離れた後で

 一言も発さずに出て行った後ろ姿を、見送ることしかできなかった。
 
 頑是ない子供のようだ。
 素直になれば良い、と自分を棚上げしてそう思う。
 きっと彼は、自分の感情を持て余していた。耐荷重以上に負荷をかけて抑圧の歯止めを飛ばしたのは自分だという自覚がゲオルグにはある。だから今夜のことはその結果なのだ。彼が悪いわけではない。
 彼、カイルには想定外の事態だっただろう。表面に出したくはない激情だったのかもしれない。ゲオルグには見せたくない情動だったのかもしれない。
 だが、いつまでも溜め込んでいるのは不健康だ。無理矢理にでも吐き出したほうがよほど健康的ではないか。たとえ彼のほうでそれを望んでいなくとも。
 カイルが望んでいるものや言葉を知っていて与えないのは、一方的なゲオルグの都合だ。だからゲオルグが意図的に仕向けた結果でなくカイルがあんな風に当たってきたとしても、お門違いだと突き放すことはできない。むしろ甘んじて受けただろう。
 勝手をしている自分を許せというのは本当に勝手な話で、カイルの気持ちを踏みにじり続けるだけだ。そのことを許されようとも思わないし罰だという意識もないが、結果だけを見れば五十歩百歩か。
 甘く、あるいは蕩かすような睦言を囁き合って抱き合いたいわけではない。
 世の恋人たちが当たり前のように繰り返す、愛しげで蜜のように甘い行為を望んでいるわけではない。
 ただ、優しくありたい。
 決して傷付けたいわけではないのだ。
 しかしゲオルグの意図に反してカイルは傷付いていた、ように見えた。
(……失敗したな)
 薄い自嘲が口許に浮かぶ。
 体の痛みすら、カイルの心が負った傷の痛みには敵うまい。もっと酷くしてくれれば良かったのだ。それも勝手な要求で、彼の本当の望みとは別のところにあるに違いない。
 傷付けたいわけではなかった。むしろその逆だ。おこがましくも思い上がっていると承知の上でだが、癒したかった。楽にしてやりたかったのだ。結果は考えるまでもなく、惨敗だが。
(……どうするか……)
 次にカイルがどんな行動に出るのか、予想はできない。もしかしたらゲオルグを避けるかもしれないし、表面上は何事もなく取り繕うかもしれない。どの道、事態が好転するはずがないことだけはわかっている。
 肺の奥から重い溜息を吐き出すと、ごろりと寝返りを打った。体のあちこちに鈍痛があるのは、それだけ無茶をされたということだろう。それだけ溜め込んでいたものがあったということだ。
 薄明かりの中、自分の体を見下ろせば、あちこちにカイルが食らい付いた痕が見えるはずだが、あえて見る気にはならない。
 名残を残した男が出て行ったドアを、じっと見つめる。カイルの痕跡などどこにも見当たらないのに、ゲオルグにはまだ見えている。
 泣き顔を見られたくなくて出て行く子供のような背中だった。
 手首の戒めや口を塞いでいたものを取り出す時の指が震えていたのは、おそらく気のせいではない。
 背に感じた水滴の感触は、もしかしたら涙だったかもしれない。そう思うと、自分にその資格がないことはわかっているが、抱きしめたかった。
 彼は自分を責める。
 そんなことはする必要などないのに。
 仰向くと、天井に手を伸ばして手首にくっきりとついた紐の痕を眺める。暴れていたら、こんな程度では済まなかった。それでも構わないと思う自分がいる。
 ゆっくりと両腕を左右に開きながら下ろす。左の指に、シーツとは違う感触が当たった。何かと思い、掴んで引き寄せて見れば、房の付いた細い紐だった。カイルの瞳と同じ、青色の。先程までゲオルグの両手の自由を奪っていた紐だ。解いたは良いが、置き忘れていったらしい。
 指に絡めたその紐を口許へ持って行き、壊れ物に触れるようにそっとくちびるを寄せた。
 すまない、と――言葉では言えないからせめてこの口付けが届けば良い。身勝手なことを考えながら、紐を握りしめた。
 どうか、こんな男のせいで泣かないでほしい。
 今まで決まった恋人を作ったことがない理由と同じ理由、だけではない。行雲流水である自分も理由のひとつではあるが、それを止めたとしてもこの国に留まることができない理由がゲオルグにはあった。いずれ白日の下に晒される理由だとしても、その時までか、戦いが終わるまでだ。永くを望まれても叶えてはやれない。
「……どこに行ったのか……」
 相部屋だというのに、出て行ったカイルが朝まで戻ることはないだろう。この先もどうなるかわからない。帰りの船でもきっと避けられる。
 だがこの紐があれば。少なくとも一度は話しかけることができる。返却を口実にできる。
 問題はタイミングだけだ。
 しかし何を話せば良いか――考えているうちに、深い眠りが背後まで近寄っていることに気付かなかった。目を閉じたら最後、あっという間に意識は暗い淵へと飲み込まれてしまった。
 遠くで、子供が泣いている声が聞こえた気がした。
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