湖面に浮かぶ月

「アラゴルン、」
 小さな火に小枝をくべて、ガンダルフがこちらを見上げた。左側の目が、炎を受けて赤っぽく輝いている。
「火は私が見ておくから、水を浴びてくるといい」
「いや、私は」
「遠慮することはない。小さな人達はもう眠りの国だし、まだレゴラスとギムリも起きていてくれているから」
 私達が信用できないと言うなら話は別だが。
 魔法使いの灰色の瞳が悪戯色になる。微苦笑が浮かぶ。そう言われて固辞するのは、いかにも頑迷であるように思われる。
 諦めたように小さく頷くと、夕暮れ刻の探索で見付けた泉へと足を向けた。
「ボロミア、あんたも一緒に行ってくるといい。ここは心配いらないから」
 ガンダルフの言葉に、思わず足が止まる。
 いくつかのやり取りの後、「アラゴルン」とボロミアが呼びかけてくる。短い言葉で返事を返し、不自然にならぬようにさりげない風を装って振り向く。
「一緒に行っても?」
 躊躇、というより戸惑いの表情。多分その憶測は当たっている。
 出来るだけ自然に微笑んだ。彼の戸惑いを消せるように。
「――勿論。男同士で遠慮することなどないだろう」
 言ってやると納得したのか、ボロミアは小さく頷き、では、と踵を返した私の後を追ってきた。


「アラゴルン」
 しじまに彼のかすれた声が響き、湖面を波立たせる。
 私はわざと間を置いてから彼に答えた。
「ボロミア…?」
 名を呼ぶだけでどうかしたのかと尋ねると、彼は小さく溜め息した。月光が彼に斜めに差し、日の光の下では明るいブラウンに見える髪が、顔に陰を落としている。
「……傷が多い」
 ややためらいがちの言葉は何を指しているのかと思えば、どうやらこの身の話らしい。
 ああ、と頷いて布で身体を擦る。久方ぶりの水は、旅に疲れた身体を癒してくれているようだった。
 視線を彼から己へと落とす。彼の指摘通り、この身体には大小を問わず傷が多かった。ただし、その大半は古いものであるのだが。
「今までまったく、戦闘を経験していないわけではないから」
 怪我が多くなるのも無理はない。呟いた言葉はかすかなものだったが、夜風が彼の耳へと運んでくれたらしい。
 彼は意外そうな視線を私に寄越すと、湖面を荒立たせてこちらへ寄った。
 にわかに鼓動が跳ねる。
 彼は私の左肩、鎖骨に近い位置にある古傷に指先で触れた。
「随分深そうだ」
「……古傷さ」
 なんでもないような顔を作って肩をすくめるには、いささかの労力が要った。
 古傷が痛むのではない。
 この無防備な人に、鼓動の乱れを悟られまいとしてのことだ。
 そうして彼は――あろうことか、そのまま傷を指先で辿ると、間近で憂い顔を見せたのだ。そんな顔を見せるなとわめき散らしたい気持ちだったが、言った所で彼に理由はわかるまい。私は微苦笑を作るとやや不機嫌な声音を選んで「くすぐったい」と言ってやった。
「すまない」
 短く彼は詫びてその傷からは指を離したが、今度は上腕の傷に触れた。
「…珍しいものではないだろう、ゴンドールの大将どの」
「いや…それはそうなのだが」
 彼はようやく指をこの身から離れさせると、小さくはにかんで見せた。そしてそれを誤魔化すように髪を掻き上げ、笑む。
「あんたの身体に、こんなに傷があるとは思わなかった」
 いつもは肌が見えないから。
 子供のような言い訳が微笑ましく、自然、口元が緩む。
「あんたこそ、いつもきっちり着こんでいるだろう」
 私の方こそ、あんたの身体にこんなに傷があるとは思わなかった。
 言ってやると彼は苦笑した。揶揄されたと思ったのだろう(私にそんなつもりはなかったのだが)。
「ファラミア――弟などは、大将が先陣きって戦うものではないと、いつも俺を怒っていた。そうは言われても、性分だと言い返すといつも、呆れたような溜め息をついて、わたし達を悲しませるような事態にならないことを祈っています、と言うのだ」
 故郷が懐かしいのか、目を細めて今までに見たことがない優しい表情をする。――会ったことも見たこともない彼の弟に嫉妬したと言ったら、彼は笑うだろう。
 言葉もなく微笑む私を、彼はやや上目に、窺うように見てくる。動揺を押さえこみながら何かと尋ねると、
「その…あんたもそう思うか?」
「何がだ?」
「大将が先陣きって戦うのは、好ましくないと」
 叱られた子供のような、やや堅い声音。想像するまでもなく、都でそのように彼を評する者がいるのだろう。彼がそういった中傷めいた噂を気にするとは意外だが。
 私は肩を竦めると、何でもないという風に笑った。
「言った所で、あんたは戦い方を変えたりはしないだろう。もし私がゴンドールの兵士であるなら、そんな大将どのを死なさぬように精一杯戦うまでだ」
「……そうか。そう言われると、嬉しい」
 私の言葉に彼は心底嬉しそうに笑う。栄光あるゴンドールの大将が、それもいい年の男が、こんなにも邪気なく笑えるものなのかと、数瞬見とれてしまった。
 慌てて取り繕うのもおかしな話だ。私は湖水を両手で掬うと顔を洗い、手巾で拭った。
「…さあ、そろそろ戻らなくては小さな人達が心配してしまう。身体は奇麗になったか?」
「ああ、そういえばそんなに経ったのか。気付かなかった」
 言われなければずっと話し込んでいたかもしれない、という彼の言葉を、私は素直に喜ぶことにした。
 上弦の月は、ここへ来た時よりわずかに位置を高くして、我等を見下ろしていた。