目が覚めた時、視界いっぱいに白が映った。自分の部屋ではありえない、清潔な白。
ここは、どこなのか。
考えなくても覚えていた。先ほど、正確な時間はわからないが医者だという老女(そう言うと殴られたが)に検診を受けた時、いくらか教えてもらったからだ。
結果として赤髪を助けてしまったようだが、意識してやったことではないとゾロは思う。言い訳かもしれない――誰に対する言い訳かはともかく。
痛み止めが効いているうちは大丈夫だと、乱暴な医者は言っていた。だとしたら今もまだ効いている。体を動かす気には、さすがにならないが。
溜息を吐くと、周りを見回した。先ほども思ったことだが、部屋は広い割に、ベッドはゾロが寝かされているものしか置かれていない。個室でも高いほうの部屋なのだと医者に教えられた時は、血の気が引いたものだ。
「おや、どうしたんだい顔色変えて」
「……ンな金、持ってねェ」
学費を溜めるのと生活費を稼ぐので精一杯な自分には、入院費用を払う金の余裕すらも無いのだと正直に告白すると、医者は「ヒッヒッヒ」と魔女のような笑い方をした。
「安心しな、若僧。お前の入院費用は全部、赤髪持ちさ」
「……は? 赤髪持ちって……」
「シャンクスのせいなんだってね、その怪我。せいぜい慰謝料せしめてやりな」
そこまでする気はなかったが「百万や二百万であのガキはガタガタ抜かしゃしないよ」と言われて、思わず笑いかけた。笑えなかったのは、腹の傷に響きそうだったからだ。
「撃たれた割にあんたは悪運が強いね。普通なら重症で危篤に陥りかねないのに、ほんの少し逸れてたおかげでもう意識回復までいってる。……体が頑丈なのも理由かもしれないが……。ともかく、少なくとも一週間は病院から出さないから、そのつもりでいるんだね」
「いっ……」
一週間も居られるかと文句を言いたかったのに、医者は奇矯な笑い声を残してさっさと出て行ってしまった。言えたとしても、受け付けられなかったに違いないが。
その後、目を閉じたらそのまま眠ってしまったらしい。
時計を目で探したが、体を起こさないままで見える範囲は限られている。動けば傷が痛むだろうかと思ったが、元々じっとしているのは性に合わない。体をゆっくり起こし、改めて室内を見回す。
思ったより、広い。いつか受験の時に泊まったビジネスホテルのシングルなどよりずっとゆとりのある造りで、豪華なワンルームマンションにも思える。ただ壁も天井もベッドもシーツも白なのは殺風景で、いかにも清潔ではあるが寂しい。
目当ての時計は、傍らにあった。サイドテーブルの下だったため、横を見ただけでは気付かなかったのだ。デジタル時計は音を立てないが、秒針の音を数える寂しさを思えば、向き質なデジタル時計のほうこそがありがたい。
――十八時三十六分。あれから、約二十四時間。
赤髪の姿も、その時間だけ見ていない。
無事だとは思う。車で運ばれている間も、あの男の声を聞いた気がしたからだ。悪運も強そうな男だったし、きっと無傷でいるのだろう。
「……っとに……ロクなことがなかったな……」
出会って今日まで、さりげなく動乱の日々だった。腹立たしいことも多かったが、それらすべてが嫌なものだったわけではない、と思う。嫌悪より、驚愕が勝る。あんな性質の悪い男は、二度と出遭わないだろう。
ふと喉の渇きを覚えた時だった。ノックが誰かの来訪を告げる。先刻の医者か看護師かと思ったが、違った。
サンジだった。
その事実に、ゾロは驚かされた。しばらく大学でもプライベートでも会っていなかったのに、こんな所で顔を合わせるとは。いや――それより、どうしてこの男はここへ来たのか。
「……なんでここに」
「そりゃ、俺の台詞だ」
渋い顔をしたサンジだが、さすがに煙草は銜えていない。そのせいで落ち着かないのか、だらりと下がった手を口元へ当てているが、そわそわと忙しない。
一週間ぶりに見る顔は、心なしか痩せたように見える。気のせいかもしれない。何しろ三週間ぶりに会ったナミが前髪を切ったことにも気付かない自分だ。些細な変化に気付くはずがない。
室内を見回しながら、サンジはゾロの足側でうろうろとしている。椅子があるのだから座ればいい。言おうとしたが、果たして耳に届くかどうか。
「オッサンから……電話貰ったんだ」
サンジの言葉は唐突だった。改めて顔を見つめる。
「おまえが撃たれて入院して……危篤だっつって」
「……危篤?」
「そう言えば俺が飛んで来るって思ったんだろ。さっき可愛いナースに聞いて、大恥かいたぞ俺ァ」
「…………そうか……」
ひっそり笑って改めて椅子を勧めると、サンジは一瞬の躊躇を見せた後で座る。シャツの襟元を気にしているのは汗ばんでいるからか、煙草がないと指も落ち着かないからか。
以前こうして入院したのは、どれくらい前だったのだろう。ずいぶん昔のことのようにも、つい最近のことのようにも思える。それより以前から、この男は自分の心配をしてばかりだ。食事はその際たるものだが。
甘えている、とは思わない。利用している、とも思わない。ただありがたく甘受している。
心配されずとも、出会う以前がそうだったように、一人でも何とか生きていける。ただ、出会ってしまったら――いなくなれば物足りなく、寂しく思った。ルフィをはじめとする他の友人たちも同様に思う。しかし、この男は彼らより身近に接している。
自分などの何が良いのか。訊いたところで理由に納得はいくまい。自分にしても、この男の何が良くて友人付き合いをしてきたのかさっぱりわからない。だが、長くはない付き合いでもわかったことはある。
一緒にいれば落ち着く。
落ち着くことがなかった赤髪とは好対照だ。
(――ああ……、)
だから自分はこの男の存在を自分に許していたのか。赤髪を引き合いに出して考えていたのか。
無意識にそれを許していたことをわかっていて、認めたくなくて、思考は逃避していたのかもしれない。
「なんか、要るもんあるか?」
「……あ?」
「しばらく入院すんだろ。だったら、何か準備とか……あるだろ。服とか」
サンジは俯いたまま顔を合わせようとはしない。顔にかかる長い前髪は彼から表情を奪ってしまっている。どんな表情をしているのか、ゾロには想像もできない。
「ああ……じゃ、服と下着と……タオルとか洗面関係……か?」
「何か必要なもんあったら、すぐ言えよ。ちょくちょく様子、見に来るし……おまえが嫌じゃなければ、だけど」
「嫌じゃねェ」
自嘲雑じりの言葉を即座に否定した。条件反射かもしれなかった。
ようやく顔を上げてくれたサンジは、呆けたような間抜けた顔をして「え」と一言だけ洩らした。それがおかしくて、つい顔が綻んでしまうのを止められない。
「嫌じゃねェ、って言ったんだ。おまえのこと、嫌いじゃねェよ」
「ゾロ……ッ」
サンジの顔が見る見る泣き出す寸前のような、情けないものになる。
まったく、なんと可愛い男なのか。普段は二枚目を気取っているくせに、自分などのことでこんな表情をするなんて。
「……こんな時におまえ……反則だろ……」
「何が?」
「今すぐこの場でキスとか色々したくなるのが、人情ってもんだろ」
赤い顔でそっぽを向いたのに、ゾロはとうとう吹き出した。笑い事じゃねェ賛辞に言われても、ゾロには充分、笑い事だ。
「調子に乗るなよ?」
「……わかってる」
そう口を尖らせる様はまるで子供で、笑いを収めるどころかますます笑えてしまう。そうするとサンジの表情はどんどん渋くなる。これ以上笑うとさすがに機嫌を損ねるかと思いながら、シーツの上に投げ出したままの手を、サンジへと伸ばす。「しょうがねェ、」
「手くらい繋いでやる。――それで我慢しろ」
「……俺ァ子供じゃねェ」
「嫌ならいい」
「嫌とは言ってねェ!」
引っ込めかけた手を、サンジが慌てて掴む。強く握られた手は、思ったより暖かかった。
「…………てっきり俺ァ、あんたに嫌われたもんだとばかり……」
「――それで避けてたのか」
「俺は臆病者だから」
「……あんな大声で告っといてか?」
「あれは……! 勢いで……言うつもりなんかなかったし……」
ぼそぼそと赤い顔で言い訳するこんな様を、他に見たことがある者はいるのだろうか。なんとも愛しい男ではないか。
「……じゃ、これからよろしくな」
「はっ?!」
「……入院中の世話。やってくれるんだろ?」
「あ……ああ、……そっちか……」
残念そうなサンジに、ゾロは今度こそ声を上げて笑った。笑うなというサンジの言葉も、そろそろ麻酔が切れてきた腹の痛みも構わずに笑う。
繋いだ手は、サンジが病室を後にするまでずっと、そのままだった。