部屋に戻ると、ベッドへうつ伏せに倒れこんだ。着込んでいる女王騎士の装束を脱ぐことは勿論、もう一度起き上がることすら億劫だった。埃っぽく汗臭いままだとわかっていたが、体を起こす気にはならない。
(あー……体力落ちたかなー……)
溜息を吐き、胸の中で独り言つ。
人並みよりは体力があるつもりでいた。この場合の『人並み』は一般人ではなく、兵士たちを指す。
曲がりなりにも女王騎士が、戦場で遅れを取るわけにはいかない。かつて歴代の女王騎士長は多くが名ばかりの飾りであったため、戦場で実質的に兵の指揮をとっていたのが女王騎士たちであったことも要因だ。
戦場に立つ時には一隊の指揮官としてだけではなく、一兵卒同様に剣や魔法を振るう。体力切れで動けなくなることは自分自身だけではなく隊の存亡にも関わるから、体力はあったほうが良い――とは現女王騎士長の言葉だが、カイルなりにその言葉には納得しているため、書類処理はともかく、日々の鍛練を怠ることはなかった。
だが、やはりフェリドやゲオルグたちとは、元々持っている体力の限界値が違うと思う。彼らときたら、カイルが動けなくなるほど消耗しているというのに二人して酒を飲みにいってしまった。どこにそんな余力があるのか、いつか問い詰めてみたい。
今疲労しているのは単なる鍛練のせいだけではなく、兵士たちの一斉訓練を含んだ魔物討伐を行ったからだ。我が身ひとつのことではないこの訓練は、ひどく神経を使う。隊の者たちを死なせないのは勿論だが、怪我を負わせることもなるべく避けたい。広く隊の者たちに目を配りつつ、兵士たちのためには自分が手を出すことは控えねばならない。まったく疲れる訓練だった。
(まー、戦い慣れてたほうがいいに決まってるけど……戦争するなら)
実戦に慣れない者たちも多く、また経験していても前回戦争があったのが八年前とくれば、平和ボケで勘が鈍る。定期的に魔物退治を行うのは民の安全を守るためでもあるし、兵士の調練の意味も多大にある。
今回は、女王騎士長自らも参加する大規模なものだった。
一ヶ月も前からこの日のためにシミュレーションが繰り返され、最近魔物の動きが活発な場所、隊の編成、装備の用意、二日かかりであったので糧秣の準備や輸送の手配等、様々なことがあった。
今の女王と女王騎士長を戴いている限り、ファレナから他国へ戦争を仕掛けることは、まず考えられない。だが他国、特にアーメス新王国やナガール教主国が攻め込んで来ない、とは断言できない。現にアーメスとの国境の街、セーブルからは何度かアーメスによる国境侵犯の報告が上がっているのだ。八年という月日の中で、前回受けた打撃を忘れてしまったのだろうか。
(それとも、貴族みたいなのがアーメスにもいるのか……)
ともあれ、今回の訓練で何か良いことがあったかと言えば、ファレナ最強の女王騎士長の前で良いところを見せたい兵士たちの暴走の手綱を取らねばならないため、女王騎士たちが疲労しただけなのだった。
(フェリド様、ホント満足そーだったなー)
太陽宮にいるより余程、生き生きとして見えたのは見間違いではあるまい。日頃の鬱屈もすっかり晴らしてしまったのだろう。まさかそのために発案したわけではないだろうが。
さすがに汚れた体のまま部屋に戻るのは気持ち悪い。女王騎士用の浴場で汗や土埃、魔物の血を流してしまうと早々に部屋へ引き上げた。窓の外は夕闇が近付いているが、夕食にはまだ早い。少しだけでも仮眠を取っておこうと目を閉じると、あっという間に眠りに捕まった。
体を揺り起こされた気がして、ふと目が覚めた。慌てて身を起こすと、新米の同僚の姿がある。
「……ゲオルグ殿?」
「やっと起きたか」
起こされたこともだが、他人が部屋に踏み込んだ時点で目が覚めない自分に落ち込む。誰かに起こされるのも久しぶりだった。それでも女王騎士かと呆れられても仕方ないが、同僚は気にしていないようだった。
吐息が触れるほど間近に、優しく微笑む顔。精悍な顔立ちは、彼が太陽宮に勤めるようになってから女官たちの間でも評判だった。初めのうち彼のことを苦手だったのは、それだけが原因ではないが、一因ではある。
この男に起こされる理由も咄嗟にわからず、まだ眠りに霞む頭を傾げた。
「あれ……なんで……」
「飯を食う約束をしただろう」
呆れたようにゲオルグが理由を教えてくれた。
そういえば、フェリドに拉致される前のゲオルグとそんな約束をした、かもしれない。連れて行かれてしまったため、なかったことになっているのかと思ったのが半分、部屋に戻ってすぐ眠ってしまったため忘れてしまっていたのが半分の理由だが、まさかそんなことを正直に言うわけにもいかない。前半はともかく、特に後半の理由については。
「……フェリド様と一緒じゃなかったんですか? てっきり……」
「約束は守る」
「すみません……遅くなりましたけど、食事、行きましょうか。着替えますから、ちょっと待ってて下さいねー」
「……ふむ」
ゲオルグに背を向け、留め具に指をかける。なんとなく汗くさい気がする。湯を浴びる時間もなかったなと反省した。
上着を脱ごうとして、脇から現れた手に先んじられた。
「…………何ですか?」
たっぷり五秒は無言で驚いた後、ようやくそれだけの言葉を絞り出す。こういう接触の仕方をする人だと思っていなかったことと寝起きだったことで油断した。
男に触れられて楽しくはない。言外にそう滲ませながらゲオルグの手を制するが、答えは人を食ったものだった。
「手伝おうかと思ってな」
「子供じゃないですから大丈夫ですよー、って人の話を聞いて下さいよ」
「いいだろう別に」
今更だと言われても、すぐに承服できるものではない。脱がすのかと思った手は、胴鎧部分を外しにかかっている。その手を押し止め、
「オレ戻ってから湯を浴びてませんから」
汗や埃に満足まみれているのだと主張しても、一笑に付される。言ったことに嘘はないが、まともに受け取ってもらえているのかどうか。
「言い訳としては初歩だな」
「ゲオルグ殿、言う相手間違ってませんか。女の子に言って下さいそーゆーことは。早く行かないと店が閉まりますよ」
「俺は特に必要ない」
「そりゃあ飲んだ後ですもんね食べてるでしょーよゲオルグ殿は」
オレはまだですと言えば、テーブルを指差された。この間に胴鎧は剥ぎ取られ、襷を解かれる。
「持ってきてある。食べるといい」
手渡された襷の皺を伸ばしながらたたむと、下衣姿のままテーブルに置かれた箱の蓋を開け、中身を覗き込む。
何種類かのサンドイッチにサラダ、スパイシーな香りの鳥の唐揚げとフライドポテト、櫛切りにされた数種類の果物が一人前、収まっていた。
ずいぶんと用意がいい。
何かの他意があるのではないかと勘繰りたくもなるが、先んじられる。
「部屋に引き上げる時に、えらく眠そうだったからな」
もしかしたら眠ってしまっているかもしれないと考えて、わざわざ包んでもらったのだという。たしかに、あのまま寝入っていれば夕食を食いっぱぐれていたに違いない。
それだけを聞くと、気を利かせてくれた良い人、のように思える。疑うほうがどうかしているのではないかと思えるが、何か引っかかってしまう。
今先程の接触にしてもそうだ。
ゲオルグが元々スキンシップ過多なタイプであるのならば、気にすることはないのだろう。だが、断じてそうではない。フェリドにもさりげなく確認を取ったから確かだ。
ならば、何故触れてくるのか。
嫌がらせであるだろう、いやそう思いたい。その他の可能性はありえない、はずだ。表面上はあくまで友好を保ったままでの接触は、不気味でしかない。
ゲオルグ自身に対しては、まったく彼自身のことを知らなかった当時に比べれば幾分普通に接せられるようになったものの、相変わらず彼に対する一定の警戒は抱いていた。
大雑把にタイプでわければフェリドに近い男だとは思うが、フェリドよりずっと得体が知れない。彼を敵視する貴族たちほどではないにしても、心の底から信頼できるかと問われれば、素直に頷きがたい。
いっそザハークやガレオンほど違うタイプであればこれほどまでは気にはならなかったと思うのだが、仕方がない。
ゲオルグが持参してくれたサンドイッチや唐揚げを胃へ収めながら、チーズケーキをつまみに飲む男の様子を窺う。
まるで何年も前からずっとそうしているのが当たり前のような顔で酒を飲む。
断言するほど嫌なことではない。
単純に、疑問だった。
いくら他の女王騎士にウマが合いそうな者がいないからといって、ずっと年下の自分とつるんでいて楽しいのか。
カイルにしても楽しくないわけではない。そうでなければ疑問を抱きつつもこうしてふたりで飲みはしないし、女性たちのところへ行けばいいだけの話だ。他の女王騎士を引き合いに考えても、一番マシなのはゲオルグかもしれないとは思う。その感覚と同じかどうかはわからない。違うのではないかと勘繰ってしまうのは、ゲオルグの本心が見えないからだ。
軽く、上辺だけで付き合える人なのかと思えば、奇妙な接触の仕方をしてくる。本気で嫌だと思うレベルであればそれなりの対応を取ることもできるが、そうでもない。
どうにも掴みにくい男だ。
そんな感想を新たにしつつ、最後のサンドイッチを腹に収めた。