静かに、想う。

 部屋に入った時から、男は机に向かって何か書き物をしていた。
 航海日誌ではない。それは自分の仕事の領分だ。だからきっと、何か仕事の割り当てとか、武器弾薬の在庫状況と次に港に上がった時の補充の購入をどうするかを検討しているとか、きっとそんなところだろう。
 仕事が少ない時くらいゆっくり休めばいいものを、いつでも仕事をしていないと落ち着かないのだろうか、この男は。
 思いはしたが、一言も発さずに、男の横顔が見えるベッドに腰を下ろした。スプリングがきいているとは言いがたいベッドだが、それでもベッドであるだけマシだ。幹部以下の連中はハンモックなのだから。自分の海賊見習い時代を思い出して、ふとシャンクスは口許だけで笑った。
 声をかけないのは、この男が声をかけてこなかったからではない。
 自分のことより仕事の方に気が集中しているのが許せなかったとか、そういうことではない。
 かといって書き物の邪魔をしたくなかったからでもなかったし、無断で部屋に入ったことを後ろめたく思っているからでもない。無断でノックもなく部屋に入るくらいはいつもの事だから。だからそれは、関係ない。
 両膝にそれぞれ肘をついて、両手の平に顎を乗せて、ぼんやりと男を眺める。
 時折何か考えているのか、ペンが止まって羽をひらひらとさせている。計算しているのか、うまい言葉が思いつかないのか。長い時間ではない。すぐに羽ペンは動き出す。

 この男の、手が好きだ。

 手だけではない。髪も、気に入っている。
 まっくろい、闇の塊のような髪。ゆるくウェーブがかかっているのもいい。柔らかそうで、まっすぐな髪より嫌味がないように思う。解くのを男は嫌がるが、束ねられた髪を梳くより、解いた髪を梳く方が何倍も好きだった。
 それでも、今は髪より手の方が好きだ。
 動くペンよりも、ペンを握る手をじっと見つめる。
 節くれた指は長いせいか、大きさの割に意外と細見に見えてバランスがいい。そうして案外器用に動く。
 男の性格を表すようにいつも短く整えられた爪も、形が良い。
 その指が、羽ペンを動かして文字を綴る。
 傍らに置いた本の頁をめくる。
 煙草を指先に近い所に挟んで口元に運ぶ。
 小さな箱からマッチを一本取り出して、擦ろうとする。
 シャンクスは立ち上がって、その手を取った。
「…なんだ?」
 ようやく視線を自分に向けた、至極まっとうな男の質問には答えず、指を手に取り、甲側を頬に当てる。
 少し、冷たい。
 けれども嫌な感じではない。
「…どうした」
 いつもより男の声音は優しいような気がしたが、それでも答えない。怒っているわけではない。怒る理由がないから。同じように、聞かれても理由がないので答えようがなかった。それだけだ。
 理由があるとするなら、それは、
 この指が、
 好きだ、
 ということ。
 頬から滑らせて、唇に当てる。
 そうして今度は手首を返させて、平の側で頬に触れさせた。ひんやりとした感触が気持ちいい。
「…シャンクス?」
 もしかしたら、困っているのかもしれない。どうしていいかわからずに。それでもシャンクスは一言も発しなかった。
 言葉などというものは、今は邪魔なだけで。ただこの男の手の感触と、体温を、黙って感じていたかった。形を持たない言葉よりも確かなものを感じたかったのかもしれない。

 この手が、好きだ。指が。

 長い指の先に口づけて、しよう?と言うとあからさまに顔をしかめられた。
 男の書物が終わってないのはもちろん承知の上で。
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