かずに動く。
自分の正直な気持ちを語るに躊躇いがないではなかった。だがこんな機会でもなければ私的なことを語り合う場はないだろう。語り合うことでわかることも、あるかもしれない。
長い沈黙をおき、ボロミアはようやく口を開いた。急かさず待ってくれたアラゴルンに、内心で感謝した。
「……あんたの言う通りだ、アラゴルン」
言葉の端が震えたのが伝わってしまっただろうか。危惧しながら、アラゴルンの精悍な頬にかかる、緩い癖のかかった髪の先を見つめた。顔を見つめる勇気はなかった。
「確かに俺はあんたを恐れている、と思う。ただ、あんたの何に恐れているのかわからず、戸惑っているのも事実だ。裂け谷であんたに反発したが、今ではそうでもない。旅の仲間、また王としてあんたを見るなら、信頼に充分値する人だと思う」
「……ありがとう」
言葉と裏腹に、何故だかアラゴルンは悲しそうな表情をした、とボロミアの目に映った。
自分の言ったことがまずかったのだろうか? 彼の気に障るようなことを言ったのだろうか?
青灰色の瞳は今や、闇と紛う深い色に閉ざされている。それが更にボロミアを落ち着かなくさせた。理由のわからない恐れが胸に去来する。
そんな顔をさせたいわけではないのだ、決して。
「俺は何か、あんたに失礼なことを言っただろうか」
陰った、青灰色であるはずの双眸を真っ直に見つめる。今は彼が目を伏せているので、見ることができた。
「もしそうなら謝りたい。誤解があるなら解けるかもしれないし」
ボロミアの言葉が真摯なものであることは、瞳を見ればわかった。それだけに、アラゴルンの心に落ちた陰は濃い澱になって蟠る。
気性と同じく、真っ直ぐ向かい合ってくれるのは嬉しかったが、それだけに自分の内心を正直に告白するのは躊躇われる。白日に晒せるような想いではない故に、なおさらだ。
ボロミアの視線を避けるように、さりげなく目を反らした。
「……あんたが気にするほどのことではないよ」
ボロミアは憤りを覚えた。先ほどまで彼に対して抱いていた恐れは、なりを潜めている。
彼が、アラゴルンが自分の言葉にひっかかりを感じたのは確かだろうに、何故意見してくれないのか。そんなことで怒り出すような狭量の男だと思われているのか。
だとすれば、それは自分を見くびっていることに他ならない。
「気にするかしないかは俺が受け取る問題だ。そして俺は今、俺の言葉にあんたが気分を悪くしたのではないかと心配しているんだ。もしそんなことで俺が怒ると思っているなら、それはひどい勘違いだ」
「……気分を害したわけではないのだ」
「では、何故そんな暗い顔をしているのか話してくれ」
「それはあんたの思い過ごしだ、ボロミア」
暗闇の中、アラゴルンは微笑した。彼を安心させるために。自分の言葉に偽りはないと教えるために。彼のこれ以上の追及を振り切るために。
「顔を少し伏せたから、そう見えただけだろう。あんたの言葉はわたしには嬉しいものだった」
微笑を見せられ、にわかにボロミアは戸惑った。
果たして、言葉を額面どおりに受け取ってよいものだろうか。
つい先ほどまで、アラゴルンが何かを隠していると確信していた。自分の発言で何か気を悪くしたのだと。しかし、先ほど見いだした表情の陰りを、今はどこにも見つけられない。微笑みはあくまで優しく、穏やかだ。
いや、騙されてはいけない。
「――あんたは俺を信用していないのか?」
微笑むアラゴルンを見つめた。
「それとも、俺があんたの言葉で気分を害し、あんたを疏ましく思うとでも思っているのか。俺をそんなに狭量だと?」
「それは違う」
即座に首を振ると、ボロミアに気付かれぬよう、細い溜息を吐いた。なんとか誤魔化す言葉を探さねばならない。
「わたし自身の気持ちの問題だ。あんたの発言は言葉の通りで、他意がないことは承知している。あんたが気を揉む必要はどこにもないのだ、ボロミア。しかし――どうも、話の筋道が反れてしまったようだ」
やや大袈裟に溜息をつき、軽く肩をすくめて見せる。今度は揶揄を交えて微笑んだ。
「あんたがわたしの思うほどにはわたしを恐れてはいない、そのことが解っただけで充分なのだが」
「……そんなに、俺はあんたを恐れているように見えたのか」
「恐れている……というより、緊張がよく伝わってきた。わたしはそんなにあんたを緊張させるのかな?」
「それは……」
言い淀んだボロミアの目を、今度はアラゴルンが正面から見つめ、彼の言葉を待った。
落ち着かない素振りで鼻柱を擦ったりしていたが、やがて溜息を吐き、ぽつりと語り始めた。
「――カラズラス峠でのことだ。フロドが転んで指輪を落とした……」
「覚えている。あの時はあんたがあれを拾ったのだったな」
振り返ると表現するには近すぎる、最近の出来事だった。
ボロミアは小さく頷き、掌に視線を落とした。
「あの時フロドの後ろに立っていたあんたは、じっと俺の一挙手一投足まで見逃すまいと見つめていた。
その、目が……」
「……目が?」
ボロミアが再び言葉に詰まるのを、優しく促す。
彼はアラゴルンの目をちらりと盗み見、遠くの岩に視線を移して続けた。
「目が……恐かった。それが頭を離れず、あんたを恐れているのではないかと思う」
「あれは……、あの場合は仕方無かったと言い訳させてもらいたい」
苦笑するアラゴルンにつられるようにボロミアも苦笑した。
「そう、確かにそうだ。あのままあの指輪を持っていたら、俺はあれをフロドに返さなかったかもしれない……」
「だがあんたは返した」
いや、とボロミアは首を横に振った。悲しそうな瞳をアラゴルンに向ける。
そんな目で見ないでくれ。
言葉は喉まで出かかった。出さなかったのは、先にボロミアが言葉を繋いだからだった。
「あんたのおかげだ、アラゴルン」
微笑みにわずかな寂寥はあったが、誇らしさの方が勝っているように見えた。思わず見惚れてしまう。
「あんたが俺の名を呼び、誘惑から掬い上げてくれた。だから俺は今ここに、あんたの前にいられる。――そうでなければ、あの時あんたに斬り伏せられていただろう……」
呟く声は、溜息に紛れて語尾が消えた。横顔は自嘲が滲んでいる。いつも自信に溢れている彼らしからぬ表情に、アラゴルンは唇を噛んだ。首元を探り、エルフの夕星から受け取った光を、無意識に服の上から探る。
――――どうか、彼にも恩寵を。
「……あんたは、あんたが思うほどには弱くない」
ボロミアの肩を力強く叩いた。自分の心の奥底から湧く情を誤魔化すために。
縋るような双眸も、あえて正面から受け止めた。左手を労るように包む。
「あんたはゴンドールの執政の長子で、一軍を率いる身だろう? 国のため、民のために裂け谷を自ら訪れた。そして帰る道が同じとはいえ、危険な旅に同行している。
弱い者ならそうはしないだろう。裂け谷に来ようともしないだろうし、来てもこの旅には同行しなかったはずだ。大丈夫、あんたは強い」
言い聞かせるように言ってやると、ようやくボロミアは心から笑った。真正面から見たアラゴルンが思わず後悔したほど、子供のように邪気のない、心からの安堵の笑みだ。
しかし次の言葉の方が、アラゴルンの心をいっそう苛んだ。
「そう言われると照れるが、正直言って嬉しい。話が出来てよかった。あんたのことが好きになれそうだよ」
他意がないとわかっているから、余計に辛い。
知らせるつもりはない。想いは胸に抱えたままでかまわない。操はこの星をくれたエルフに捧げたが、罪悪感はない。済まない、とはかつて想った。今は思わない。自分の心は結局、誤魔化せないとわかっている。
緩みそうな涙腺を叱咤し、アラゴルンは微笑を浮かべた。いつものような穏やかなものを選んだ。さて、うまく笑みの形になってくれているだろうか――?
「……ありがとう」
返す言葉はもう、それしか言えなかった。