その日の赤髪海賊団は、朝から不思議な空気が漂っていた。
何が不思議かというと…海賊団の頭であるシャンクスが皆と一緒に朝食を摂った。朝の8時に、である。夜型人間のお頭だから、普段ならまだまだ夢の中の時間のハズなのだが…。…むしろ、朝に起きない総領の方に問題があるのだが、それは赤髪海賊団の常識ではない。
さらに、なぜかビミョウに機嫌がよろしくないらしい。一見普段通りにしているように見えるが、ふとした瞬間に見せる表情はとてもイライラしている。むしろ怒っているようにも見える。
―――とはいえ、お頭の理由無きイライラには船員達にも慣れていたので、さして気にとめるものはいなかった。
自分たちの頭領の目覚めの早さについて賭けが持ちあがる動きもあったようだが、すぐに取りやめになったのは「絶対に副船長がらみには違いないが…誰が原因を聞くんだ?」で、誰も名乗りをあげなかったからだった。
夫婦喧嘩は犬も食わないというし、ヘタに探りを入れて睨まれでもしたら―――怖い。最高に怖い。特に副船長の、2mもの高さから突き刺さる氷のような視線を受けたら…想像しただけで身が凍る、というものだ。いや、身が凍るだけで済むなら幸いなのかもしれない。
船長の不機嫌は、その日のスケジュールのひとつ・船員の剣の訓練にも表れていた。
「おらァッ!! 持ち手が甘いって言ってんだろ! そんなんじゃ剣を弾き飛ばされちまうぜ!?」
言いながら中堅の船員の剣をさばく動きは、普段より数段激しい。
「おーおーおー…ヤツラもかーいそーになァ…ありゃあ、お頭のテイのいい八つ当たり相手だな」
甲板より二段ほど高い位置で見下ろしているヤソップは、隣に立つ黒髪の魔人―――もとい、副船長をニヤニヤ笑いながら見上げた。
意味ありげな視線を鉄の無表情ではね返し、紫煙を細く吐き出す。
「そういうおまえは参加しなくていいのか?」
「オレァ銃専門だからいいのよ。そーゆー副長だってそーだろーが」
「まぁな。…船員達には訓練になって、丁度いいか…」
「それ、本気で言ってんのか?」
「…なぜ?」
「なんでって…そんな他人事みたいに。ありゃ、アンタが原因じゃねーのかい? オレ達ァてっきり…」
言いかけて、言いよどむ。が、副船長の斜めの視線を受け、
「いやァ、てっきり…アンタがらみでまたお頭が一人で怒ってんのかと思っちまっていたんだが。…違うのか?」
鼻を掻きながら言うヤソップの言葉を、副船長はあっさり否定する。
「…少なくとも…今回ばかりはサッパリわからんな」
「夕べは一緒だったんじゃねーのかよ?」
「…夕べは遅くまで海図と睨めっこしてた」
「ああ…そういや、ここんとこ曇ってたからなァ。やっぱズレてた?」
船は夜、星の位置を確認しながら進んでいるので、曇天が長く続くと航路がずれているなんてことは当たり前のことだった。
「ちょっとだけな。気にするほどでもないが戻すように指示は出しておいたから、問題は無い」
「そりゃよかった…って、話がそれたな。戻すぞ。
本ッ当――――に、心当たりはないのか? カケラも?」
「昨夜は先に寝るってお頭の方から言ってきたしな…わからん」
ふだんなら欠片くらいの心当たりならあるのだが。今日はサッパリわからない。だから手のうちようもなく現在に至るのだが…。ヤソップはやや大げさに溜息をついた。
「そうか。副長に心当たりがねェんじゃなァ…」
「…が、俺が絡んでいるらしいことはわかる」
「はァ? なんだそりゃ?」
素っ頓狂な声を出したのも無理はない。意味がわからないのは自分の理解力が足りないせいではない。
「あの人が苛立ってる原因に俺が絡んでいることは事実っぽいんだが…俺の方にはサッパリ心当たりはナイってことだ。何がどう絡んでいるのやら…」
朝から何度も視線を感じて、そちらを振り返るのだが、不機嫌そうなシャンクスと目が合ってはワザとらしく思いきり顔を背けられる。
何度も何度もだ。
何か言いたいことがあるなら言えばいいのに、何も言ってこない。これでイライラの原因が自分にナイと言いきれる方がどうかしている―――が、その一方で、原因はまったく思い至らない。こんなパターンは初めてなので、どう対応したものか、というわけだった。船長の気紛れには慣れっこだが…。
ヤソップは天を仰いで大きな溜息をひとつ。
「…まァ、なんでもいいからサッサと原因を聞いちまえよ。対応はその後考えたらいいだろ?」
「それは…そう、かもしれんが…」
「晩飯の後は暇なんだろ?」
「航海士と航路の確認が…」
「それはオレがやっといてやっから、副長はお頭のイライラのモトをなんとかしてくれ。あれがあと二日も続いたら、船員達の方がどうにかなるぜ?」
「……戦力増強にはうってつけなんだがな」
「おいおい…」
(敵と遭遇した時にへばってたらどうするよ…)
心中でひそかに溜息をつき、
「今日お頭を放っておくと明日には機嫌がいっそうヒドくなってる方に1万ベリー」
「…………………」
「だいたい、トップ二人の中が険悪だったら下に示しがつかねーぞ。さっさと仲直ってくれや」
示しがつかないどころか、居心地の悪さも絶頂だろう…。胃に悪いことこの上ない。
「…ああ」
「オラ、地獄の特訓が終わるみてーだぞ。他の連中はさっさと引き上げさせるから、アンタはちゃっちゃとお頭と話してこい」
「ああ」
短くなった煙草をもみ消し、新しいものに火をつける。
そう、話を聞こうと思ったのだ。
何に腹を立てているのか、何が気に食わないのか。聞こうと思ったのだが。
話しかけようとしたら無言で剣を投げ渡された。真剣ではなく、練習用の木剣。危うげなく受け取ると、シャンクスは初めて口を開いた。
「……構えろ」
「俺は話があってきたんだが?」
「話は後だ。いいから構えろ」
「……………」
ばれないように、心中でこっそり溜息。
(やれやれ…)
何を言ってもムダそうな様子にあきらめて溜息し、言われた通りに剣を構える。
こういう状態になると、後は誰が何を言っても聞かないということを、副船長は今までの経験からよく知っていた。
(剣は得意じゃないんだがな…)
仮に得意だったとしても、シャンクスには到底敵わない。「格」が違いすぎる。相手になるのは…そう、鷹の目くらいだろう。認めるのは悔しいが。
「…さて…」
獲物は木剣とはいえ、万が一があるとも限らない。
気を引き締めて剣を構えると、鋭い斬撃が飛んできた。
すんでの所で木剣を受け流す。いつもより踏みこみが鋭く感じるのは、決して気のせいではあるまい。内心でひやりとしながら、
「…お頭……ッ」
左胸を狙った一撃を払う。返事代わりの視線は、いつになく「赤髪の鬼神」に近かった。二人きりでいる時にこんな表情を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「そろそろ…俺の何に対して怒っているのか、教えてもらいてェんだがな…ッ?」
木剣がガキッと悲鳴を上げる。
「……オマエがおれに…勝ったら、な…ッ!」
不敵に笑う。
(俺が、あんたに敵うわけねェだろうが…!)
内心で舌打ち。―――だからこれは。
(…俺には教えねェ、ってことか…)
自分にも教えないほど、何をそんなに気にしているのか。相手が手札を見せるまで、こちらは焦れる一方だ。だがそれならそれで―――こちらにも考えがあるというもの。
斬撃は今しばらく続く。
十合…二十合。
いつ果てるとも知れぬ手合わせは、まるで決闘のようでもある。
木剣のぶつかりあう乾いた音が、黄昏時の甲板に響く。
鋭い剣先を紙一重でかわし、斬撃を返す。危なげなく受けとめられるが、時々よろけるのは一撃の重さに耐えかねてのことだろうか。
――――もう何十合と斬り合っただろうか。
剣技ではシャンクスに及ばないとはいえ、副船長もよくしのいでいる。また、食らう一撃一撃が重いにもかかわらず、シャンクスもよく見てかわしている。
はたして―――怪物並の体力を誇る船長と副船長は、荒い息を吐いていた。そろそろ視界が悪くなってきている。
「いいかげん…教えてくれても、いいんじゃねェか…?」
「ハッ…! ケリはまだ、ついて、ないぜ…? 言ったろ…おれに、勝ってからだって、な…」
「…強情だな…」
「今に、始まったことじゃ…ねェだろがッ」
「ッたく…ベッドん中じゃあ、あーんなに素直なのに、なァ? シャンクス?」
片頬と片眉(無いが)を吊り上げて笑って見せる副船長の言葉に、シャンクスはさっと頬を朱に染め、
「ッの、バカ副…ッ!! バカなこと言ってんじゃねェッ!!」
勝負も忘れて悪態をつく。
―――構えるのが一瞬、遅れた。
今までにない速さで懐に飛んできた副船長をかわそうとした時には、もう遅かった。
硬い音がして木剣が飛び、甲板を滑っていく。
「…汚ねェぞバカ副ッ」
「同業者相手にそれを言うか? 正々堂々と勝負、とは聞いてなかったぜ?」
木剣を喉元に突き付ける黒い大男を睨む。そうしている間にも、彼の姿は暗くなる空に溶けていくようだった。
「…卑怯臭ェってゆってんだよ。おれは正々堂々と勝負する気でいたのに…」
「だが、勝ちは勝ちだぜ?」
今更約束は違えねェよな? と言う副船長から顔をそらす。
「…さァなッ! どーしよーかッ……ン…ッ」
言葉は終わりまで発せられることは無く、口唇は口唇を持ってふさがれた。彼にしては珍しく、強引なキス。
(こ、の…ッ!)
引き剥がそうとしても、しっかり抱きしめられているこの状態ではビクともしない。剣技ならばともかくも、純粋な力勝負では敵うはずもない。その間にも、彼は口内を好き勝手に犯してゆく。歯列の裏…口腔の上方…舌の表面…。ゆっくり、時間をかけて。口説き落とすように。
「ッ、…、ン……、…………ッ?!」
シャンクスがびくりと震える。肌の敏感な部分に…触られた。
「ちょッ…何すンだよ?!」
「別に? 素直に言えないなら、言えるような状態を作ってやろうと思っているだけだが?」
「ンの…スケベヤロ…ッ」
「あんたにそんなこと言われるとは、心外だな…」
喉の奥でくつくつ笑いながら、片手でぬの越しにゆるくシャンクスに触れ、耳の裏を舌先でくすぐるように舐める。そのたびに、意志に反してからだがいちいち反応してしまう。
「バカ副…! 誰か、来たら…ッァ…ッ」
「…誰か来たら、そりゃあ困るだろうな?」
「テ、メ…ッ」
(他人事みたいにゆってんじゃねェ!!)
力をこめて睨んでも、にじんだ眼では逆効果だということにシャンクスは気付いていない。睨まれた男は薄い笑いを口端に刻み、
「だから…、」
耳元で、
「早く、理由を言っちまいな…? こんなところで…しかも、立ったままは嫌なんだろ…?」
囁きながらも手は止めない。先ほど自分を引き剥がそうとしていた手は今、背中にしがみつくようにシャツを握り締めていた。
どうする…? ともう一度耳へ声を注ぐと、シャツを握る手にさらに力が加わった。観念した声が、途切れ途切れに理由を語る。
「……オマエに…ッ、冷たくされたんだよ…ッ」
「…は?」
瞬間、副船長のすべての動きが止まった。気付かないシャンクスはイライラ気味の声で言葉を続ける。
「呼んでもシカトされるしッ…話しかけても知らないヤツ見るような目で見られるしッ…しゃべっても言い方は突き放してるし…ッ、とにかく、スッゲェ冷たかったんだよッ!」
必死に記憶の糸をたどる。
記憶力には多少なりとも自信はあったが…仲間になってからはついぞ、そんな行動をとった覚えは無い。
「……俺が…いつ?」
言いながらも糸を手繰り寄せていると、シャンクスは肩口に顔をうずめて答えた。
「………夢」
「……………………………は?」
今自分が発した声は、人生で最高の間抜けた声だったに違いない。その自覚はあったが、シャンクスはそんなことには気にもとめずに―――あるいは気付かずに―――続けた。正常な状態であったなら、大爆笑されていたに違いない。
「おれが誰だかわかんなくておれにあーゆー態度とるのも腹立つけど…ッ、オマエ、おれがおれだってわかっててあんな冷たい態度とるんだぜ? おかげでおれがどんなに傷ついたかわかるか?」
「……わからんでもないが……夢、だったんだろう?」
戸惑いながら答えると、
「夢だよ」
眉を寄せた顔で、きつく睨み上げられた。
「…でもオマエだった」
「……………………………………」
(……そんな、理不尽な理由で…八つ当たられていたのか…)
肺の奥からの深――――い溜息。
「なんだよそのデッカイ溜息はッ。おれは傷ついたってーのにッ」
聞き分けのない子供のように言って、広い背中をバシバシたたく。その行動に苦笑しつつも、
「…ハイハイ…”ゴメンナサイ、モウシマセン”。…これでいいか?」
頭と背中をよしよしと撫でてやる。そうすると、シャンクスが顔を上げた。
「……まだダメ」
「おいおい…これ以上、俺に」
どうしろって言うんだ、とは言えなかった。首を強く引き寄せられ、口唇をふさがれる。
短い口付けを解くと、イタズラッ子のように笑う。先ほどの機嫌悪そうな表情はどこへやら。
「……おれを煽った分はキッチリ、責任とれ。今回はそれで許してやる」
「…そろそろ夕食の時間なんだがな…」
溜息混じりに答えれば、
「煽り逃げは許さねェぞッ」
食いつかんばかりの勢いで見上げてくるシャンクスの表情に、また苦笑。
「わかったわかった…わかったから、離れろ。歩けねェだろうが」
「何言ってんだ。オマエがだっこしてつれてってくれるんだろ?」
「…ハイハイ…」
ったくこの人は、とは口の中でつぶやいた言葉。苦笑している表情も、きっとシャンクスには見えないだろう。
小さく溜息をつき、膝を折って、シャンクスの腰を抱え上げてタテダッコをする。おれをドア枠にぶつけたりすんなよ、といいながら副船長の肩の筋肉をベチベチたたくシャンクスはすでに上機嫌。
敵わねェなァと小さく呟いた声は夜風にさらわれてシャンクスには届かない。夜空を飾る星が、代わりに笑っているみたいに瞬いている。
夜は長そうだなと一人ごちた言葉は、三日月を滑って海に落ちた。