ドアが開閉し、長身を滑り込ませるように白い部屋へ入る。尋ね人は、白いベッドに大人しく横たわって――いなかった。窓辺に立ち、こちらへ背を向けて外を眺めている。
「横になっていなくて良いのか」
声をかけると、ようやくこちらを振り向いた。驚いた表情をしているのは、男の入室に気付かなかったからか。
「いらっしゃい。……っていうのも変か。ただ寝てるだけなんて、退屈でできねェよ」
「病人が何言ってるんだ」
「もう治った」
口を尖らせて、肩を竦めながらベッドに腰掛ける。窓から差し込む柔らかな午後の陽に、赤毛が煌いた。
確かに数日前に比べれば、髪や肌の艶は良くなった。元々、重病で入院したわけではない。とはいえもう少ししおらしくしていて欲しいものだと思うのは、はたしてベックマンの我侭だろうか。
赤毛――シャンクスの前に立つと、ベックマンは彼の頭へと手を伸ばし、指先で髪を梳いた。
「手続きを済ませてきた」
「手続き? 何の?」
「引越しだ。あんたと――俺の」
「はぁっ?」
シャンクスが何か言葉を発するより先に、ベックマンは顰め面を作って言葉を継ぐ。
「今回みたいにあんたがひとりの家で倒れたり栄養失調を起こしたり餓死するのを心配するのはもう厭だからな。郊外だが、広めの家を借りた。絵を描くなら、描くだけの広いスペースも充分にある。勿論、食事に不自由はさせない」
「なんで、勝手に……」
不満に頬を膨らませたシャンクスのこめかみから頬を撫で、椅子に腰掛けて目線を合わせる。以前より少し削げた頬の感触に、ちりりと胸が痛んだ。
「見えない所であんたの心配をするのはもうこりごりだ。ついでに言っとくが、あんたの荷物も全部運び出したから、厭とは言わせねェ」
「なっ……!」
絶句した口の端を掠めるように口付け、引き寄せて抱きしめた。覚えている身体より、随分細くなってしまった。
Bが来てくれて良かった。この身体がなくならなくて良かったと、心底思う。
「勝手をしたのは充分承知だ。けど俺は、もうあんたのことで悔やむのは厭だ」
ベックマンの腕の中でシャンクスは深い溜息を吐き、身体を離すと髪の色と同じ黒曜石色の瞳を覗き込んだ。
一緒に暮らすのは、ここに運び込んでくれたのがベックマンだと知ってから覚悟を決めていたことだから、今更否はない。が、素直に応じてやるのはほんの少しだけ癪だった。素直でない自覚はある。そのせいで入院するハメになったのだとも。
「一つ、条件がある」
「何だ?」
「それはな、」
言いかけた所で、病室のドアが勢いよく開かれた。
「さあクソガキ、大人しくしな! 検診時間だよ!」
ドアを蹴破る勢いで入ってきたのは、長い髪に臍が見えるファンキーな柄のTシャツ、ヒールの高いブーツにヒップハングパンツを穿いた鼻の高い老女だった。
「げぇっ」とシャンクスは蛙の潰れたような声を発するが、顔の真横へ何かを投げつけられ、硬直する。ベックマンもつられて硬直した。確かめるまでもない。壁に突き刺さったのはメスだ。赤い髪が幾筋かはらりと切り取られ、床に落ちた。
格好もだが性格もファンキーな女医に対し、シャンクスは大人しく検診を受けた。大人しくしなければ入院が延びる――女医による『教育的指導』によって――ということを知っているので、無駄口も叩かず、借りてきた猫のように大人しくした。
一通り診察を済ませると、女医は「ふん」と鼻を鳴らす。
「頑丈な男だね。明後日には退院していい」
「やった!」
これで命の危機から解放される、と内心でガッツポーズを作ったのを読んだように、女医はシャンクスをぎろりと睨む。そうしてついでに思い出したとばかりに「そういえば」とベックマンに向き直った。
「おまえがつれてきたもう一人の患者のほうがよっぽど重症だったね。けど峠は越したから、小僧と一緒に連れて帰りな」
「ドクトリーヌ――――ッ!」
語尾に重なるように廊下から情けない声がしたかと思うと、慌しい足音と共に一人の青年が入ってきた。
「何だいチョッパー、騒々しい」
「でもこいつが暴れて……!」
たんたんたんたんたんたん。
チョッパーと呼ばれた青っ鼻の少年の脇に、メスが突き刺さる。早業に、シャンクスとベックマンは目を丸くした。この女医――ドクトリーヌは、腕は良いが入院するような患者はほとんど持っていない。命が幾つあっても足らないという噂の真相を、ベックマンはようやく目の当たりにした。が、幸いではない。
「病室では静かにしろって言ってるだろう。で、何だい?」
チョッパー少年は傍から見るのが気の毒なほど青い顔をしているが、ドクトリーヌの助手をしているというだけはあり、すぐに気を取り直したらしい。
「ね、猫が目を覚ましたんだけど……あれ?」
今ここにいたのに、と自分の手を見るが、そこには何の姿もない。
次に声をあげたのはシャンクスだった。
「B! 良かった、元気になったんだな!」
ベックマンの足から這い上がってベッドに登った黒猫を抱え、抱きしめる。同じ病院内にいるとは聞かされていたが、Bのほうが車に轢かれたために危険な状態にあり、ドクトリーヌとチョッパーの集中治療を受けていて会うことが許されなかったのだ。
自分のためにBが身体を張ったと聞いたシャンクスはショックを受け、さすがに二日ほど大人しくしていたものだ。
しかしドクトリーヌは「元気なもんか」と苦い顔をした。
「そっちの猫の内臓と骨はまだ治っちゃいないよ。ちったぁ動けるようになったみたいだけどね、無理させるんじゃないよ」
「ありがとう、ドクトリーヌ」
「まったくさ。うちは獣医じゃない」
このお代は高くつくからねと笑うドクトリーヌは魔女そのもので、シャンクスとBの全身の毛が総毛だってしまったのは無理からぬことだった。
ドクトリーヌとチョッパーがその場でBの検診も終え、病室から出て行っても、Bはシャンクスのベッドの上にいた。枕元にクッションを入れた丸い籐籠を置き、その中で眠っている。チョッパーが病室に連れて行こうとすると暴れてしまうのと、シャンクスの要望もあってそのままにされたのだ。
穏やかに眠るBを撫でるシャンクスに、ベックマンは目を細めた。「言い忘れたが、」
「新しい家には勿論、そいつの寝床も、用意してあるから」
顔を上げたシャンクスの海色の瞳を見返して言う。たちまち、シャンクスの顔に見る見る喜色が広がった。
「サンキュー、ベック!」
条件はそれで満たされたと、ベックマンへ飛びつくように抱きついた。
その様子を目を覚ましたBは満足そうに眺めていたが、二人は気付かずに熱烈な口付けを交わした。