不審な人間を捕えたと門兵が女王騎士の詰め所へ飛び込んで来た時、その場にいたのはゲオルグだけだった。
最終責任者である女王騎士長フェリドは泊まりがけで外出していたし、ガレオンはザハークと練兵、アレニアは珍しく城下の見回り、カイルはこの機にとばかりにどこぞへとサボりに出ていた。
ゲオルグは結果としてひとり真面目に書類を片付けていたわけだが、単に詰め所に誰もいないのも不都合かと思っただけだ。他に誰か残っていたなら、途中でゲオルグもカイル同様に抜け出していた可能性はある。練兵にせよ市中の見回りにせよ、書類を相手にするよりはよほど体を動かしていたほうが良い。
不審人物の検分にしても、書類と睨めっこしているよりは良かった。
「太陽宮に不審人物というのは、俺がここに来て以来初めてだと思うが、頻繁に侵入してくるものなのか?」
「以前はともかくとして、現在ではほとんどありません」
以前、というのは前女王の時代のことだろう。フェリドもあまり詳しいことを教えてはくれなかったが、凄惨な出来事が日常茶飯事だったと聞く。
が、その頃と比べて意味があるかどうか。
決して友好的とは言えない隣国の暗殺者が忍び込まないとは断言できない。そのための警備が適切に働いていて良かったと思っておくべきか。
息を吐き、立ち上がった。
不審人物は、不審な人間と言うにはあまりにも堂々としていた。そこがかえって不審である、とも言える。
眼鏡の奥に冷静を秘めた年齢不詳の男は、ジェイド・カーティスと名乗った。マルクトという国の大佐だというが、各地を放浪していたゲオルグですらその国の名は聞いたことがない。
「それはそうでしょうね」
こともなげに男は言い切る。
「この世界には存在しない国ですから。おそらく」
「存在しない?」
「私が存在した世界では、ファレナという国は存在しませんでした。あなたも、マルクトやキムラスカという国は知らないでしょう?」
「少なくとも俺は聞いたことがない」
「私が持っている世界地図にも、この国は記載されていませんし……私がここへ来る直前のことを考えれば、異次元に飛ばされた可能性は否定できませんから」
「よくわからんが、おまえが来たのはこことは別の世界の、マルクトという国だということはわかった」
それが真実かどうかはともかく。
溜息を吐くと、目の前の男の処遇について頭を悩ませた。
翌日。
「ゲオルグさん、でしたっけ。こんなところまでわざわざようこそ」
「こんなところで、すまなかったな」
苦笑しつつ、鉄格子の前で腕を組んだ。
地下牢は決して環境がいいとは言えない。湿っているし、埃を含んだ空気は少しかび臭くて重い。罪人を収容する場所だから、掃除が行き届いているとは決して言えない。
そんな場所ではあるが、先日太陽宮に忍び込んだ(実際は違うようだが)背の高い男は、身綺麗である。というのも、忍び込んだ(結果的に)事情を聞いたゲオルグが便宜をはかっているからだ。
「いいえ? 実際、良くして頂いているほうだと思いますよ。囚人としてはね」
紅い眼差しと薄い唇が弧を描く。牢屋という場所に反し、彼は決して囚人ではない。異世界での事故で次元を飛ばされ、出てきた先がたまたま王宮だっただけだ――彼の言葉を信じるなら、だが。
だが暗殺者や密偵の類であるなら、昼日中の王宮のド真ん中に現れたりはしないだろう。
底知れぬ光を宿した眼をした頭の良さそうな男。だから余計に下手な嘘は吐かないだろう。そんな気がした。
「すまんな」
あえて軽く言い、肩を竦めて見せる。
「何しろ責任者がしばらく不在でな……俺の独断であんたをどうこうするのも憚られる」
「宮仕えのつらさですね」
「理解頂いて痛み入る」
ジェイドと名乗った男は、椅子代わりに座っていた簡素なベッドから立ち上がると、檻のすぐ前までやってくる。そうしてしげしげとゲオルグを見つめると、口を開いた。
「この国では、あなたのような目の色の人は多いのですか?」
「目か……まったくいないわけではないだろうが、今のところ、会ったことはないな」
珍しいものを見るような視線を向けられたことは一度や二度ではない。だが、目のことを言うのであれば、この男は人のことは言えない。
「俺よりあんたの目のほうがよほど珍しいと思うが? あんたの国では珍しくないのか」
この国、いや世界で目が赤いといえば魔物の類くらいのものだ。ゼロではないだろうが、血と魔物を連想させる色は不吉でもある。ジェイドという男が牢ヘ入れられたのも、目の色がひとつの原因だったと言えなくもない。
「私がいた世界でも、珍しいでしょうね。あなたと同じく、私は自分と同じ目をした人間と遭遇したことはありません」
ジェイドは眼鏡の奥の紅眼を軽く細めると、次いで喉を鳴らして笑った。何故だが獰猛な魔物を前にした気分になる。空気は湿気を含んでいるのに、乾燥しているかのように肌を刺した。
不意に、檻の中の男の手が動く。ゲオルグは動かなかった。動く必要はなかった。害意は感じられなかったからだ。
金と紅の視線が交錯する。
手袋に包まれた手が檻の隙間から伸び、指が頬からこめかみへと触れた。それでも動かなかった。
「琥珀……あるいは金。不思議な色ですね。目尻の朱は、何のために?」
「さあな。俺は知らん」
「愛国心はなさそうですねえ」
「友に呼ばれて雇われているようなものだ。俺は元々傭兵で、この国の生まれというわけではない」
必要とされている間はそれなりの忠節をもって仕える。自身の信義に背かなければそれで良い。
簡潔な言葉に、ジェイドは「なるほど」と頷いた。
「たしかに、友人は大切にしなければいけませんね」
「あんたにもいるのか」
「さあ……どうでしょう」
曖昧な笑み。指は目許から顎を伝い、喉や鎖骨を辿った。初めは意図が見えなかったが、なんとなくわかってきた。それを口にしないのは、互いに根競べをしているようなものだ。
「あまり実用的な服ではなさそうですね」
「平和な時代では、軍隊など飾りに等しかっただろうからな。ひらひらとしているのは好かんが、これはこれでまあ、悪くはない。あんたも、軍人にしては軽装だが?」
「軍人だと言いましたっけ?」
「いや。だが、わかる」
背が高い細身の優男。一見は軍人というより文官だと思わせられる。だが、文官というには眼の奥にあるモノが重い。
それに、魔法を使うのであれば、体格は関係ない。精神力や体力を考慮しなければ、子供や年寄りでも戦える。
生憎とジェイドの世界とは魔法の定義が違うらしく、説明を要したが、すぐに魔法が何であるか理解したらしい。彼の世界の魔法(譜術というらしいが)とは決定的に理が違うようだが、詠唱して発動するのは変わらないようだ。
相当の使い手なのだと思う。そういう眼だ。先程から瞬き以外で視線を逸らしてはいないが、気を抜くと取り込まれそうでもある。弱い者なら懼れを抱くだろう。
「勘が良いんですねえ。おまけに度胸もあるし、強そうです」
「あんたも充分だ」
「お褒め頂き恐縮です」
「帰る手立てはあるのか」
ゲオルグの言葉が意外だったのか唐突過ぎたのか、ジェイドは瞬きした瞼をかすかに震えさせた。
「……まあ、隠しても仕方ありませんね。私のほうには、残念ながら。けれど、多分お節介な人たちがいるので、何とかしてくれるでしょう。多分、というか希望ですけどね。私がこちらに飛ばされた要因はわかっていますし」
どうやら迎えが来ると考えているようだ。だが――どうやって? どこに?
案じる必要などないことはわかっている。いざとなればいくらでも、この男は脱獄するのだろう。
ゲオルグの内心など知らぬジェイドは、張り付いたような笑みを浮かべて言う。
「昔、子供の頃に習いませんでしたか? 迷子になったら、その場から動くなと」
だから大人しくこんなところにいるのだと、言外に言っている。
なるほど。
ゲオルグは得心する。
「だから、暇潰しというわけか」
「何のことですか?」
笑顔はいっそ潔いまでに胡散臭い。おそらく当たりだ。
溜息を内心に留め、胸元を撫でようとしていた指を手の甲で弾く。
「迎えもあんたのように現れる可能性があることは覚えておこう。それで充分だろう?」
「そうですねえ……少々足りません」
払った手が、素早くゲオルグの袷を掴み、細身の男とは思えない強さで引き寄せられる。
驚かせるつもりだろうか。いや、そうやすやすと驚いてたまるものか。どうせこれも暇潰しに違いない。そうだとわかっていて動揺するなど、馬鹿らしいではないか。
――血色の眼が間近に迫った。