彼――ボロミアはゆっくりと階を上り、サウロンと対峙するイシルドゥアの絵の前で止まる。呆けたように見上げているのは恐らく、物語で読んだか歴史で習ったかの大戦へと思いを馳せているのだろう。
彼が纏っているのは夜衣ではなかった。月光で見える彼の衣服は、執政の息子たるに相応しい、質素ながらも上等なもの。華美な装飾は無く、色も落ち着いていて嫌味が無い。
(あの赤子がこのように立派に成長したか)
かつて白き都に王としてではなく、野伏としてではなく、名を変えて暮らしていた頃、産まれたばかりの彼に言祝ぎをしたことがある。
執政を継ぐ者よ、剛く――美しくあれ。
その後、彼がどのように成長したのかは知らない。数度見かけたことはあるが、長く付き合ったわけではないからだ。
何かに操られるように、ボロミアは背後の女神像を振り返り、彼女が捧げ持つ盆に気付いた。
「…ナルシルの剣…」
うっとりとした呟きは確かに、彼の思いを表していた。
多くの感動と憧憬。――子供のように真っ直ぐそんな感情だけをもてるボロミアを、アラゴルンは羨んだ。
アラゴルンがあの剣を見る時に抱くのは感動でも憧憬でもない。
強い怖れだ。
イシルドゥアはサウロンを打ち倒した英雄ではない。
力の指輪を破壊できず魅入られた、指輪の亡者の一人。言ってしまえばナズグルやゴクリと同類だろう。殺される事がなければ、きっとそうなっていた。
指輪に囚われた弱き意志――それは彼の裔たる己にも確実に流れている。どれほど血が薄まろうとも、彼の血は己の中で生きているのだ、確実に。その弱さを自覚している限り、克服出来ぬ限り、自身が都へ戻る事はないだろう。
ボロミアが刀身に指を滑らせ、指を切るのが見えた。まだ鋭い、と驚嘆の呟きが聞こえる。
当然だ。エルフの造った剣は錆を知らぬ。とはいえ彼を馬鹿にする気はない。畏れも怖れもなくその剣を躊躇いなく手に取る事が出来るのは羨ましい。
ふと――ボロミアがゆっくりアラゴルンを顧みた。ようやく柱の影にいた人物に気付いたのだろう。
数瞬、彼と視線がぶつかる。
剛く――真っ直ぐにアラゴルンを見つめる双眸。
かれの性質をよく表しているだろうその瞳に、強く惹かれた。
気圧される事こそなかったが、アラゴルンが視線を外そうとするより早く、ボロミアが動いた。
「――壊れた剣にしか過ぎない」
それだけ言うと、乱雑に剣を盆へと戻し踵を返した。バランスを崩した柄が床へと落ちて音を立てたが、わずかに足を止めただけで振り返りもせずに立ち去ってしまった。
(…名乗るくらいすれば良かったか)
考えてみれば、こちらは彼のことを知っていても向こうは初対面のようなものなのだ。少年時代の彼と会ったこともあるが、今の様子では恐らく覚えてはいまい。――もう随分昔の事だから仕方ない。
床に横たわるナルシルを拾い上げ、盆へと返す。
盆を持つ女は、優しい瞳でアラゴルンを見下ろした。その瞳は遠い記憶にある母というものを思い出させ、またアラゴルンの心を焦がした。