後朝の徒然

 気怠い後朝。
 ベックマンの朝は、時にシャンクスほど快適には迎えられない。決して低血圧ではないのだが、稀に寝起きが悪い朝もある。原因が何だかは知れない。が、この日が丁度そんな寝覚めだった。
 もっとも、時刻は朝と言うには大分日が昇り、昼過ぎと言った方が近い時間だったのだが。
 目を閉じたまま、思考だけを動かす。
 体、というよりは体の背面が酷くだるい。戦闘の後ですら筋肉痛を感じないのに、さすがに羽目を外しすぎてしまっただろうか、と昨夜を思い出しかけて止めた。
 喉の奥で小さく呻き、瞼を開く。視界に飛び込んできた紅に、思わず何度も目を瞬いた。それが何であるか認識すると、起き抜けの溜息を漏らした。酷く重い。
「……趣味が悪い」
 開口一番の台詞に、隣から身を乗り出していた男は額にかかる髪を払ってくれた。
「何だよ。自分だってオレより早く起きたら寝顔くらい見るくせに」
 紅の髪を揺らして、朝に似合わぬ笑みを見せる。
 人の寝顔は見て自分のは見るななど、道理が通らない。反論してやると、ベックマンは苦笑した。
 屈強な男の寝顔なぞ、見て楽しいものでもなかろうに。
「……それは、オレの寝顔は楽しいって言いてェのか?」
「一番静かな顔だからな。楽しいと言うより、安心する」
 起きた後は気が抜けない。何をしでかすかわからないから。
 自船の船長に対して余りに率直な評に、シャンクスは鼻白んだ。揶揄されたと思ったのかもしれない。
 ベックマンの裸の腹筋の上に頬を乗せ、見上げて口を尖らせる。
「悪かったな、落ち着きがなくて」
「悪いとは言ってない。仕事の邪魔さえしてくれなければ、それでいい」
「船長に言う言葉かよ?」
「だったら、言われないようにしてもらいてェもんだな」
「…………」
 薮蛇だったと、その表情が物語っている。ベックマンは目を優しく細め、寝癖だらけの赤髪をかき混ぜるように撫でてやると、ベッドに肘をついた。男が起き上がる気配を感じて、シャンクスが頭を枕に移動させる。
 上体を起こすと身体を捻ってベッドから脚を下ろした。サイドテーブルに置いていたシガレットケースから一本取り出すと、燐寸を擦り、火を移す。
 ふぅ、と、溜息にも似た息が漏れて煙の匂いが立ち込める。肺がニコチンで満たされ、痺れる感覚。決して嫌いではない。
 シャンクスはベックマンのその様子を、背中越しに眺めていた。
 起き抜けの――空腹の一服ほど煙草をキツく感じることはない、とこの男は以前に言ったことがある。くらくらするのだと。
 ならば飯を食って胃を満たしてやってから吸えばいいものだが「習慣だから」と、返された。
 ヘビースモーカーというのは、概ねそのようなものなのだろうか。そういえばヤソップも以前、同じようなことを言っていたかもしれない。
 その感覚は、稀にしか吸わぬシャンクスにはさっぱり理解できなかった。どうせ吸うなら美味いと感じる時だけにすればいいのに。
 よしなしごとから思考を切り替え、目の前の男の背中を見つめる。背筋が綺麗で傷の多い、広い背。小さなものから大きなものまである傷跡は、いつの戦闘で残ったものなのか、さすがにわからない。
 怪我が多いのは男が弱いからではない。むしろ逆で、時に愛銃を振り回し、混戦でも突っ込んで行くからだろう。
 戦闘中、気が付くと背後や左にいたりするのだ。他の人間では測れぬ赤髪の呼吸を、この男は読む。それが心地好い時もあれば、苦笑してしまう時もある。その意味で、戦闘とセックスは似ているかもしれなかった。
 ふと、肩甲骨のあたりに夕べ己が新たに刻んでやった痕を見付け、反射的に照れた苦笑が浮かぶ。久方ぶりの陸に浮かれた名残だ。
 最中は何も思わないが、素に戻った時に己の嬌態を思い出させられるのは、さすがに気恥かしい。例え四十が間近であろうとも、だ。身体に跡が残るのが稀なので、余計にかもしれない(痕を滅多に残されないのは自分が嫌がるからではなく、男が残さないからだ)。
 爪は事に及ぶ前に短く切られたものの、それより立てる指の力の方が強かったらしい。痕は赤くはっきりとした筋として見える。
「……なあ」
 声をかけておきながら、仰向けに転がった怠惰な姿勢のままで片足を上げる。右手の指同様、短く切られた爪が見えた。
「……なんだ」
 足の感触を背に受けたまま、振り返らず紫煙を薫らす。シャンクスは背に乗せた足に体重をかけた。
「背中は、自分じゃ見えねェよな?」
「…ああ」
「いい背中してるよ。背筋力、滅茶苦茶ありそう」
「そうか」
「うん」
 会話を途切れさせた後でも、足を下ろす気配はない。どころか、足の指で背骨や肩甲骨に触れてくる始末。
 何の戯れかと思ったが、触れ方で意図を掴み、思わず笑ってしまった。全く、衝動に前触れが見えない人だ――人のことは言えないが。
 煙草一本を時間をかけてフィルタに触れるぎりぎりまで吸い切ると、ようやくシャンクスを振り返ってやった。
 褐色に焼けた脚が白いシーツから伸びて、爽やかな朝に似合わぬ淫蕩な色合い。彼が浮かべている笑みもまた、淫靡なもの。
 ぴくりと瞼を震わせて、ベックマンはシャンクスの細い足首を掴んだ。
 シーツが重力に負けるようにずり下がり、あまり日に焼けていない太腿が晒される。
「……起き抜けから、不健康極まりないな」
 自嘲気味の言葉に、シャンクスは口の端を釣り上げた。己の意図を理解し、かつ逆らう気がないことは表情から知れた。
「そこは黙って誘われておけよ」
「昨日、泣くほどやったじゃねェか」
「昨日は昨日、今日は今日!」
 切り捨てて猫のように笑い、人差指で招く。ベックマンは足首を掴んだまま上体を曲げ、呼ばれるがまま口付ける。流されている己を身の内で嗤いながら、それでもシャンクスを揶揄するのは忘れない。
「朝飯だけでなく、昼飯も食いっぱぐれる気か?」
「たまにはイイだろ。その代わり、夜は奢るからさ」
 それから煙草を吸えよ。
 間近で魅惑に笑み、ベックマンの頬を指先で撫ぜた。
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