その日は久しぶりにベックマンの方からシャンクスの部屋を訪れてきた。
入って来た時から男は無言だったが、昼前に戦闘があった事もあり気分は昂揚したままだったので、シャンクスの方はする事自体に異存はなかった。
――ベックマンの様子がおかしいと気付いたのは、前戯の時からだ。
確信に変わったのは、普段、少なくとも船上ではここまで無茶に抱かないという抱き方をしたからだった。
「て、め…いい加減に止めやがれっ!」
いい加減疲れた体を押して、更にのしかかってこようとする男を拒絶の意味で肩を押して体を起こそうとした。が、体格差に有無を言わさずシーツの海に戻される。
「体がもたねェって言ってるだろっ!」
「聞かない」
言葉通りシャンクスの言葉を無視して体を弄り始めたベックマンの髪を引っ張りながら、ともあれ性急かつ貪欲に行為を続けようとする男を止める。
「待てってば! 何なんだてめェ、今日は!」
「………別に……」
ぴたり、とベックマンの動きが止まる。
部屋に入ってきてから一度も言葉を発さなかった男がようやく言った言葉がそれだ。シャンクスは荒れた息を無理矢理収めると、いつも男が自分に寄越すような、盛大な溜息を返した。言葉は一言にしか過ぎなかったが、全ての感情を殺してはいなかった。
(…ったく…!)
どうしてこうこの男は手がかかるんだと、日頃の自分は棚に上げて、怒るよりも先に苦笑が漏れた。
他の船員から完璧な男と見られているとしても、それは人目がある時だけで、二人きりの時は決してそうではないと知っている。だからといって素直に感情を吐露する男ではない事も。――勿論、自分もそうなのだが。素直ではないが、どういう状態なのかわかれば、扱いはそう難しいものではない。シャンクスは小さく溜息をついた。
「…わかった。続けていい。けど、その前に顔ちゃんと見せろ!」
なんとか体をヘッドボードにずり上げるようにして逃げると、ベックマンの頭を右手で無理やり上げさせる。濃紫紺の瞳を覗き込むと、すぐに逸らされた。だが奥に潜む鬱屈を見逃すほど鈍いシャンクスではない。
――なんて昏い眼をしてるんだ、コイツは!
呆れると同時に舌打ちをして、右手一本でベックマンの頭を掻き抱いた。
「誰もテメエを責めたりしてねェだろう!」
ベックマンの鬱屈の原因があるとするならば、それは一つ。昼前の戦闘だ。
赤髪海賊団は、自分達から喧嘩を仕掛ける事は稀だが、売られた喧嘩に応じないほど大人しい海賊団ではない。この日の喧嘩相手は、上場途中で勢いのある――しかし粗野な――海賊団だった。名まで一々覚えてはいない。子供と遊んでやるような勢いで相手をしてやると、早々に退散していった。恐らく被害は甚大ではあるまい。引き際を知っていた、と言えなくもない。
赤髪海賊団に被害はなかった。負傷者が若干名いたが、重傷ではない。――それはあくまで人間の話だ。
猫が一匹、重症を負った。
二年前から鼠捕りのために乗船させた、シャンクス気に入りの虎猫。彼がこの戦闘で負ったのは、右の後足の半ばが千切れるほどの重症だった。
タイミングが悪かったのだとシャンクスは納得している。甲板へ逃げた鼠を追いかけて猫も甲板に出た。甲板へ出るドアが開いていたのは偶然。そして甲板で戦闘が起きていたのも、足元の猫に気付いたベックマンが一瞬気を取られて敵の刃を受けかけたのも、その時に猫が敵の足に噛み付いたのも、振り払った敵が刃を払って猫の足を斬ったのも。
「…タイミングが悪かった。仕方ねェ」
「どうして…!」
撫でようとしたシャンクスの手を振り払って、ベックマンは勢い良く身を起こした。その面に見える感情は苛立ち。恐らく、自身への。
「どうしてアンタはそう簡単に割り切れるんだ!」
言った直後、「しまった」という表情をしてベックマンは俯き黙った。普段感情を露にする性質ではない。それほど切羽詰って思い悩む事だろうか?
済まない、と小さく詫びる男を引き寄せて、道に迷った子にするように額に口付け、抱きしめた。ここは許される場所だと示すように。躊躇いがちにベックマンの両腕がシャンクスの背に回り、強く抱きしめ返してくる。
ベックマンが感情のままに発言するのは、普段ではまずありえない。とすれば、普段からは考えられないほどこの男の気が弱っている、ということだ。
「……猫に庇われて、その猫が怪我をしたのがそんなに辛いか?」
違う、と否定は間をおかずに返されたが、語調は弱かった。
こんなにこの男が弱くなっている姿を見るのは珍しい。物珍しさが先に立ち、シャンクスはベックマンを甘やかす事に決めた。目に見えぬものを怖れて眠れぬ子供をあやすように、ゆっくり背を撫でて髪に口付ける。
「じゃあ、何がオマエをそんなにしてるんだ?…ああ、言いたくなければ言わなくていい」
「………」
暫しの沈黙が二人を包む。その時間は決して長いものではない。ベックマンはシャンクスの肩口に頭を預け、中身の途切れた袖を軽く握った後、残った左上腕を撫でた。何も口には出さなかったが、シャンクスにはそれだけで何かわかったような気がした。苦笑が浮かぶのは止むを得ない。
「…それも、オマエのせいじゃねェだろう」
「わかってる…」
ほとんど溜息だけで言うと、ベックマンは小さく頷いた。シャンクスを抱きしめるベックマンの腕の力は、一本になったとはいえ、変わらなかった。
理性と感情の納得及び理解は違うと、シャンクスは考えている。そして理解と納得は別物だとも。
だから今ベックマンが言った「わかっている」は、理性による理解だろう。恐らく納得は、理性においても感情においても出来ていない。それは仕方ない事だと思う。誰も彼も同一に、自分と同じように納得しろと言うのは無理な話だ。だからといって何年も経っている事をこうも引き摺られると、そんなに大事だったのだろうかと不思議に思い、かつ同時にこの男が愛しくなる。いつもならば弱い所をうかうかと見せるような男ではないので尚の事。
右手でわしゃわしゃと髪をかき混ぜるように撫でてやっているうち、自然に浮かぶのは笑み。
「大丈夫だ。あの猫は強い。そりゃあ暫くは鼠捕りもできねェだろうが、元気になる。足だって完全にもげたわけじゃないんだから、くっつくかもしれねェ。…まァそのへんはギィの腕次第だけどさ。ヘコむのはわかるけど…」
一度口をつぐみ、天井を仰ぐ。
違う。
言いたい事はこれではない。
天井を向いたまま目を閉じると、言いたい事に近い言葉を頭の中で必死に探し、凪の海のようにゆったり語る。
「……オレにはオマエを上手く慰めてなんかやれねェし、オマエもそんな事望んでないかもしれねェから、上手くは言えねェけどさ………今だけは思い切りヘコんでていいよ。何を思い出してもいい。悔しがってもいいし、何なら泣いてもいい」
オマエの全てをオレが許す、とこめかみに口付ける。
その言葉が、温かさが、ベックマンの心を震わせた。
骨も砕けよとばかりにシャンクスを抱きしめる。
シャンクスは呻くように苦しいよと言いながらも解けとは言わず、ただ黙ってベックマンの頭を撫で続けた。他にかけるべき言葉が、少なくともシャンクスは自分の中には見当たらないと思ったからだ。ならば慰めにでも、この男に触れていよう。撫でるという行為は、心を落ち着かせるものだから。
ベックマンが穏やかな寝息を立てて寝入った後も、シャンクスは彼の頭を撫で続けた。
(なんでもかんでも背負い込むんだからな…)
苦労性ぶりにはさすがに苦笑を禁じえないが、直せといって直るものでもないだろう。
だから、たまにこうやってベックマンを甘やかす事にしている。
カーテンの隙間から見える空は、満点の星空。小さな灯りがちらちらと闇の中で自己主張をしている。
これなら明日もきっと晴れる。
出来るなら、天気と同様にこの男の心も晴れて欲しい。それが出来なくとも、今宵この男が見る夢が、眠りが、どうか安らかなものでありますように。
殊勝な気持ちで、猫の無事も祈った。
ヘッドボードからずるずるとずり下がると、なんとかシーツを手繰り寄せて目を閉じた。
翌朝一番に船医であるドクトル・ギィに「猫の足は繋がる」と報告を受けると、ベックマンの表情が心なしか安堵した、ようにシャンクスには見えた。