きゅ。
音を立てて蛇口を閉めた。スポンジを置き、洗い立ての皿に視線を落とす。
息を吐き、吸ってからまた吐いて、咥えたままの煙草のフィルタを噛んだ。溜息がシンクに落ち、洗剤の泡と一緒にもつれて流れていく。
妙な音が聞こえると思ったが、まさか肺の音とは。どうやら吸い過ぎたらしい。やれやれと肩を上下させて、蛇口を捻り直す。すぐに冷たい水が出て、残った皿の泡を落としてくれた。
全ての皿を洗い終えると、翌朝のメニューを復唱する。パンにバター、ジャムは以前に作ったみかんのジャムがまだ少し。スープは空豆のポタージュ。ツナサラダとベーコンエッグ。クソゴムがベーコンを食い尽くさないように、半分だけ使う。ライチが残っていたはずだったから、おやつにはソルベにする。
よし、と口の中で気合を入れてポタージュの下ごしらえにかかろうとした時、キッチンの扉が開いた。身構えたが、予想した男ではなかった。短くなった煙草を捨てる。
「……おう、どうした長ッパナ」
「交替時間なんだよ。コーヒーいれてくれ。滅茶苦茶寒ィ」
「そいつァご苦労さん。今上に居るのはルフィか?」
コーヒーミルで豆を挽くと、香ばしい匂いが部屋に満ちる。明日の夕食後のデザートは、コーヒーゼリーもいい。
ウソップはコートも脱がずに席に座った。サンジの手元を何気無く見ている。
「いや、ゾロだ。あいつ、昨日の当番すっぽかして寝てたから」
「あァ……なるほど」
すっぽかした理由に思い至らないでもなかったが、わざわざ教えてやる必要はない。
他合いのない会話を交わし、ミルクとブランデーを落としたコーヒーを饗する。ブラックだと、案外繊細な所がある狙撃手の眠りを妨げてしまうかもしれないからだ。
サンジの気遣いを飲み干すと、ウソップは出ていった。船室で眠るためだ。彼を見送った後でしばらく俊巡した。煙草を半ばまで吸いきって、ようやく決心する。
白い息を掌に吐き、両手をこすり合わせる。温もりはすぐに夜気にさらわれた。片手をコートのポケットに突っ込む。体温が溜っている分だけ、暖かかった。
双眼鏡を覗きこむが、水平線の先まで何も見えない。まるでこの船だけが広大な海に置き忘れられたようだ。 コートの上から毛布を背中から被る。部屋に余っていたからと、ウソップが置いていったものだ。薄いが、ないよりマシだろう。見張り台に座り込むと、風を避けるように壁に身を寄せた。
風の音に混じって、船が傾ぐ音が聞こえる。その音の中に、ロープがきしむ音を聞いた。
ウソップが忘れ物でもしたのだろうか?いや、何もない。では――思い当たったのと、その人物が見張り台に顔を覗かせたのは同時だった。
「よぉ」
気安く声をかけてくる、金髪のコック。おざなりに返事を返し、彼が持ってきたものに目を奪われる。サンジもそれに気付いたらしく、不気味にテレ笑いなどしながら見張り台に腰を下ろした。
「夜食の差し入れだ。ありがたく食え」
皿に乗っていたのは、おにぎりと何かの漬物。左手に持っているのは酒瓶だ。
ありがたく受け取り、手を合わせてから食べる。サンジはゾロの様子を、煙草を吸いながら眺める。
視線に少しだけ居心地の悪さを感じるのは、自意識過剰ではあるまい。
「ごちそうさまでした」
「おう」
食べ終わった途端、酒を飲み始める。サンジはどこからともなくもう一本瓶を取り出すと「乾杯」だけ言い、一方的に瓶同士を鳴らせた。
「……何にだ?」
「俺様のけなげな労働に」
「…………言ってろ」
「それがわざわざ夜食を持ってきてやった人間に対する言葉か?」
持ってこいと命令した覚えも、頼んだ覚えもなかったが、反論は飲み込んだ。
今は深夜だ。波も穏やかな夜だから、口論になってしまったら寝ている連中をきっと起こす。またナミに小言を食らうのも煩わしい。だから言葉と酒を飲んだ。
サンジもそれ以上突っかかってくる気はないのだろう、黙って瓶に口を付けている。珍しいこともあるものだと、緩めたネクタイのあたりを眺めた。
空気は穏やかで壊し難い。嫌なものではない。たまにはこんな時もあるだろう。口を開いて罵り合うよりよほどいい。
サンジが立ち上がった。ゾロは目で彼の動きを追う。こちらに手を伸ばされ、身体を堅くしたが、空になった瓶を取り上げただけだった。
そうして何事もなかったかのように――実際何もなかったのだが――皿も受け取り、下りて行こうとする。声をかけたのはその時だった。
「……なんか用があったんじゃねぇのか」
ゾロの言葉に金髪を揺らし、俯いた顔をわずかに上げる。三日月と星明かりだけでは、彼が本当に困った顔をしているのか確信が持てない。
サンジが吐き出した息が霧のように立ち上り、夜風に攫われて溶ける。煙草を咥えたまま紫煙を吐き出すと、口元を歪めた。
「夜食持ってきただけだ」
「……暇な奴だな」
「感謝しろよ! どうせオメーは腹が減るだろ」
そのままキッチンを荒らされるより、先に与えた方が被害が少ない。一息に言った後で「ルフイよりはマシだけどな」と寄越したが、まったくフォローになっていない。
ゾロは溜息をついた。話題にしようとしたことの核心から逸れたのは、多分互いに自覚している。かけ引きをするつもりは、少なくともゾロにはない。
「ごっそさん」
「……どういたしまして」
金髪がまた、風に揺れる。表情は陰に隠れた。
ゆっくりと下りていく髪をぼんやり眺める。首しか見えなくなった所で、サンジがこちらを見た。
「おまえ、見張りの日は言えよ。昨日だって知ってりゃ、しなかったのに」
「…………」
「だから、今日は飯だけ。偉いだろ? これでもちゃんと考えてるんだぜ」
語尾が笑いに滲む。
「殊勝なこと言うじゃねぇか」
違うとわかっていながら鼻で笑ってやると、サンジはにやりと笑って消えた。仄かに立ち上る紫煙が消えるまで、じっとそこを見つめる。
さてはあの夜食は後払いだったのか、それとも前払いだったのか。
覚えていたら訊いてやろうと決め、掌をこすり合わせて息を吐いた。