面倒が起こったわけでもないのにその日の全ての仕事を終えた時間は遅く、なのであの人の具合を見るためとはいえ時間が時間だし…と悩みはしたものの、具合を見るだけならいいかと船長室に入った。が―――
間違いだったのだ。
今更悔やんだ所で遅いのだが。
どうやらたまたま起きていたらしく、怪我の具合だけを見て部屋を後にしかけた俺を、彼は引きとめた。俺が怪我を見ている間は空寝をして、だ。
所在なく佇む俺に「まぁ座れよ」とベッドの端を叩いてそこに座るように示し、逃げ道を断った。
はめられた、ような気がしたが、気がしただけで終わらせないのがこの人だった。
「…な?」
ほとんど吐息の声で、シャンクスが囁く。
夜の顔で、俺を追い詰める。
耐性がついているはずなのに、不意をついて見せる表情に惑わされる。
視線から逃れるように右手にある灰皿へ煙草を押し付けた。すると、シャンクスは小さく笑った。猫が喉を鳴らすように。
「オマエって、いつも、そう」
「…何がだ」
「こういう時、絶対オレの目ェ見ないの」
新しく取り出した煙草が、唇に届く数ミリ前で止まった。
とうとうシャンクスは声を立てて笑った。
「何かを我慢してる時のオマエの顔もすごくオレは好きだけどね、」
腕を伸ばし、俺の頬に指先を滑らせる。触れるか触れぬかの感触に、背が粟立った。
深海色の目が、俺を捕えているのがわかる。しかし俺はそちらを向けない。
「欲望剥き出しのオマエの顔見るのが一番好きって、知ってた?」
「………」
性質が悪い。まったく、性質が悪い。
"性悪"という言葉は、この人のためにあるに違いない。
かつてこの人を「悪魔」と罵って切り倒されたどこかの海賊がいたが、まったくその通りだ。諸手を上げて賛同したい。
だが彼はしゃあしゃあと笑う。
「する気がないなら、こんな時間に来なきゃいいんだ」
「…怪我の具合を見にきただけだ」
「こんな時間に?」
「他の仕事を片付けてたらこの時間になっただけだ」
興味なさそうな「ゴクローサン」の言葉に、思わず溜息が漏れた。虚しい気がするのは何故だろう。
頬を撫でていた指は、喉から鎖骨を通って胸を撫でた。
「…とっくに良くなったって言っただろ。誰かさんの言うとおり、大人しくしてたんだからさ」
上体を伸び上がらせて俺の胸に頬を寄せる。
気紛れに懐きにきた猫のような仕草。
しかしこの人が決して人に懐くタイプの人間でない事くらい、俺は充分に知っていた。懐くフリをして、こちらを手懐けようとしているのだ。手懐ける、では手緩いかもしれない。
咥え損ねていた煙草を咥え、燐寸で火をつける。月明かりの中、紫煙はくるくると踊るように空気に溶けていく。
なるべくそっけない口調を選んで返した。
「…傷口が塞がっただけだろうが」
「だから問題ないだろ?」
「大有りだ。開いたらどうする」
「その時はその時だろ。後の事なんか考えていちいちヤレるかよ」
「…アンタはそれでいいかもしれねェがな…」
溜息と紫煙を一緒に吐き出すと、右手から煙草を奪われた。つられてシャンクスを見ると、やはり笑っていた。
「じゃあ問題ねェじゃねェか」
「……シャンクス…」
諦めをこめたのがわかったのだろう。シャンクスは肩を揺らして声なく笑った。
笑いを収めた後に続く言葉は、容易に想像できた。