月の所為だ。
月の所為だ。
眠れないのは月の所為だ。
満月の所為で気が張っているから眠れないのだ。
今宵の月は誰の目にも明らかに丸い――満月だから。隠れもせずに見えるから。だからだ。
嗚呼…海に出て何年にもなるのに、まだ縛られているのか。陸に。――故郷に。
自分自身に呆れても、どうやらそれが真実であるらしい。口でどれだけ否定しようとも、頭などよりよほど体の方が正直だ。
前の港でせっかく手に入れた膝の上の稀少本すらちっとも頭に入らず、何度も何度も同じページを読み返している始末。それでも半ばほどまではなんとか読んだのだが、とうとうそこで諦めて本を閉じ、煙草に手を伸ばした。
カーテンを閉めても、そこに当たる光があるというだけで気が散ってしまう。
今宵が満月であるという事だけで。
先月・先々月はまだよかった。曇天だったからだ。月が見えないから、満月を意識しないで済んだ。事実、寝つきは悪いながらもちゃんと眠れた。
だが、今日は。
腹立たしいほど快晴なのだ。
月を隠すべき雲も、雲を呼ぶ風すらもベックマンの味方ではない。
何故よりにもよりに、今夜に限って晴れるのか。
思っても詮無き恨めし事を口中に呟き、溜息混じりの紫煙を吐く。今夜は眠るのを諦めて夜勤の誰かと代わろうか。3ヶ月前と同様に。
仕方なくベッドの中から出ようとした時、軽いノックの後に部屋の主の返答を待たず、ドアが開いた。この船に船員は数多いが、そんなことをするのはただひとりだとわかっている。果たしてドア影からひょっこり姿をあらわしたのは予想通り、シャンクスだった。
喫煙中のベックマンの姿をベッドに認めると「やっぱりな」と悪童のように笑い、ドアを後ろ手に閉めてやってくる。左手だけで避けろと意志伝達をしてくるのに素直に従ってベッドのスペースを少し空けてやると、当然のように潜り込んできた。その仕草は猫に似ているなと、ベックマンは口の端を緩めた。
「…何が"やっぱり"なんだ?」
体を伸ばして吸いきった煙草を灰皿に押し付け、さらに1本取るとゆっくり煙を吸い込み、吐き出す。ゆらゆらと頼りなく漂う紫煙を面白いものでも見るように眺めて、それが空気に溶ける先を見送ってから、シャンクスは手を伸ばしてベックマンの肉の薄い頬を撫でた。
「予想通り、起きてたなと思って」
「予想通り?」
「そ。予想通り。…ったく、眠れねェならオレのトコに来ればいいのによ」
少しだけ細めた目には、何故か慈愛の色が見えた。例えるならそれは、親が我が子に向けるような類の笑みだったのだが、ベックマンには何故自分がシャンクスにそのような笑みを向けられるのか、皆目見当がつかない。
したいわけではない、と思う。そんな素振りや雰囲気は見せないから。
では、なんなのだろう。
わからず、リアクションに困り、頬を撫でる彼の手を取って、手の甲に口付けた。
「…何を根拠の予想だ? 勘か?」
違うよバカ、と笑って言って、男の頬を軽くつねる。
「――満月だからな。今日は」
「……………」
不意を突かれ、煙草を口へ運ぼうとした手が止まる。間をおかずにシャンクスが煙草を取り上げ、まだ随分残っているそれを灰皿に押し付けて消した。煙草を消すために背を向けたシャンクスを、ベックマンは後ろから抱きしめた。
「何故…満月だからって俺が起きてると思った?」
「なんだよ。忘れちまったのか? オマエが言ったんだぞ?」
「…言ったか?」
「言ったよ。満月の夜はいつも儀式があったから、体がそれを覚えてて満月出てると眠れねェんだって。オレはそれ聞いて、狼男みてェだなって笑っただろうが」
「…そうだったか?」
「なんだよ、たかだか何年か前の話じゃねェか。忘れんなよ」
「アンタはつい昨日のことだって忘れるじゃねェか」
「それはそれ、これはこれ。大事な事は覚えてるからいいんだよ」
「………」
それならばシャンクスにとって大概の事は大事な事ではないのだろうか。例えば、食糧はいつも多目に購入しているとはいえ計画的に使っていて、嵐が来て予想以上に航海が長引いた挙句、糧秣補給も出来なさそうな島に寄り道したらどうなったか、とか。
思ったが、言葉にはしなかった。口は災いの元というポピュラーな先人の戒めに従ったのだ。
黙っていると、腕の中の人は何やら落ち着かなさそうにもぞもぞと動いている。どうしたんだ?と頬に唇で触れて訊ねると、腕をシーツから出して、器用に背後のベックマンの頭を撫でた。
「嫌な思い出じゃねェんだろ?」
暗に故郷のことを、昔の事を言われていると悟り、肯定すると、じゃあなんでそんな憂鬱そうな顔してるんだよと返された。わずかに沈黙して、口を開く。
「…海にいる限りには、アンタや、将来のことだけを考えていたい。だから努めて昔の事は思い出したり考えたりしないようにしているのに、こんな風に思い出させられるのは…すごく、不本意なんだ」
「航海するのと同じ事さ。なんでも自分の思い通りにはいかねェよ。それに大体そんなことに腹立ててたら、ヤソップはどうなるんだよ。アイツなんか酔っ払ったらいっつも昔話じゃねェか」
「他の連中はいいさ。かまいやしねぇ。けど、俺は俺がそんな風なのは嫌なんだ」
「…わっがままだなあ」
「アンタに言われたくねェ」
苦笑混じりの言葉に、オレのどこがワガママだと口の中で返す。口に出さなかったのは言い争いをしにここへ来たわけではないからだ。シャンクスは自分がここに来た理由を忘れてはいなかった。
筋肉質の腕をぺしぺしと叩いて、軽く振り向く。
「…ちょっとこの腕、外せよ」
「?」
彼の腹筋あたりで組んでいた手を解いてやると、シャンクスはよっこいしょと身を返してこちらを向き、次いでずりずりと上にずり上がった。何をするつもりなんだろうと思っていると、彼の両腕が首の辺りから頭の後ろへ回され、頭を胸へと柔らかく押し付けられた。そうして後ろ頭をやさしく、やさしく撫でられる。
「シャンクス?」
当惑したようなベックマンの声に、シャンクスは優しく言う。
「寝ろよ」
「…何?」
「眠れねェんだろ? こうしててやるからさ。少なくとも、オマエが寝落ちるまでは」
遠慮しなくていいぞ。
囁かれて額に口付けられ、ベックマンは吐息だけで小さく笑った。
「…子供じゃねェんだぜ?」
「安心しろ、大人でもぐっすり眠れるから」
根拠はないだろうに自信満々に断言しがら、撫でる手を止める気配はない。本当に撫で続けるつもりなのだろうか。
…それならそれで、今夜くらいは甘えるとしようか。こんな、満月の夜にくらいは。
シャンクスの腰に両腕を回し、甘えるようにその体へ身を寄せて目を閉じる。
穏やかに皮膚を刺激する手はとても暖かく、先程からの刺々しい気持ちをそこから宥めてくれるように感じる。間近に感じる彼の心音だけが耳に響き、尖った神経を丸くしてくれる。
緩やかな刺激と、暖かな体温と、心地よい心音が、眠気を引き寄せる。
そうして、十分も経たないうちに、ベックマンは自分の全身の力が抜けていくのがわかった。そのまま泥のような流れに身を任せると、思考がフェードアウトしていく。
男が寝落ちたのがわかった後も、シャンクスは男の髪を撫で続けた。
そして囁く。
耳朶に届く前に空気に融けるように、ひそやかに。
「…オマエが何度、何に縛られようと…そのたびにオレが解放してやるよ」
オマエを縛っていいのはオレだけだから。
寝息も立てずに眠る男の額に唇を落としたが、それは古い鎖を絶ち斬って新たな鎖を繋げるためだけの行為だったのかもしれない。