「何やってんだ、あんた」
どこにもいねェと思ったら、と、黒髪が紫煙を吐く。
あんたと呼ばれた赤髪は黒髪を降り返ることなく天からの雫を一心に浴び、広い甲板の隅っこに座り込んでいる。黒髪はやれやれ、と広い肩をすくめて傘をさした。
扉から一歩外に出ると、雨音が大きく聞こえる。
打ちつける雨はさほど激しいものではない。それでも雨は全力で甲板を叩きつけ、すべての音をその雫の中に閉じ込めようとしている。だから、普段話すより大きな声で呼びかけていた。
「あんたが雨を好きなのは知っているが…傘くらいさしたらどうだ?」
「…それじゃ、雨降ってるイミがねぇだろ…」
「陸じゃあるまいに、どんな意味があるってんだ? 雨が降るのに」
「オレが嵐や雷・雪を好きなのと同じイミだよ」
差し出した傘を避けられて、黒髪は顔をしかめた。
「…あんたにとっての意味、ね。…そういや、なんで好きなのか聞いたことなかったな」
「…そうだっけ?」
「ああ。…聞いてもいいか?」
「……………………………………」
目を閉じて天を仰ぐ赤髪は、人の話を聞いているのかいないのか。判断しかねる表情で沈黙を続ける。新しく吸い出した煙草が半分ほどの長さになっても、彼は黙っていた。
どれだけの間ここにいたのかは知らないが、シャツもズボンも…雫がそこかしこで滴るほどに濡れていた。着ている意味はほとんどない。シャツは雨でぺったりと体にはりつき、体のラインが綺麗に透けている。
ヘタにハダカになってるよりやらしいな、と頭の隅で思いながら、
「……言いたくなければ、」
「なんかさ。」
「なんだ?」
遮られた自分の言葉より、ようやく口を開いた彼の言葉の方が気になった。天を仰ぐ彼は言う。
「なんかさ。…洗い流してくれるような気がしねぇ?」
「洗い流す?…何を?」
深く息を吐きながら、人差し指でとん、と長くなった灰を落とす。それはすぐに雨粒に叩きつけられ、粉々になった。
赤髪は自嘲に顔を歪めたままで笑み、
「…オレのカラダはさァ。キタナイから。いろんなモノで汚れてるから。汚されてるから。……そうゆうの全部洗い流して、どっかオレの知らない遠くに運んでくれそうだから、雨が好き。
嵐は、あの激しさでキタナイモノすべて吹き飛ばして、なかったことにしてくれそうだから好き。容赦なく叩きつけてくれて、加減と遠慮ってもんを知らねぇ。…それがいい。
雷は、空を引き裂くあの鮮烈さでオレも切り裂かれるような気がするから、好き。オレの何もかもを打ち砕いて、粉々にして、…それでもあの闇を切り裂く稲妻には魅かれちまうんだよなあ…。
雪は…白くしてくれるから好き。なんもかんも全部まとめて真っ白に、綺麗にしてくれるから好き。全部覆い隠してくれるから。たとえケガレてても…白く、綺麗に清めてくれるカンジが、好き。オレのカラダを、あの白さで綺麗にしてくれるような気がする。
雨も嵐も雪も、過ぎた後は空気がすごくキレイになってて、気持ちいいからすごく好きだな…」
「………………」
無言で煙を吐く。
返答に窮した、というのもある。
赤髪の方は気にしていないようで、今度は嬉しそうな表情をしている。くるくる変わる表情を、黒髪はただじっと見つめていた。
「…雪がイチバン好きかな。雪降る時ってさあ、当たり前だけど寒いだろ? あの空気の、張り詰めたようなカンジが大好きなんだよな。冬の晴れた日の夜も、おんなじ理由で大好き。
積もった雪に埋もれていく時とか…そういう時だけ、オレでも生きてていいのかなあって思えて…?! ォわッ! 何すんだベンッ!」
話の途中だぞ! とわめく赤髪の頭にかぶせたタオルで、頭をがしがしとしながら、
「…あんたのカラダはキレイだよ。汚れだって弾くくらいにな」
「………」
胡散臭そうな視線が返ってきて、黒髪は苦笑する。
「あんたは存在自体が強烈に輝いてるからな。ちょっとやそっとの汚れなんぞ、ものともしないだろ。そういうところに俺たちはひかれてこの船に乗ってあんたについてってるんだが?」
「ンなことねえだろ。…オレが死んだら死んだで、皆また別の船に乗ったりするんだろ」
タオルの下から伺うように見上げる赤髪の、あらわになっている額にかかる前髪を優しく払ってやる。冷えた体温は指先からでも伝わった。
「他の連中は知らねェがな…少なくとも俺は。あんたが死んだりしても別の船に鞍替え、なんて真似はしねぇよ。出来ねぇ。俺のお頭は、あんたひとりだけだ。生きててもらわなきゃ困る…」
黒髪の差し出した傘の下で不器用に頭を拭きながら、赤髪は薄く笑った。
「…今は、そうかもな。…先はわからねェけど」
そう言ってもらえるのは嬉しいのだけれど。
カラダのどこかが、警鐘を鳴らしているんだ。
――――信じるな。
自分の中の酷薄な部分が頭をもたげそうで…誤魔化すために少し乱暴に頭を拭く。赤髪の内心には気付かず、黒髪は彼の濡れたシャツを脱がせる。張り付いているから、普段より少しだけ手間がかかった。
「俺の言うことが信じられねェって?」
「…人間の気持ちなんてものは、コロコロ変わるもんだからなぁ。…イチバン信じられねェ」
顔を拭きながらクスクス笑う赤髪の腕を掴んで立たせ、肩に別のタオルをかけてやる。これ以上ここにこのままいたら、本当に風邪をひいてしまう。早く湯につからせなければ。
「今まで俺がウソ言ったことがあるか?」
「……ねぇ、かな?」
とっさには思い出せないが…「嘘つかれた」という記憶は、今のところない。
「だったらせめて、俺の言葉くらいそのまま受け取れ」
赤髪の腕を引きながら、船内へと戻る。
「………そーだなァ……」
今までに嘘は無かった。
だからといって、これから先に嘘は無いとなぜ言い切れるのか。
人は誰でも嘘をつく。
信じていた人にさえ騙される。
だから信じない。
誰も信じない。
信じたフリならできるけれど。
――――信じたいのだけれど。
自分も嘘をついてきた。
嘘で嘘を塗り固めたりもした。
どうして信じられる?
嘘かもしれないのに。
心許した人に裏切られるのは、もうたくさんだ。
先のことなど誰にもわからない。
一瞬先のことさえ不確かなのに、これから先のことなど、断定できるはずは無い。
何を根拠に今と同じだと言い切れる? 今がそうだからか? そんなもの、信用するに足る根拠になどならない。
永遠なんて信じない。信じられない。
ずっと同じもの……「自分のカラダはケガレている」。
それだけが同じもの。昔も今も変わらない。…きっと、これだけは生きている限り、変わらない。
信じたくても、信じられない。
――――この不浄なカラダゆえに。
船内へ戻るドアをくぐって、後ろを振り返る。ドアの外は未だ雨。当分止みそうにはない。―――すこし、名残惜しい気がした。
「…どうした?」
扉を閉じても後ろを振り返ったままの自分を不審に思ったのか、黒髪は怪訝そうな表情をしている。
「別に?…なんでもねぇよ?」
ワザと。ワザとらしくない笑みを作って返して、黒髪の腕をとる。そうして上目で見上げて、
「……カラダ。冷えてんだけど。…暖めてくれるんだよな?」
「…湯で温め直してから、だな」
確信犯の酷薄な笑み。黒髪は溜息をついた。
自分の力の無さを思い知る。
この人には、壁がある。心の中に、壁が。
誰も傍に寄せ付けない、触らせない…心の奥底の、誰の目にも触れられないところが、ある。
それを暴きたいと思うのは。見てみたいと思うのは。自己満足なだけか。
好奇心だけか。
隠されるから見たいだけなのか。
――――今はまだ、及ばない。
その域に触れるほどの、触れられるほどには及ばない。
………いつか。
そう、いつか…そこまで自分にさらけ出せるくらいの人間に、なってやろう。
―――――――きっと、雨が降るたび思い出す。