熱っぽい息を、肺の奥からゆっくり吐き出していく。それは極度に疲労した時の溜息に似ていた。
一人きりの暗い寝室に、自分だけの呼吸音が響く。
風邪を引くなど、どれほど久しぶりの事だろう。一人暮らしをしていた頃は、不摂生がたたってか何度か高熱を出して休んだ事がある。それ以来の事だろうか?
高い熱の山場は越したように思うが、それでも自分で自分に熱があるのはハッキリわかる。
汗ばんだ掌を握り、手の甲を額に押し当てた。氷枕はとうに温くなっている。新しいものに換えたかったが、生理的現象以外で立ち上がるのは酷く億劫だった。
「鬼の霍乱?」
シャンクスに言われたが、怒る気にもなれなかった。昨夜はそれほど熱は無かったように思うが、一晩明けて検温してみると八度四分。平熱が低いベンにしてみれば、これはかなりの高熱。発熱によって関節の節々が鈍く痛み、思考は熱にう奪われボウっとしてしまう。
喉が渇くのは、枕元に置いた二リットルのポカリスエットで潤した。あまり飲みすぎるとトイレに行かねばならないのが難点だが、贅沢は言っていられない。
薄暗い部屋の中で、天井を見上げる。壁に目を落とせば、スチールのシンプルな壁時計が深夜である事を教えてくれた。
シャンクスは恐らく、まだ店で働いているだろう。或いはそろそろ片付けを始めているかも知れない。今日は忙しかっただろうか? グラスを割ったりしなかっただろうか? エースと喧嘩したりしなかっただろうか?
同棲しているのだから、それこそ四六時中一緒にいるはずなのに、何故か今無性にシャンクスの顔が見たかった。寂しい、のかもしれない。仕事をしている時間、たかだか数時間なのに、今のベンにはそれが千秋のように感じられる。
こんなに気が弱くなっているのも、恐らく熱のせいだろう。
(情けない…)
他人には絶対に見せられない姿だ。再び溜息をついて寝よう、と目を閉じるが、日中もずっと眠っていたのですぐには睡魔は襲ってくれない。虚しく寝返りだけをうつ。
何度目かにドアの方へ寝返りをうった時、まるでタイミングを見計らったかのようにドアが開いた。思わず体を起こしかけたが、入ってきたのが待ちわびた人だと解ると肩の力を抜いた。おかえり、と小さな声で言うと、シャンクスは驚いたようにベッドの傍にやってきて、ベッドのすぐ脇の壁に取りつけたフットライトだけを点けた。
「あれっ? 起きてたんだ?」
「ああ…」
「具合は? まだ悪い?」
「ん…」
ベッドの脇までやってくるとベンの顔を覗き込み、額に手を当てる。その手はひんやりしていて、とても心地よい。
「ん〜〜〜〜…まだちょっと熱あるかな。ヒエピタでも貼っとくか」
「…それより、」
アンタの手の方がいい。
呟いて、緩慢な動作でシャンクスの手を取る。シャンクスは戸惑ったようにベンを見下ろした。
「洗い物した後だから、そりゃあ冷えてっかもしれねェけど…すぐに温くなるぞ?」
「構わない。この方が…落ち着く」
取った手を額に当てる。ただ冷たいだけではない。手の感触は、先程までベンが感じていた寂しさを払拭するに充分な暖かさだった。
ひとりじゃない。
この熱は、そう言ってくれているようで…熱で弱って不安定だったベンの心を穏やかにした。
目蓋を擦りつけるように手に触れているベンの、汗でしっとりした髪の生え際を指先でゆっくり梳いてやる。見つめる眼は自然、優しいものになった。
「…寂しかった?」
「ああ」
ベンがそんな事を認めるなんて珍しい。普段なら絶対に即否定してくるはずだ。これは相当に弱っているのだろう。
ビニル袋をベッドの脇の低いチェストに置いて、両手でベンの熱い頬を包むと、顔をすぐ近くまで近づける。
「今ならオマエのために何でもしてやりたいよ」
慈母のように微笑んで、頬に軽く口付ける。そうして小さな子供にするように頭を撫でてやってから、
「昼もほとんど食ってないから腹減ってるだろ? おじや食べるか?」
「……アンタが作ったのか?」
「勿論。…ンな顔すんじゃねェよ、失礼だな。レシピはマキノさんから聞いたヤツだから」
変なモンは入ってないよと言って、ビニル袋の中からアルミホイルに包まれた何かを取り出す。アルミホイルの包みをはがすと、食欲をそそる温かな芳香が、鼻腔をくすぐる。
「具はシンプルにネギと鶏肉と卵。ほれ、口開けな?」
上半身を起こしたところに、蓮華で掬ったおじやを持ってこられる。さすがに硬直した。するとシャンクスは妙な表情をしたベンを怪訝そうに伺う。
「ん? どうした?」
「…自分で食える」
「いーから遠慮すんな。ほら、喰えって」
ホラホラと口の前に蓮華を押し付けられ、仕方なしに口を開いた。純粋な行為であろうと面白がっているのであろうと、これは食べ終わるまでしつこく続けるに違いない。争う気力はないので、諦めて不承不承ながらも食い付いた。人間、諦めが肝心な時もあるのだ。
ゆっくり咀嚼して嚥下するのを見守りながら「どお?」と不安そうにベンを窺う。
「ん…うまい」
風邪を引いている時は舌が馬鹿になっているからかもしれない、とは口に出さず、嬉しそうに笑うシャンクスに嬉しくさせられる。
母鳥が子鳥に取って来た餌を食べさせるように、タイミングを窺いながら蓮華をベンの口許に運ぶ。すっかり皿を空にすると、薬を飲ませてから体を布団の中に戻させ、頭を優しく撫でる。
「一緒に寝てやろうか?」
「伝染るだろ…やめとけ」
苦笑すると、シャンクスは口を尖らせて反論してくる。
「だってオマエ、さっき、なんかすっごい不安そうな顔してたんだもんよ」
「……そんなことは…」
「あるって。気付いてないだけだろ」
断定されても、認めるのは少しだけ恥かしかった。苦笑しつつ額を撫でる手を取って、指先に口付ける。
「…たとえそうだとしても、一緒にいたら伝染るだろ。今日は別に寝た方がいい…」
「ん」
聞き分けた顔で頷くと、額の汗を拭ってやって素早く口の横に口付け、悪戯が成功した子供のように笑う。そうして「おやすみ」と囁くと部屋を出て行った。
暗い部屋に一人になったが、先ほどまで感じた寂しさは、今はもうどこにもなかった。穏やかな、安心した気持ちで目を閉じると、暫くして睡魔が体を襲う。明日には熱が引いているような気がした。