声と眼差しと

 裂け谷のエルフの王、エルロンド公の御前会議から幾数日か経ったある日。
 どういう経緯でそうなったのかは忘れてしまったが、俺はアラゴルンと共に裂け谷からほど近い森を歩いていた。
 何もない所でじっとしていられない俺は、気のいいエルフ達や元気の良いホビット達を相手に剣を交えたり、彼らに請われて剣を教えることもあったが、その時はたまたま暇だったのだろう。
 二人きりでいても、アラゴルンの方から話しかけてくることはほとんどない。たまに見かける野花や草木を差し示し、あれは潰して煎じると腹下しに効くだの、煮れば食べられるだの、野伏の知識を披露してくれた。戦場や、これからの旅に役立つことかもしれないので、なるべく忘れないように努めながら、彼の横顔や背中を眺めた。

「彼はアラソルンの息子、アラゴルン。君達の王だ」

 裂け谷の主の声が脳裏に甦る。
 しかし俺は王としては認められぬと思っていた。
 それは、生まれた時から『王の不在』が当り前だったから、降って湧いた『王』への反発でもあったし、己の中で抱いていた王のイメージが、幼少の頃くどいほど聞かされ憧れていたソロンギルに強く影響を受けていたせいかもしれない(彼はソロンギルとかけ離れているように思えたのだ)。
 この小汚い野伏が我らの王と認めるには、説得力がなさすぎた。
 しかし、何故俺は毛嫌いしている人間と共にいるのか。
 タイミングを失ったせいだと思うことにしておく。彼の、人を寄せつけないくせに奇妙な好奇心を抱かせる空気に負けたからではない。決して。
「ボロミア」
 野伏の低い声が俺の名を呼ぶ。心の臓が跳ねた。
 もう一度名を呼ばれ、慌てて「何だ」と返す。少し素っ気無さすぎただろうかと悔いたが、嘆いても遅い。
 彼は不審そうに首を傾げると――あろうことか、俺の顔へ手を伸ばしてきた!
 その時の俺の動揺がいかばかりか、例えるなら平坦な道で奇襲攻撃を食らったようなものだ。
 心の準備もないまま彼を間近に感じ、あたかも石像に変じてしまったがごとく、この身は微動だに出来ぬ。
 俺の心の揺らぎに気付くことなく、野伏、いやアラゴルンは首元に触れ――そして離れた。離れる間際、首元にちくりとした痛みがかすかに走ったが、気にかける余裕はない。
「……大丈夫か?」
 気遣わしげな青灰色の目が俺を正面から捉える。
 俺はと言えば彼に己の鼓動を隠すのが精一杯で、声の震えを押さえることも出来ない。
「だ、大丈夫とは……?」
「気付かなかったのか」
「何に?」
「今私が払ったのは毒虫だ。毛虫で、人の血を吸う。顎に毒があって、吸われる時に毒を仕込む。針で刺されたような痛みなど、感じなかったか?」
「……そういえば……」
 先程、まさに針で刺されたような痛みを首に感じた。よもやそれだろうか。
 言うと、野伏は険しい顔をした。「見せてみろ」と言い、首元を少し寛げるように言う。少しばかり戸惑うと、彼は苦笑した。
「そう構えないでくれ。治療するから」
「あ、ああ……」
 何故か彼の言動にどぎまぎとしてしまう自分に、内心で舌打ちした。
 彼は純粋にこの身の心配をしてくれているというのに、何故いちいちとまるで恋を覚えたての少年のように動揺しているのか。
 しかし「恋」という単語に行き当たった自分に、また動揺してしまい、服を寛がせるにも指が思うように動かず、結果として更に野伏を苛立たせてしまった。
 ボタンを外すと彼は首元を更にはだけさせ、俺の髪を掻き揚げて、恐らく虫がいたのであろう場所を見た。
「……噛まれた跡がある」
 小さく呟くと、どこからともなく何かの葉――恐らく何かの薬草なのだろう――を出し、口に含んで何度か咀嚼すると、俺の首元へ顔を近付ける。
 何をするかと思えば、首へ舌を這わされた。さすがにぎょっとして身を引くと、それを押さえつけるように腕を掴まれた。
「な、何を……」
「薬を塗っているだけだ。毒が回れば動けなくなる。もう少し近寄ってはくれないだろうか」
 窺うように青灰色の双眸に見つめられては、否と言えるわけがない。大きく息を吸って意を決すると、一歩寄って首を彼に晒した。
 再び首に生暖かい感触を受け、続いて得体の知れない感触を受ける。恐らく、口に含まれた薬草なのだろう。なんとも言えぬ、爽やかな香りに心が落ち着かされる。
 暖かい感触が離れたかと思うと、野伏は傍らの木の陰に座るように言ってきた。大人しく従い、滑らかな木の幹を背凭れにして座る。
「暫く安静にしておいた方がいい。応急処置はしたが、少しでも体の中に入った毒が回らないとも限らないから」
 言いながら、肩に担いでいた布袋から包帯を取り出し、首へと巻いてくれた。
 そうして、ふと気付いた。
 この男の声は、ひどく自分の心を落ち着かせてくれる、ということに。そして、
「……ボロミア? どうした? 気分でも?」
「いや……大丈夫だ」
 青灰色の瞳は、俺の心を漣立たせる、ということに。