外気の冷たさは病み上がりの体にひどく堪えた。だが来なければならなかった、と強く言い聞かせ、アパートの前に立つ。
ミホークから様子を聞いた限りでは、かなり悩んでいるらしい。無気力なのだと言っていた。
昔は思慮深いガキで済んだのに、今では考えすぎるバカになってしまったらしい。
難儀なヤツだ。思わず苦笑が漏れる。
強姦がショックではなかったのかと訊かれれば、勿論ショックだったに決まっている。だがそれ以上に驚いたのだ。ベンが自分のことでそんなに悩んでいたという事実に。
彼の気持ちにまったく気付かないほど鈍くはない。見つめられる視線の強さに、いつからだったか彼の想いを知った。友達の意味ではなく思われていると。
ただそれが自分の自惚れなのかもしれないと思って、訊けなかったのだ。
「……早く訊いてやりゃあ良かったな……」
思いつめていると知っていれば―――。
今となっては遅いが、悔やまれる。
それも、今日までの話にしてやろう。
決意してアパートの階段を上った。
「風邪引いてるって奴が暖房もつけずに薄着で居眠ってんじゃねェよ!!!」
「?!」
誰かの声に目が覚めた。がばっと起き上がり目の前に仁王立ちしている人物を認めて、「時が止まる」という言葉を実体験した。
「シャ……」
腕を組んでベンを睨み下ろしているのは、シャンクスだった。
何故彼が?いやこれは夢なのか?
混乱しているベンを他所に、シャンクスは「ったくしょうがねェなァ」と溜息をつき、目の前でどっかり胡座をかく。
「何、鳩が豆鉄砲食らったような顔してるんだよ」
「あ……いや……」
困ったことに、混乱した頭では発するべき言葉が出てこない。出てきたかと思えば、
「――なんでここにいるんだ?」
当然といえば当然だが、立場を考えれば的外れな質問だ。だがシャンクスは笑う。
「バッカ、オマエ、そりゃあオマエが酷い風邪引いたって先生から聞いたからだよ。聞いたら見舞いに来るのが人情ってもんだろうが。オレも風邪引いてたから、見舞いに来るの遅くなったけど」
シャンクスの言い訳は耳を上滑りした。聞きたいのはそういうことではない。
「……玄関」
思わず呟いてしまった。
たしかミホークが出て行ってから一度も外に出ていない。だから鍵は掛かったままのはずだ。鍵のかかった部屋にどうやって入ったのだ?
指摘すると、シャンクスは頬を掻いた。
「あ。…だってオマエ、鍵の隠し場所、10年前と一緒なんだもんよ」
勝手に開けて入っちまった、ごめん、とテレ笑いする表情は、ふだんのそれとまったく変わらない。それがかえって不自然な気がして、
「……平気なのか?」
墓穴を掘ってしまった。
首を傾げて見つめるシャンクスの視線が刺さる。
「平気って?」
「いや……だから……」
言い淀み俯くベンの顔を見て、シャンクスは肩を竦めた。
ミホークの言葉を疑ったわけではないが、相当気にしていることはわかる。
「……謝る気はねェって言ったじゃん、オマエ」
わざと軽く言うと、ベンは顔をあげて反論を寄越す。
「それは!……それは、あくまで、アンタを抱いた事についてであって……無理矢理したことについては……」
尻すぼんだ言葉。シャンクスは微笑んだ。
「後悔してる?もしかして」
「…………」
「…………」
シャンクスの顔を見るのは、やはりできなかった。後悔という言葉の意味を噛み締め、俯く。
後悔ではなく、恐れていたのだ。以前のような『友達』には戻れないことを悲しんでいる。自業自得だとわかっているから口にはできなかった。
沈黙を縫って伸ばされた手に、ベンは硬くした。殴られると思った――が、予想に反して、シャンクスの手はベックマンの後頭部を彼の胸へと引き寄せた。
今度は驚きで硬直しているベンに、シャンクスは楽しそうに言った。その言葉にベンは我が耳を疑う。
「やぁーっぱ、かわいいわ。オマエ」
「か…かわいい?」
脳による思考が停止した。
そこは普通、怒るか怒鳴るか殴るかするところだろうというのは一般的な感覚ではないのか?自分の感覚の方が間違っていると言うのだろうか。
硬直したままのベンの頭を、シャンクスは犬猫にするみたいにわしゃわしゃと撫でる。
「かっわいいって。絶対」
「俺は真剣に言ってんだぞ!」
繰り返された言葉に、立場も忘れて怒鳴ってしまった。後悔するより早く、シャンクスは言う。
「オレだって真剣だよ?」
クスクスと笑いながら頭を撫でたって、信用できないに決まっている。
「……こんな不用意に近付いて……俺がまた同じことをするとか思わないのか?」
自虐的な言葉を選んだのはわざとだが、シャンクスは笑みのひとつで打ち消した。
「思わないね。だってオマエ、後悔してるんだろ? 少なくとも無理矢理、のところは」
「…そりゃ、……普通、誰だって……」
知らず拳を握り締める。そうすることで抱き返したい衝動を押さえていた。
シャンクスの確信は正しくもあり、間違ってもいる。
悔恨しているのは事実だが、それはそれ、これはこれ。惚れた相手に抱き締められて、平静でいられるわけがない。
こんな度し難い衝動を抱くのは彼に対してだけだ。彼だけが、こんな衝動を抱かせる。
そんなベンの内心を知らないであろうシャンクスは、腕を頭の後ろに回したまま少し体を離した。紺より深く昏い色の瞳をじっと見つめて微笑む。
「オマエは二度とオレにあんな風にはしない。……だろ?」
「……そのつもりだけど……」
確約はできないぞ、と自信のない声で返して俯く。
シャンクスは声をあげて笑った。屈託のない笑顔が更にベンの胸を締め付け、また苛立たせた。
「アンタ……なんでそんなフツウにしていられるんだ? なんでそんなフツウにいられるんだよ?」
自分を襲った相手を前にして、なおかつ抱き締めるだなんて。普通の神経では考えられない。
間近に顔を覗きこみ、シャンクスは微笑む。
「何? じゃあ、ずっとシカトされてる方がよかったか? 絶交でもされた方がよかった?」
「それは……」
絶対に嫌だ。
けれどそれを自分の口から言うのはとても厚かましく、おこがましい。
黙って顔をそらすと、また頭を撫でられた。
「嫌だろ? オレだって嫌だしね。それに……途中で抵抗すんの止めた意味、わかる?」
「…………」
抵抗が止んだのはわかった。しかしそれは、諦めたからではないのか。止まぬ虐待を諦める子の気持ちと同じではなかったか。
力をこめた手が、ベンの顔を再び持ち上げた。晴れやかな海の色の瞳に見つめられ、また理性がじりじりと焦げ付くような気がした。
シャンクスは言葉を継ぐ。
「オマエに、そんな顔して欲しくなかったんだよ。苦しそうな顔してるオマエを見ていたくなかったんだ」
「……同情、か?」
だったらそんなのはいらないぞ、と小さく言って視線をそらす。その頬をぴしゃりと軽く叩いて、シャンクスは苦笑した。
「オマエさ、10年前の自分の誕生日の時のこと、忘れてるだろ?」
「……は?」
唐突な話についていけず、呆気に取られた目を丸くした。
「10年前って…」
「オマエがいきなりいなくなった前の日だよ」
「いきなりいなくなったって……仕方ないだろ、いきなりの引越しだったんだから」
「うん。それはいいんだ。問題はオマエの誕生日だから。一緒に公園で遊んだだろ?」
「公園って……ああ、俺が住んでた家の近くにあった……」
「そう。あそこでオレ、誕生日プレゼント代わりにって、約束したんだけど……覚えてない?」
「……ちょっと待て……」
確かに10年前の誕生日、シャンクスと遊んだ事は覚えている。公園中を走り回って、滑り台で鬼ごっこをしたり、砂山で大きな山を作ったり、ブランコでどちらが高くこげるかを競ったり……
でも、何を話したかなんて覚えていない。だって、10年も前の事だ。
「なんか…楽しそうに喋ってるアンタの顔は思い出せるんだが…」
「…………」
仕方ないなと肩をすくめて、腕を組む。その後の発言は、今までのシャンクスの発言の中でもトップクラスにとんでもないことだった。
「…約束したんだよ。10年後、結婚しようって」
「け……ッ?!」
「オマエのこと好きだし、オマエをいじめる奴等から守ってやるから、だから結婚しようって。そしたらオマエ、うんって言ったじゃねェか!」
「覚えてるわけねェだろ!」
「でもオレは!……ちゃんと覚えてた」
「…………ガキの頃の話だろう…?」
「約束は約束だろ! そりゃ……あの頃は、好きってだけで結婚できるって思ってたけどさ……」
17歳と16歳じゃ、まだ結婚できねェなんて知らなかったんだよな、と照れくさそうに呟くシャンクスに、いやそういう問題じゃないだろうと頭の片隅で冷静に突っ込みを入れた。
シャンクスがゆっくり、ベンの目を正面から見つめた。いつにない真剣な表情につられた。
「ここんとこずっと、オマエが何かで悩んでたのは知ってた。すっごく思いつめた顔してて怖かったし……オレと目が合うとそらしたりしてたから、隠し事か、悩み事か、なんかあるんだろうって思ってた。どうしたんだって聞いても、なんでもないって言うだけだったし……心配してたんだぜ? これでも」
まさかオレのことで悩んでるなんて思わなかったけどね、と微笑む。ベンはその微笑を食い入るように見つめた。
そうして彼は、ベック、と、幼い頃のようにベンの名を呼ぶ。
「オレの気持ちはね。その約束をしたガキの頃と、ちっとも変わってねェよ? だから勝手に、再会した後――今も、オマエの気持ちも同じだって思ってたんだけど……」
「俺、は……」
こくりと喉が鳴った。口の中が酷く乾いていると思った。
「俺の気持ちは、あの頃に比べれば、だいぶ変わってる……」
まっすぐに自分を見詰める蒼い瞳から目をそらしたい。けれど抗いがたい何かによって、それはできなかった。床の上に置いた指先が、何かに当たった。
「あの頃は純粋に、アンタと一緒にいられれば…遊べれば、それでよかった。アンタを独占して遊べればそれで満足だったんだ。でも、今は…アンタをずっと独占していたいし……一緒にいるだけじゃ足りねェ。触りたい。抱きしめたい。ヤリてェとも、思ってる……」
アンタみたいに純粋じゃねェんだ、と苦しそうな声で告白するベンをシャンクスはじっと見つめた。
その後、膝立ちになってベンの頭を抱き寄せた。驚いて反射的に身を離そうとするのを許さず、更に腕に力をこめる。
「シャンクス……?」
「言えよ」
なにを、と言いかけたところで、額と額がくっつくほど間近に顔を寄せてくる。
「オレのこと、好きだって。言ってみな?」
何を言い出すんだ、とは言えなかった。シャンクスの言葉は抗いがたい力を以って、ベンの全てを支配する。
閉じた睫毛はおそらく震えている。睫毛だけではない。指も。
恐れる気持ちを潰すように拳を握った。少しだけ深く息を吸い込み、吐き出しかけたところで止め、意を決して目蓋を開く。
南国の海を思わせる双眸は、閉じる前と同じように間近からじっとベンを見つめていた。まっすぐ見返すと、瞳には自分しか映っていない。
「……好きだ」
声は可笑しくなるほど震えていた。隠した指の震えが移動したみたいだと思った。
「好きだ。小さい頃からずっと……ずっと、あんただけ、好きだった」
「………よし!」
ベンの目の前で、シャンクスはカードの写真と同じように鮮やかに笑う。そうして高らかに宣言してみせた。
「オマエのこと幸せにするのは、オレだからな!」
愛の、言葉。
「だからもう、あんなカオさせないからな」
力ずくで組み伏せてるくせに、死にそうな顔してた。見てる方が苦しくなるような、辛そうな表情。あんな表情は、見たくないしさせたくない。
だから。
「一緒に幸せになろうな。オマエのことはオレが幸せにするから、オレのことはおまえが幸せにしろよ」
返事は?
聞かれて、ベンは初めて力の限りシャンクスを抱きしめた。心の闇を解き放つ光を、もう二度と失わぬようにと。
「約束する…!」
この約束こそ忘れない。
断言すると、じゃあこれは誓いの証な、と微笑まれたのに見惚れている隙に口付けられた。驚いて思わず体を引くと、すぐ後ろにある本棚に頭をぶつけた。
「何やってんだよオマエ!」
シャンクスに笑われはしたが、痛む頭をさすりながらもベンは幸せになっていた。