「…は? 何? 何の話?」
さすがに面食らったのを隠さず、怪訝な顔がベンを見つめた。耳の傍で風の音がするから聞き損ねたのではなかった。
ベンはだから、と言って同じ言葉を繰り返した。厚い雲が月光はおろか星光までも遮って隠している。きっと、じきに雨は降る。強い風は湿気を多分に含み、シャツを肌に張り付かせた。
「俺がこの船を下りる、って言ったらアンタはどうするんだ?と聞いたんだ」
あくまで仮定の話だけどなと付け加えて、苦味の勝る煙草を口許へと運んだ。消灯時間はとうに過ぎている。こんな時間に甲板に出ている人間は自分とシャンクスだけであろう。勿論見張り台の上には当番の者が起きて寝ずの番をしている。あるいは自分達がここにいるのに気付いているかもしれないが、些末な事だとベンは思った。狭い船の中、プライベートを隠せるのは互いの部屋しかないのだ。
シャンクスは軽く片眉を釣り上げて、何言い出すんだと言わんばかりの表情を作り、ありえねェ話だな、と笑った。ベンだってそんなことは承知している。苦笑して紫煙を海に向かって細く吐き、今にも泣き出しそうな空を見た。
「だから最初に言っただろ。仮定の話だって」
「仮定にしたって、想像できねェよ。オマエがオレから離れるなんてさ」
「想像力ってのは何のためにあるんだ?」
苦笑交じりに言われたのが悔しかったので、そうだな、と腕を組んで考えるポーズをとる。
「暖かく見送ってやるさ。我らが副船長の新たなる門出を祝って、せいぜい派手に騒ぎながらな」
でもそれは船長として、お頭としてだけどね、と笑った顔は、闇夜であるにも関らずひどく鮮明に網膜に写った。
「…船長として、以外には?」
「オレ個人としてってのがある」
船長・お頭とアンタってのは違うのか?多分、違うんだよと言われるんだろう。理由は特に無いに違いないが。…あるいはプライベートを分けたのかもしれない。
疑問には触れずに、続きを促す。
「その場合は?」
「後悔させてやるよ、この船から下りた事を。このオレの傍を離れようと思ったこと、離れたこと、絶対ェ後悔させてやる」
そして追いかけさせてやる。
言い切る瞳は不敵に輝く。ゾクリと粟立つ感覚は嫌なものではない。
でもねその前に、と続けられた言葉に意識を戻す。指が、乾燥した頬を撫でた。
「ンなこと言われた瞬間に殴る」
「………」
「斬り殺さないだけありがたく思えよ?」
目を閉じて重ねた唇は柔らかかったが乾いていた。薄い腰に腕を回して引き寄せる。女のように細くは無いが、ベンに比べれば充分細かった(もっとも大概の人間の腰はベンより細いに違いないのだが)。
海を渡る湿った冷たい風が、束ねた髪を乱す。とうとう泣き出した空から落ちた雫が、シャンクスのこめかみに落ちて顔の横を伝っていったのがまるで涙のようだった。
「…裏切ったら?」
「ん?」
耳元で囁かれた言葉に身じろぎして体を離そうとしたが、太い腕に阻まれてわずかしか動かなかった。
南国の海の深い所を思わせる色の双眸が、じっとベンの黒に近い濃紺の瞳を見つめる。
「もし裏切って船を下りるんだったら?…アンタはどうする?」
「裏切る?…オレを?」
「そう」
面白い事言うねオマエ。
だが言葉の割に眼は全然笑っていなかった。少し爪先立って乱暴に口付ける。
「…とりあえず、殺しはしないと思うけどな」
「殺さない?」
「ああ」
「…嘘つきめ」
「なんでそう思う?」
小首を傾げたシャンクスの頬を撫でる。指先は荒れて皮膚がささくれていたが、彼の肌を傷つけるほどではない。たとえ肌に傷を作ることができても、真の意味でシャンクスを傷つける事などできはしないのだ。誰も。たまにわざと傷ついたようなそぶりを見せるが、それは俺の反応を見て楽しんでいるだけだ。ベンはそう思っていた。
「殺さないってのが嘘だと思うからだ」
「なんで? 殺さないさ。仲間を殺すわけないだろ」
笑顔にもう一度「嘘つきめ」と呟いた。ただし今度は心の中で。