甲板の喧噪は今は遠く、酔いが比較的マトモな者達が潰れた者達を部屋へ運んだ後。その船の船長と副船長はふたり、同じ部屋へと引き上げ、静かに飲み直そうとしていた。
今副船長が開けたボトルは、この夜、陸に住む子供のいる家庭では一般によく飲まれているであろう甘い果実酒だった。オトナが飲むよりも、好んで飲むのは子供や女性。アルコール度数の低い、酔いを目的としない類のアルコール。子供が飲むのが許されるのはひとえに、この夜が特別な意味を持っているから。
辛い酒に慣れた海の荒くれ者達がそんな子供騙しと言える酒を好んで飲む事はまずありえないのだが、仲間の中には弱い酒しか飲めない者もいるので、これはそういった者や運悪く見張り当番に当たった者達にと、わざわざシャンクスが仕入れさせたものだった。
「今日は全員飲めるようにしないとつまんねェだろ」
とは船長であるシャンクスの言。自分も見習い時代に見張りやった時には飲めなくてクサッた覚えがあるかららしい。
「アンタ本当にイベント好きだよな。騒ぐ口実とはいえ」
船長相手に軽口を叩くのは、長い黒髪ときわだった体躯が船長より威厳があるんじゃないかと影で言われているベン・ベックマン副船長。船長を船長とも思わない発言を、シャンクスは笑った。
「いいじゃねェか。皆が楽しめるなら」
長い航海を飽きさせたくはないから、と船長は笑う。が、秀皙な副船長ドノは、一番退屈したくないのは誰より船長だということをちゃんと見抜いている。
ほの明るい中でも目を引かずにはいられない鮮血色の髪に右手を突っ込んだまま、副船長がグラスを満たすのを待つ。受け取ったグラスからは甘い芳香。懐かしい香りは幼い思い出と…甘い記憶を呼び起こす。
感傷に浸るシャンクスの内心など知りもしないベンが琥珀に近い色合いの甘い液体を口に含むと、不意の笑いが堪えきれなくなった。
「…なんだ」
「いや…思い出しただけだから」
「思い出し笑いか。あんまりいい予感はしないが…何を思い出したんだ?」
いいから言ってみろ。黄石を溶かしたような色合いの果実酒を口に含んで、喉を上下させながら飲み下す。ああ、と赤い顔で微笑するシャンクスに、なんだ、ともう一度視線をやる。甘いものは決して嫌いではないが、一人でこのボトルを空けろと言われたらキツいなと思う。ベンはシャンクスのように極端な甘党でも、辛党でもなかった。
「なんか今、すっげェ思い出しちまったんだよ」
「何を?」
グラスを置いて次に口元へ運んだのは長いシガー。節くれた指がマッチを刷る仕種を眺めながらニコリと極上の笑みを見せて言った言葉は、ベンの死角を突いて極悪な槍となった。
甲板では自分に負けず劣らず飲んでいるはずなのに、顔色ひとつ変えない男の太い首へイス越しに褐色の腕を回し、耳にいつもより鮮やかに色づいた唇を押し当てて囁く。
「オマエとのファーストキス」
「…ッ」
ちょうど吸い込んだ煙草に妙な音をたてて男がむせると、加害者は何やってんだ、とあきれながら背中をさすってやる。誰のせいだ誰の、と反論したくても苦しくて出来ない。
テーブルに顔をつっぷしてむせていたベンは体を起こした時には涙目になっていた。不意をつかれたとはいえ見事な取り乱しっぷりを指さして笑うのは残酷だろうか。甘いアルコールで喉を整え、数度深呼吸して器官をなだめると、目の端の涙を拭った。
「…なんでアンタの記憶力はそう覚えてなくてもいいようことばかり覚えているんだ」
「オレが自分の記憶力をどう使おうとオレの自由だろッ。…でもオマエも覚えてるみたいだな」
「…………」
忘れられるか。毒づくのは歯の裏でだけ。
男の無言を肯定と受け取り、背中から抱きついたままこめかみに口付ける。
「なァ。オレ思うんだけどさ」
「…なんだ」
「オマエあの時酔っ払ってたっていうの、アレ絶対ウソだろ」
「ウソじゃないさ」
つとめてそっけなさを装っている眉のない額に、音を立てて吸い付く。
「絶対ウソ」
「なんで決めつけるんだ」
「…なんとなく」
「あてずっぽうか」
「カンと言えッ」
「たいしてかわらん」
笑われながら頭を撫でられるのに、腐りながら恨みがましい目で澄ました副船長を見上げる。
否定されると余計に追求したくなる。余裕を見せるポーカーフェイスは崩したくなる。そもそもこの男が酔った勢いとはいえ、分別をなくして誰かを襲うタイプとは思えない。グラスに注がれた果実酒を一気に飲み干して、長い黒髪を引っ張る。
「だぁって、オマエがあんな酔っ払ったのなんて、後にも先にもあの時だけじゃねェかよ」
「…そうだったか?」
「そーだよ!」
「…じゃあ、逆に聞くが」
新しい煙草をケースから取り出して口にくわえる。マッチを擦って火を煙草に移すと、逆手でシャンクスの頭を撫でた。
「仮に、俺がその時のことを覚えていたら、何だと言うんだ?」
「エッ?」
「…何かあるんじゃないのか?」
「いや…別に…何かあるってわけじゃねェけどよ…」
言えるか。
オレだけ覚えてたら片思いみたいで悔しい、なんて。…問題はキスだけじゃなくて、その後も、なんだけど。
絶対ェ言わねェ。
シャンクスの内心を見透かしたように、ベンは笑う。
「何もねぇなら覚えてなくてもかまわねぇだろう。何をそんなにこだわってるんだか…」
紅い頭を引き寄せて口付けた味は果実の甘さ。
それでもオマエの舌は苦いね、と一度口を離して、ベンの足に横座りして抱きつく。
「…オマエ頭イイんだから、ちったァ自分で理由を考えやがれッ」
噛みつくように仕掛けられたキスに笑みを洩らしながら、「知ってるさ」とは口に出さずに呟いた言葉。
そもそも―――忘れられるはずがないのだ。
酒の勢いを借りてやらかした、告白と・キスと・セックスを。
どこかの国の神様が生まれた聖なる日に、不思議と罰当たりな行為とは思わず。かえって赦されるような気がしたのだ。シャンクスへの気持ちも。シャンクスにしたかったことも。雪が降る、聖なる夜には赦される、と。
覚えてないことにしたのは―――気恥ずかしいからだ、なんて今更言えやしない。
その代わり…毎年この日には、5年前のあの日よりずっとずっと優しく、何度でも抱きしめよう。
窓の外に降り積もる、淡雪のように。