剣を振るうゲオルグは、いつも通りに見えた。
体のキレも魔物を両断する刀の軌跡も、武術指南の時と変わらず――いやそれ以上に鋭い。
率いている隊の兵士たちに向ける激励も、太陽宮に戻ってきてから女王や女王騎士長に報告をする神妙な顔も王子やリオンたちに向ける笑顔も、ぎこちないところや違和感など見受けられなかった。
勿論、カイルに向ける表情すら、一昨日と違いはない。
そのことに少なからず衝撃を受けている自分に気付き、カイルは少なからず落ち込んだ。
(……大したことないこと、だったのかなー……)
夕食をとった後、人気のない太陽宮の裏庭へと続く階段に座り込み、深い溜息を吐いた。ぼんやりと一昨日のことが思い出される。
きっかけがどうだったかはともかく、きっとあのことはゲオルグの中で、なかったことにされてしまったのだろう。それが普通だ。
ただでさえ女王騎士同士、毎日のように顔をつき合わせるのだ。余計な波風など立たぬほうが良い。下手にぎくしゃくとして周囲に勘繰られたり揶揄されるよりはよほど良い。
頭では、そう理解している。
けれど心では割り切れていない。
(もう少しこう……動揺とか、狼狽とか、あってもいーんじゃないのー……)
そう思うのは、自分が動揺も狼狽もしたから。
一昨日の朝、裸で抱き込んでいたのが柔らかな裸の女性ではなく、かたくていわゆるむさ苦しい部類に入るゲオルグだったことは、内臓が裏返るほど驚かされた。もっとも、これがゲオルグ以外の男なら、死にたくなっていたに違いない。
単に裸で眠っていただけなら問題はない。だが、どう考えてもそれ以上のことが行われた形跡が寝台にあった以上、致してしまったのだと思う外ない。
先に目が覚めたことを良いことに、逃げてしまおうかとも思った。だがわずかに身動いだだけでゲオルグは目を覚ましてしまう。
あの時の混乱は、見知らぬ女が隣で寝ていた時以上のものだ。
怒られたり怒鳴られたり斬られたりはしなかったものの、ゲオルグの反応は非常に淡泊だった。おはようと言うと身を起こし、言葉を発することも出来ないカイルを振り返ることもなく、さっさと身支度を済ませてしまう。その動きが緩慢で時折眉を顰めていたから、きっと体のどこかが痛んだのだろう。性交が行われたと確信した理由のひとつだ。
その様子や朝日の中で見るゲオルグの体に転々と見慣れた跡が付いているのを見、いたたまれなくなった。同時に、ゲオルグの淡泊な反応は前夜のことを覚えているにしても触れられたくないのだと思わされた。
あるいは――万にひとつの可能性だが――男同士の性交に慣れているのかもしれない。実際傭兵や戦場では珍しくないという話も聞く。ファレナに来る前にも多くの戦場を渡り歩いたゲオルグだ。可能性がまったくないとは言えないのではないか。そんな疑惑もカイルに小さく傷を付けた一因だ。どうしてそんな傷が付くのかまでは、考えたくもない。
自分と同じように思えなどと、傲慢甚だしい。さすがにそんなことまで望んではいない。
ただ、自分が受けた衝撃ほどの衝撃をゲオルグは感じていないのだという事実に打ちのめされる。多少なりと好意を抱かれていると自惚れていたから余計にだ。
(……まーフツー好かれてるって思っても、そーゆー意味とは思わないよねー)
そうだといいな、という淡い期待は打ち砕かれた。ああして平然としている以上、カイルが思うような好意をゲオルグに期待するのは間違っている。――ありえない。
最初からわかっていたことだったにせよ、改めて事実を突きつけられると、落ち込むしかなかった。笑顔を取り繕うことは慣れているが、当分は今までのように絡むのは控えようと心に誓う。
吐いた溜息は庭に落ちて消えた。
どんなに必要以上の接触を避けていても、避けられない事態というものはある。
中庭で膝を抱えてから数日後のある夜、夜勤当番はカイルとゲオルグだった。
夜食を厨房から持ってきたり見回りに出たりと、なるべく二人きりになるような状況を避けたものの、夜が白み始める前には避けきれなくなった。
日中なら扉一枚隔てた奥の部屋には敬愛すべき女王騎士長閣下が職務を果たしているはずだから、無理矢理にでも用件を作ってそこへ避難することも、あるいはさりげなく街へ巡回や視察だと口実を作って赴き、サボることも出来たが、ふたりきりという状況では必要もないのに長時間席を外していると怪しまれるだけだ。
(心臓に悪いんだけどなー)
逃亡を諦めて書類に目を通しながら、ゲオルグの様子を窺う。平静な顔の下で何を考えているのか、カイルにはまったくわからない。そんな気まずさを感じているのは自分だけなのかと思うと、情けなくなる。
女王騎士だと女性たちにちやほやされても、所詮はカイルも人間だ。ゲオルグやフェリドに比べ、まだまだ若造だという自覚もある。自覚があるからこそ、悩む自分が鬱陶しかった。
せめて前向きに、ゲオルグから嫌われなかっただけ、避けられていないだけマシだと思おうか。だがそれも彼が大人の配慮で他人にわかるようにカイルを避けていないだけで、本当は顔も見たくないほど嫌われているのかもしれない。
そんな人ではないと思いたいが、可能性を完全に否定は出来ず、胸が鉛を呑んだように重くなる。
八方塞がりだ。
頭を抱えて逃げ出したくもなる。出来ないとわかっているけれど。
「悩み事か」
「えっ」
思わず顔を上げた。まさかゲオルグのほうから話しかけられるとは思わなかった。不意打ちに心臓が早鐘を打つ。顔は熱いのに、指の先が冷たい。体が震えるかと思った。
書類に落とされていた金のひとつ眼が、カイルを真っ直ぐ見つめる。それだけで息が詰まった。
「溜息だ。ずいぶん大きかったからな」
「え……ええ、まあ……」
まさかあなたのことで悩んでいるんですとも言えず、言葉は自然、しどろもどろになる。
この胸を苦しめているのはあなたですと、正直に告げることができたならどんなにいいだろう。その理由まで告白することなど、カイルには到底無理なことだ。
胸の中で何度もそんな場面を思い描いたが、彼の反応は想像できなかった。どうして自分がそんなことばかり考えるのかも不可解といえば不可解だった。
「俺はいないほうがいいか」
「そんなことはないですよ」
「じゃあ、何だ。言いたいことがあるなら言うんだな」
「何で、そんなこと……」
いないほうが良いのは自分ではないのか。発しかけた言葉は、ゲオルグの怒気に凍り付いた。
「……おまえがそれを言うのか」
「えっ……」
逸らされた視線を追うようにゲオルグの顔を見る。
「……いや、いい。俺が勘違いをしただけだ」
何が――いや、何を。
ゲオルグが何を言おうとしているのかわからない。カイルの頭は混乱した。
彼の言いようでは、まるでカイルが彼を勘違いさせるような言動を取ったことになる。嫌われることならともかく、そんなことをした覚えはなかった。
「ゲオルグ殿、何の話ですか」
「忘れているならいい」
「良くないです。何を――、もしかして、あの時の……」
発しかけてぎくりと身を強張らせる。ゲオルグの眼勢がきつくカイルを射たからだ。
「……なかったことにしておきたいなら、言うな」
「そんな……ゲオルグ殿のほうが、」
忘れたいというなら、間違いなくゲオルグが上のはずだ。同僚の、それも年下の男に襲われたなど、普通に考えれば人生の汚点でしかない。
しかしゲオルグの怒気はますます膨れ上がる。
「女好きなおまえにとってのほうがよほど汚点だろうが。女と間違えて俺なんぞを押し倒すくらいなんだからな。――安心しろ、言い触らすつもりもない」
フェリドに揶揄されるのも業腹だと言い捨てるように言い放つゲオルグの顔を、カイルはただ見つめた。どうにかしたいのにどうにもできない。歯痒くて情けない。
ゲオルグが何を言いたいのか、探ろうとしても掴めない。
怒っているのは間違いない。その原因はどうやら自分だ。それも、先日の過ちが根底にある。
ふとゲオルグが笑んだ。口許は自嘲の形に歪められている。どうしてそんな笑い方をするのか。この男には似合わない。もっと穏やかに、あるいは不遜に見えるほど楽しげに笑っているべきだ。
そのまま席を立ち、扉のほうへ向かう。思わず名を呼んだ。声は掠れて無様を晒したが、呼び止めずにはいられない。そのまま帰ってこない気がした。ゲオルグは面倒臭そうに立ち止まると、振り向きもせずに「何だ」と寄越す。
「どこ、へ……」
「……見回りだ」
斬って捨てるような口調。とりつく島もない。なびく襷を掴んで引き留めることも出来ずに、カイルはその背を見送った。蟠りだけが胸の奥底に、澱のように溜まって淀む。
結局その後、引き継ぎの時間を過ぎてもゲオルグは戻らなかった。
そうしてその時のことに触れる機会は、太陽宮にいる時にはもう巡っては来なかった。