離れた指先

 一度聞き逃してしまった言葉を聞き返すには、タイミングが重要だとカイルはしみじみ思っていた。
 あれから数ヶ月が経ち、カイルを取り巻く環境は激変した。その中心にいるのはカイル自身ではなく守りたいと思っている人たちなのだが、結果としては同じだ。彼らを守るために、カイルも渦中にいる。
 カイルや王子、サイアリーズやリオンの居る場所は太陽宮ではなく、セラス湖のほとり、シンダル族の遺した城だ。志はともかく王子と目的を同じくする者、支援してくれる者たちも徐々に増えている。その中には、太陽宮の脱出以降ゴドウィンにより国内に指名手配されているゲオルグも含まれている。
 もっともゲオルグは己の立場を知りすぎるがゆえに、表立って目立つ行動することはほとんどなく、裏で王子らのために各地を転々とし、情報を集めたり傭兵や募兵、志願兵をまとめていることが多いのだが。
(だから余計に訊きにくいんだ)
 今となっては遠い、もう数ヶ月も前の話だ。今更、でしかない。
 それにゲオルグの様子はあの時と同じく、普段とまったく変わりがなかった。蒸し返して微妙な距離になってしまうことも嫌だが、問いたい気持ちも同じくらいあるのに問えないのはそのせいもある。
 叫び出したい夜も何度かあった。
 気持ちに蓋をしてしまえば楽になれると思い実行しても、蓋を持ち上げて溢れそうになる。顔を見られるだけで嬉しいのに、それ以上の欲まで湧き上がる。
 出来るだけ悟られないようにと避けるのも、解決にはならない。根本的な解決から遠ざかっているとわかっていたが、他にどうすることも出来なかった。解決の仕方を知らなかったのだ。
 もっとも、カイル自身の意思では避けようもない事態もある。
 リムスレーアの戴冠式に出席する群島諸国の使者へ、ゴドウィン家には協力しないよう交渉するためにニルバ島へ赴く王子に付き従うメンバーに、ゲオルグと共にカイルも選ばれたことは、カイルにはどうしようもない。
 伝えられた時はどうしようかと思ったが、なんとか平静を保てたように思う。
 ニルバ島に行くことは問題ではない。問題は、間違いなく同行が決まっている、ゲオルグだ。他のメンバーを考えるに、彼と同室になる可能性は高い。
 冷静でいられる自信はなかった。
 メンバーから外して貰おうにも、王子直々の頼みとあっては断りにくい。こんな時ですら守るべき者に恰好を付けていたい自分自身に苦笑を禁じ得なかった。
 結局、うまい言い訳も考えつかないまま、旅立ちの日を迎えてしまったのだった。
 
 
 
 
 
 ふたりきりの部屋に気まずさを感じているのは、自分だけだろうか。それともゲオルグも感じているのだろうか。
 普段と変わりなく見えるゲオルグの気配を背後に感じながら、カイルは窓の外の夜景に気を取られている振りをした。夜景といっても、眼下は月と星に照らされた夜の海が広がるばかりだ。海は珍しかったが、今は堪能できるほど見られるわけではない。わかっていても見てしまうのは、他に見るべきものがないから。
 静寂はかすかに聞こえる波の音が埋めてくれていた。
 まるで玻璃の上に居るかのように、呼吸をするのにも気を遣ってしまう。そんなのはカイルだけなのだろうけれど。
(どうしてオレばっかり、こんな……)
 気を回しすぎて疲れてしまう。いや、気を回しているのではなく、怯えているだけか。
 ゲオルグが何かを言うことを懼れている。あの時のことに触れられることを懼れている。聞きたいと思っているのも確かなのに、その一言を言い出せないでいた。
 
 聞いてしまったのは弾みだ。
 
 だがやはり、聞かなければ良かった。後から悔いても遅いが、心底そう思う。
 幾つかの言葉の遣り取りをしただけで激昂して――我を忘れ、気が付いた時には髪紐でゲオルグの手を後ろ手に縛り上げ、組み敷いていた。
 制止の言葉は聞かなかった気がする。いや、言っていたのかもしれないが、カイルには聞こえなかった。
「……ゲオルグ殿が、悪いんですからね……ッ」
 こんなことがしたかったわけではない。
 こんな風にしたかったわけではない。
 ゲオルグのせいだと非難しながら、自分が一番悪いと自覚はしていた。今はそれを認めたくないだけだ。
「ゲオルグ殿……」
 腰のあたりから前へと手を伸ばし、ゲオルグの性器を擦り上げる。萎えていたものは手のひらで揉み込み、根本から擦り上げてしつこく弄るうち、徐々に熱を帯びて質量を増した。
 手のひらから伝わるその感覚に、口許に笑みが浮かぶ。背に覆い被さるようにして、耳へ囁く。
「……こういうの、感じるんですか」
 背筋がぴくりと震え、わずかに身動ぐ気配が伝わった。逃げようとしたのかどうかはわからないが、そのまま性器をまさぐる手を陰嚢や後孔へ繋がる皮膚の薄いところを撫でさする。時折震え、体をずらせば縛り上げた手の先に力が入っているのが見えた。
 膝を立たせて腰を上げさせ、柔らかみには欠ける尻をひと撫でし、割れ目を指先で辿れば、息を飲む気配がした。口には襷を突っ込んであるため、声はくぐもって何を言っているのかわからない。もしかしたら制止の言葉のひとつも寄越されたのかもしれないが、カイルにはわからない。
「へー……意外ですねー」
 笑いが含まれた自分の声を、どこか他人のもののように聞いた。
 こんなことをすれば嫌われることくらい、わかっている。それでも止められないのは、本当はそうしたかったからか。こんな願望が自分にあるとは、思いたくはない。
 否定したい気持ちとは裏腹に、自分の性器も熱を孕んできている。言い訳は出来そうにもない。
「ちゃんと、感じるんだ?……こんなことされてるのに、ね」
 先端がわずかに滲み始めた性器をきつく握りしめれば、控えめに腰が跳ねる。宥めるように手のひらに口付けた唇は、自分でも笑えるほど震えていた。
(……何、してるんだろ……オレ……)
 胸の奥から、欲望とは別の感情が込み上げてくる。それでも萎えない自分はどこかがおかしくなっているのかもしれない。
「力、抜いててくださいね? 怪我しても知りませんよー」
 口調はあくまで軽さを装った。唾液に塗れさせた指を、遠慮なく狭い後孔へ突き立てる。本数を増やし、三本の指が充分に動かせるようになった頃合いを見計らって、自身の性器を挿入する。
(なんで……、こんな……)
 背後からの挿入では、ゲオルグの表情を窺うことは出来ない。
 まだ少しきつい内壁に、歯を食いしばる。息を吐くと、ゲオルグの背に水滴が落ちた。汗かと思ったが、違う。後から後から、カイルの顔から広い背に水滴が零れた。
(こんなこと……したかったわけじゃ……っ)
 歯を食いしばらないと、嗚咽が漏れそうだった。
 初めてではないにしても、合意ではない。無理矢理でしかない。悔いても今更でしかないが。
 逃がさないように手首を拘束し、声を出させないように口には襷を突っ込んで、小心者の成れの果てがこれか。詰めた息を吐き出す唇は戦慄いた。
「ゲオルグ殿……、ゲオルグどの……っ」
 ここまできて、引き返せるはずもない。心中がどんなに惨めで唾棄すべき行為である自覚があっても、性器は萎えていない。
 顫える指先はゲオルグの肌を滑り、ぬるつきだした性器の先端を繰り返し弄る。そのたびにくぐもった、声にならない声が聞こえ、カイルのちっぽけな自尊心を安心させる。
 逞しい背に縋るように、額を擦り付けた。睫毛を伝って涙がまた零れる。背骨に口付けると、振り切るように手と腰の動きを早めた。
 嫌われたのはおそらく、確定だ。
 今までだって、本当に好かれていたかどうかなどわからない。あの一件以来、嫌われたかもしれないがそれも杳として知れない。
 だがこれは幾ら何でも確定だろう。
 息を吐き、鼻をすする。まだ溢れる涙は拭おうとは思わなかった。これは欺瞞だ。あるいは、ゲオルグに対する侮蔑か。問われると否定するのは難しい。
 そうではない。侮蔑されるべきは自分だし、欺瞞で彼に接していいはずがない。それを隠そうとするのも欺瞞で、哀しいほど愚かしい。
 だからどれだけゲオルグの内部を犯し、突き上げて、絶望的な澱に手足を捕らわれても、涙は拭えない。――拭わなかった。
 
 
 
 
 
 口に突っ込んでいた襷を外し、手首を戒めていた髪紐を解くと、ゲオルグは大きく呼吸を繰り返しベッドに沈む。自分の始末をつけて服を整え、上下を繰り返す肩や浮き出た肩胛骨、古傷が薄ら残る背を見下ろした。
 後悔は、すると思った。最初からあったその予感は見事に的中している。
 こんなことがしたかったわけではない。
 いっそ喚き散らしたいほど心が叫ぶのと同じ強さで、真逆に喜ぶ自分もいる。――やりたいことがやれて良かったじゃないか、と。
 最低だ。
 行動だけではなく、心までが。
 もう一度口の中で最低だと呟くと、ゲオルグに背を向けた。
「待て」
 呼び止める掠れた声に、意思に反して足が止まった。彼が何を言うのか、聞きたくないのに。それでも彼の声は好きだった。懼れても聞きたいと思うほど。
 ベッドが軋む音。おそらくこちらに向いている。
「おまえがしたかったのは、こんなことか」
「……動かないほうがいーですよ。中に出したから、漏れるんじゃないですか」
 肩を掴まれたと思った次の瞬間には、乾いた音。すぐに頬に鈍い痛み。ゲオルグの力を考えれば顎や頬のひとつやふたつ砕けてもおかしくはないはずだが、さすがにそこまでは力が入らなかったようだ。
 そうさせたのは自分だと思えば、暗い笑みが浮かぶ。
「さすがですねー、あれだけヤられて動けるなんて」
 普通足腰立たないんじゃないですか。あんたどれだけ頑丈ですか。無感動を装って言うと、今度こそ逃げるように部屋から出た。
 行く当てなどあるはずもない。とはいえ、宿の中にいては誰かに捕まるかもしれず、裏口と思われる木戸から外に出た。
 途中、誰にも会わなかったのは幸いだ。きっと酷い顔をしているに違いない。その理由を問われても、今はうまく誤魔化せる自信はなかった。
 狭い路地を見付けると入り込み、壁に背を預け、ずるずると座り込む。石畳や壁は夜気で昼間よりずっと冷えているが、頭まで冷やしてくれそうにはない。俯き、頭を抱え込む。
 乱れた髪が頬に掛かり、鬱陶しさに掻き上げる。いつも括っている髪紐を置いてきたことに気付いたが、取りに戻れるはずがない。
(気に入ってたんだけど、な……)
 見習いから正式な女王騎士へと就任した時、王子やリムスレーアから祝いに贈られた髪紐だった。お祝いだよと言われて渡されたのは、つい先日のことのように思える。瞳の色とも揃いで、気に入っていたのに。あんなことに使うために貰ったものではない。わかっているから爪が手のひらを傷付けるほど拳を握った。
「…………サイッテー……」
 溜息が漏れた。これからのことを思えば気が重くなる。それを承知していたはずで、この感傷は身勝手だとわかっている。
(……わかってる……)
 嫌われてしまっただろう。憎まれるかもしれない。ゲオルグの度量が大きいことは知っているが、あんな目に遭わされてまでカイルを赦す理由はないはずだ。
 今となっては「優しくしたかった」など言い訳だ。どの面を下げてそんなことが言えるのか。言ったところでゲオルグも困るに違いない。あるいは憤るか。
(それでも、いい……)
 その他大勢の仲間たちと同じ扱いをされるよりは、そのほうが良い。
 本当は優しくしたかった。
 強く抱きしめて、恋人にするような甘い口付けをかわし、普段とは違う表情で名を呼び合い、肌に触れて互いの熱を感じ合う。そんな当たり前のことを望んでいたのに、どうしてこうなってしまったのか。何を間違ったのか。
 嫌われても憎まれても、この先も彼を求めるのだろう。そうせずにはいられない、本能のように。だがそれは自虐に近い。そんなことで想いの深さを伝えられるはずがない。
 だが誰にも向けられたことのない嫌悪や憎しみを受けるほうが、無関心を内包した優しさを向けられるより、よほど良い。そんな感情を向けられるのは自分だけだと自惚れられる薄暗い悦びがある。
 いっそどこかに閉じ込めて、手足や首を繋いで、あの金の眼に映るのが自分だけにすることが出来れば、満足出来るだろうか。
 耳元で戯言を囁き、滅茶苦茶に犯してしまうことで伝えられる想いはあるだろうか。
 彼のほうからは逃げないだろうという確信はある。だから、というわけでもないが、機会は窺おうと思えばいくらでもあるだろう。――実行するかは別にして。
 想いが伝わり合うわけがないとはわかっている。
 だがこんな自分の醜さを、彼は知らなくて良い。
 知られたくはなかった。
 ――徐々に露呈してしまうとしても。
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