静かの海で

 わずかに上辺を欠けさせた月は、透明の蒼を斜めに投げかける。
 月さえなければもっと星が見えるんだけどなァと口の中で呟いて、蒼い月光に染まった白砂を蹴り上げた。
 背後に馴染みの気配を感じたが、口許で微笑むだけで態度では無視をして、サンダルを履いたままザブザブと脛の半ばほどまで海に入る。酒で火照った体に夜の海水は心地よかった。
 そうして先程砂にしたのと同じように水を蹴り、4度ほど蹴ったところでバランスを崩して、海の中で尻餅をついた。数秒の沈黙の後、堪えきれなくなったように笑い出し始めた。何を笑ったのかは解らない。
 ひとしきり笑い終えるとようやく背後の長身をを振り返って「起こせよ」という。煙草を咥えた長身の男の返事は簡潔明瞭で、一言「ごめんだ」とつれなく紫煙を吐いた。大気に渦を巻いて溶けていく煙を見送りながら、斜めに見上げる。
「…何? 怒ってんのか?」
「それはあんただろう」
「まぁな…」
 でももう気ィ晴れたから起こせよ、と嗤う。

 タチが悪い。

 短くなった煙草を捨てるように、自分の弱さも捨てられたらいいのに。
 笑顔ひとつで結局言いなりになってしまう。自分が怒っていた事も、シャンクスが怒っていた事も、どうでもよくなる。いつもそうだ。いつも。敵わない。そしてそれを仕方ないと当然の事のように受け止め、納得してしまっている自分がいる。  悔しいなんて思わない。勝負する気がないから。諦めているというのとは少し違う。
 溜息を肺の奥から吐き出して波を踏み付ける。腕を掴んで引っ張り起こしてやろうとして、逆に手首を掴まれて強い力で引っ張られた。中途半端な態勢でいたため、しまったと思った時には派手な音をたてて飛沫を上げて水の中に半身が浸かっていた。
 楽しそうに笑う赤髪の声を聞きながら、面白くなさそうに海水を浴びてしまった煙草を投げ捨てる。
「…何、つまんねェツラしてんだよ」
「楽しいのはアンタだけだろ」
 何もかも思い通りに事が運んで、嬉しいか?問う眼に険はあったが棘はない。赤髪は問いに答える代わりに、男の腰に馬乗りに跨った。
「すべて思い通りになることほどつまんねェことはないって、知ってるか?」
「ほう? アンタにでも思い通りにならねェことなんてあったのか?」
「あるさ…むしろそっちの方が多いくらいだ」
 たとえば?―――問うより早く、唇を塞がれた。噛み合わせた歯を無理矢理こじ開け、ラムの味がする舌がベンの口内に侵入を果たす。シャンクスは男が気乗りしてないのを知っていてあえて情熱的に舌を絡めた。
 何度か角度を変える頃にようやくいつものように男が応えてきたのに気を良くして、口付けあったまま男の飾り帯を解こうとした手はしかし、阻まれた。声をあげて抗議しようとしたが後ろ頭をしっかり固定されて許されず、ならばせめてと男の腕に立てた爪も、先ほどの手と同様に封じられた。
 蹴り飛ばしてやろうと足を上げたが、男の手がズボン越しに雄に戯れかかってきたので果たせず、自分の体を震わせただけになった。
 後ろ手に両手を戒められたまま、ベンが与える刺激に逃げる事も出来ない。
 唇をようやく解放してやったベンはシャンクスの形のよい耳を甘噛みし、そのまま首筋から鎖骨、胸元へと辿る舌を下ろしていった。勿論刺激を与える手は止む事はない。
 吐く息が熱いのは酒だけのせいではない。
 だが布越しの愛撫ではじれったくてたまらない。時間が経てば経つほどに熱を持ち屹立していくのがわかるだけにもどかしい。もっと確かな刺激が欲しくて身を捩るが両腕の自由が利かず、どうにも出来ない。
 胸を嬲る男のぬめる舌も、立ち上がった先を噛む歯の感触も、まるで別の生物のようで…。けれど足りない。気がどうにかなりそうなほどの感覚には、まだ足りない。
 より上の快感が欲しくて腰が揺らめいたが、それより先に男の手が止まった。
「…ベック…?」
 中途半端に投げ出されたのに驚いて男の顔を見たが、そこに感情の起伏は見出せなかった。
 自分の上からシャンクスの体をどかして立ち上がる。にわかには男の意図が掴めず、投げ出されたままの姿勢でベンを見上げた。
 ベンはそのまま浜へと踵を返す。
「…ベン?!」
 ちょっと待てどういうつもりだ、と非難する声などどこ吹く風で、肩越しに振り返ってシャンクスを見下ろした。
「…青姦はゴメンだ」
 船へ戻ると言い残し、振り返らずにすたすたと行ってしまう。
「てっめ…この、バカヤロ―――!!」
 背中にぶつかる罵声を受けて、ベンは喉の奥で笑った。
 きっと体が落ち着いたらすぐにでもシャンクスは追いかけてくるだろう。その前にシャワーを浴びるだけの時間があればいいのだが。
 意趣返しは成功したが、この後どれほど仕返しをされるのかと思っただけで笑いが止まらない。おそらく今夜は眠らせてはもらえまい。それでもいいか、と見上げた月は半月。嘘臭いまでに黄色い月だった。
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