手を繋げなくとも

 ニルバ島からの帰りの船でも同室だとはわかっていたし、船上という狭い中で逃げ切れるものでもないとわかっていた。
 それでも逃げたかった。
 ゲオルグの顔を見ていたくはなかった。
 彼に罵られることも非難されることも、甘んじて受ける勇気がない。
(……こんなので、よく……)
 好きだなどと。
 嫌悪されるのはまだしも、斬り殺されても文句は言えまい。だが、誰よりカイルを殺したいと思っているのはカイル自身だ。
 あんなことをするつもりはなかった。いや違う、あんな風にするつもりはなかった。昨晩、逃げるように部屋を出てから、同じ言い訳が頭の中をぐるぐるとまわっている。
 組紐がないせいで緩く三つ編みにしかしていない髪が夜風に揺れる。
 大人しく殴られる覚悟すらないか。
 意気地のない自分が嫌になる。
 嫌われても仕方がない。思うが、そう思うことでいっそう胸が重くなった。自分勝手だとわかっているから余計に自分自身に腹が立つ。
 食事時はなんとか顔を合わせないように時間をずらすことができた。だがそれは今日だけの話で、後の数日がどうなるかはわからない。いつまでも逃げ切れるはずがない。
 実際、今も気配を殺しながら宛がわれた船室に戻っている。シャワーは各部屋にしかないため、こればかりは仕方がない。潮風にべたついた体や髪を数日放置できるほど、カイルは無頓着ではいられなかった。
 船室の扉は閉ざされているかもしれない。もしそうだったら、朝食時にゲオルグが部屋を空けるのを見計らえばいい。今入るよりよほどそのほうが安全にも思える。しかしそれを思いついたのはドアノブを回してしまってからのことで、扉が内側へと開いてしまっては後戻りすることは考えられなかった。
 ベッドで眠っている陰が動かないことを確認すると、足音と気配を消したまま浴室へ入る。何も考えず、そのまま浴室へ足を踏み入れ、シャワーのコックをひねった。
 豪雨にも似た激しさで、水がカイルの全身を打つ。結んでいなかった長い金髪はあっという間に濡れ、体に張り付いた。伏せた目許の脇にも水が流れ、鼻筋や唇を伝って落ちる。
 そう、今全身を伝っているのは水。シャワーからの水だ。雨ではない。多少海水臭いのは仕方がない。陸の上と違って、真水が自由になるわけではないからだ。それでも体のべたつきを流してしまうには充分だ。
 降り注ぐ流水は石礫を投げ付けられているようだった。あたかも豪雨のようにカイルの肌を服の上から痛め付ける。
 狭い範囲での集中豪雨は、視覚も聴覚も閉ざしてしまう。滲む視界に映るのは、排水溝に吸い込まれゆく水と、しとどに濡れた下穿きとブーツ。鼻が詰まり、呼吸することも困難になって口を開けば、また水が入る。
 シャワーで溺れ死んだなら、後々まで語り継がれるほど愚かだろう。それは避けたいが、息を吸えば水も口に入る。
 両手を壁に打ち付けた。鈍い音すら雨音にも似た水音に掻き消される。痛みなど感じなかった。手の痛みよりよほど――胸が痛い。
 奥歯を噛み締め、上がりそうな嗚咽を飲み込んだ。そんな権利など自分にはないことは承知の上だ。それはあまりにも、身勝手すぎる。
 自分のことばかりを考えることで一杯で、傍に誰かが来たとしてもわからない。だから腕を掴まれるまで、ゲオルグが傍に来たこともわからなかった。
「……おい」
 強い力に、咄嗟に抗えなかった。腕を引かれるがまま、水の中を脱する。何が起きたのか、理解が追いつかなかった。
 彼の顔は、見なかった。長い髪の先に球を作り、落ちる水を見つめた。
「服を着たまま、何をしているんだ。この国にはそういう慣習でもあるのか?」
 問いに頭を振っただけで答える。顔は上げられなかった。コックが捻られ、水音が止む。寝ていたはずではなかったか。足音は立てなかったはずだ。では、気配を殺しきれなかったか。この男が敏すぎるだけのような気もする。
 男ふたりが入るには手狭な浴室に、ゲオルグの声が響いた。
「ともかく――浴びるなら湯にするべきだな。風邪を引きたいわけじゃないだろう」
 いくらこのあたりが暖かいからとはいえ限界はある。そう言いながらゲオルグはタオルでカイルの頬を拭いた。棒立ちのまま動かないカイルを不審に思ったかもしれない。
 タオル越しに触れられると、肌が震えた。目の前にゲオルグがいるという現実が、どうしても納得できない。
 酷いことをしたはずだ。
 到底許し難いこと、のはずだ。
 一日しか経っていないから、忘れたということはありえない。
 それなのに、どうして。
「……不思議そうな顔をするな」
 苦笑した声。大きな手は頭まで拭いてくれる。
「別に、責めるつもりはない。すまなかった」
「……ッ、どうして……!」
 ゲオルグが謝ることなど何ひとつない。
 思わず顔を上げた。
 真摯な顔が、そこにある。カイルを責めても嫌悪してもいない。
「おまえがそんなに思い詰める性質とは思わなかった。……すまなかった」
「なんでゲオルグ殿が謝るんですか!」
「夜中だぞ。大声を出すな」
 至極もっともだが、そんなことを気にかける余裕はカイルにはない。
「だ、って……あんた、あんなことされておいて……!」
「正直、体は痛かったが」
 和らいだ表情。いつものゲオルグと変わりない。そのことが不思議でたまらない。
「喧嘩の延長みたいなものだろう。そこまで追い詰めた俺にも、責任の一端はあるし、な」
 無意識に、体が動いた。
 自分がずぶ濡れだとか、今更どの面下げてとか、そういったことはすべて吹き飛んで、ゲオルグを抱きしめた。逃げる素振りも見せないでくれている。
「……冷たいぞ」
「すみません……でも、オレっ……」
「まず、着替えたらどうだ?」
「でも……」
 このまま手放すと、逃げられる気がした。
 決してそんな人ではないとわかっているのだけれど。一度腕の中にしてしまうと、離れたことを考えたら恐ろしくなる。
 そう、怖かった。
 一度だけで終わってしまうのではないかと思うと、怖かったのだ。ゲオルグに受け入れてもらえる理由が、どうしてもわからなかったから。何も言ってくれやしないから。
 カイルの逡巡を察したような手のひらが、頬を撫でてくれる。暖かさに肌が震えた。
「泣かなくとも、俺は逃げたりせんぞ」
「な……泣いてなんか……!」
 慌てて目許を擦ると、頭を撫でられる。これではまるで子供扱いだ。一対一の、対等な男同士でありたいのに。
 それでも、逃げないと言われたことで多少は落ち着いた気がする。我ながら現金だ。恥じ入っていると、更に頭を撫でられた。
「別に泣いたって構わんだろう。素直でいいんじゃないか?」
「構い、ますよ……」
「俺が思うに、」
 ゲオルグの両腕がカイルの背へ回された。強い力で抱きしめられる。
「おまえは格好つけようとしすぎだ。もっと普通にしていればいい」
「な……」
「違ったか?」
 優しく問われ、首を振る。
 きっと、合っている。
 経歴も経験も何もかも敵わないゲオルグに、それでも釣り合おうと――対等でありたいと思い、だから背伸びをしていることは否めない。
 そうでもしなければ、妹や国を救おうと必死になっている王子や彼を影から支えて力になっているゲオルグには及ばないのではないかと思う。
 身の丈を、忘れたつもりはないのだけれど。
「背伸びするのを止めろとは言わん。もう少しだけ、肩の力を抜くといい。俺はそのほうがおまえらしくて良いと思う。――どんなおまえでも、おまえはおまえだ。別に嫌ったりはしないから安心するといい」
 愛しいと思いこそすれ。
 ゲオルグの笑みが混ざった呟きは、うっかりすると聞き逃してしまいそうなほど淡かった。だが確かにカイルの耳に届いた。
 今聞いた言葉は幻聴ではないか。
 だとするとずいぶん都合が良すぎる。そんなわけはないと否定しながら、歓喜が沸き上がるのは抑えがたい。
(そんな、こと……)
 肯定しきれないのは、すっかり身についたマイナス思考のせいだ。ことゲオルグに関して、カイルは自分がどんなに臆病になっているかを理解している。
 確かめようにも、ゲオルグを抱きしめている自分の体同様、舌まで凍り付いている。
 ちょっと優しくされたから、自惚れが起こした聞き違いではないのか。愚かな期待が幻聴まで聞こえさせたのではないか。
 よくよく考えればこちらのほうがよほど愚かだとわかりそうなものだが、カイルはいたって真剣であった。
「……おい」
 ゲオルグに頬を優しく叩かれ、はっと顔を上げる。
「また何か後ろ向きなことを考えているな?」
「だ、だって……」
「先に言っておく」
 穏やかだった顔が、真剣味を帯びる。何か大事なことを言おうとしているのだとわかり、つられるように表情を引き締めた。
「俺は、この戦いが終わればファレナを出て行く。留まることは、ない。だから永遠だとか何とか、そういう類のものを求められても困る」
 一度言葉を区切ると、タオルで乱暴にカイルの頭を拭く。
「そういう人間が何を言おうと信じてはもらえないかもしれないし、信じなくても構わん」
「ゲオルグ殿?」
 息を吐いたゲオルグが、カイルの体に回したままの腕に力を篭めてくれる。触れている部分は、温かい。
 目許に唇が寄せられる。
 囁かれた言葉に、目を見開いた。
 まさか、そんなことは。
 呆然としていると、笑うゲオルグに頭を掻き回すように撫でられた。
 その耳がほんのり赤く染まっているのを見、ようやく今囁かれた言葉が嘘ではないとわかる。まして幻聴でもない。
「面倒な男だな、おまえは」
 そう言ったゲオルグは、夏の晴れた空のように眩しく笑ってカイルを甘やかしてくれたのだった。
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