次の戦にはあなたも出て下さいねと軍師ににこやかに言われてから数日後、ゲオルグは軍議の間にいた。
敵の進軍予想が軍師から地図上に示され、次にこちらの部隊の対応、部隊の編成について言及、軍師への質疑応答や話し合いがあり、ようやく散会となる。赤月帝国で長時間の会議に慣れているとはいえ、たった数時間で体が鈍ったような気になる。
少し体を動かしたほうが良いかもしれない。今の所武術指南な申し入れは来ていないが、誰か――ベルクートあたりが適当か――を誘えば相手になってくれるだろう。
頭の中で午後のプランを立てていると、ぽんと肩を叩かれる。
「ゲオルグ殿ー、お時間ありますかー?」
ふざけた調子で後ろから声をかけてきたのはカイルだ。振り向くと、いつもの笑顔。
軍議の最中はともかく、戦を前にしても笑顔でいるカイルのことを、太陽宮にいた頃なら不謹慎だと怒る者もいたかもしれない。だがどんな戦の後でもいつもと同じように笑顔を作れるこの男を、強いとゲオルグは思っている。笑顔に救われる者も多いだろう。
「お願いがあるんですけど、良いですかー?」
「何だ?」
「午後、もしゲオルグ殿の手が空いてたら、指南をお願いしたいなーって思って」
渡りに船とはこのことか。無論、ゲオルグに否はない。ふたつ返事で了承する。
「珍しいな、おまえがこういう時に指南を請うとは」
「それは、ゲオルグ殿があまりここにいらっしゃらないからですよー」
そう言われればそうか。思わず黙ったゲオルグに、カイルは笑いかけた。
「仕事だから仕方ないですよねー。……オレちょっと今回気合い入ってますんで」
「何かあったのか」
「ランちゃんがね、この前王子たちと外出した時に、脚を怪我しちゃって。軍議始まる前にお見舞い行ってきたんですけど、今回の戦には参加出来ないって悔しそうで。ついついランちゃんの分も頑張るよーって言っちゃったんですよねー」
肩を竦めて見せるカイルは、どこか楽しげだ。戦が起こると確実になったせいで、気分が昂揚しているのかもしれない。昂揚するくらいなら怖じ気づかれるよりよほど良い。
「次は、あんまり皆、怪我しないといいなー」
並んで歩くカイルが溜息を吐く。表情がころころと変わって、まったく忙しない男だ。
「おまえも引っ張りだこになるからか」
「女の子の怪我を治すためならいくらでも頑張っちゃいますけどね。……じゃなくて、怪我なんてしないに越したことはないじゃないですか」
「それは確かに」
戦の最中に怪我を負えば、その分動きが鈍くなる。下手をすれば命の危険に晒されることもあるだろう。味方も怪我人を庇おうと動くかもしれず、周囲の人間の負担になることもある。だから怪我などしないほうが良い。
言うと、カイルは微妙な顔をした。
「オレが言いたかったのはそういうことじゃなかったんですけどね……まあいいや」
「? なんだ?」
「なんでもありませーん。ゲオルグ殿、腹が減っては戦が出来ぬと言うじゃないですか。先にお昼食べちゃいましょー」
カイルは小さく肩を竦めると、ゲオルグの先に立って食堂へと向かう。その背中を眺めながら、カイルが言った言葉の意味を考えた。だがいくら考えても納得のいくような答えは出ず、時間が経ってしまうとカイルに訊くのも難しくなり、結局、この後もしばらく何とはなしにゲオルグの胸の中で蟠っていた。
ゲオルグがカイルの言葉の意味を知るのは、もっと後のことになる。
ゲオルグは遊撃隊としてルクレツィアの命を受け、通常の部隊より身軽に動けるように兵の数は少ない。他部隊の支援が中心となるため、それで構わないとゲオルグもルクレティアも考えていた。身軽に動けなければ意味がないのだ。
人数が少ない分、敵に発見され攻撃を受ければ被害は大きくなる。ゲオルグの部隊は戦いなれた傭兵、あるいは実力など、一般の兵たちより戦に慣れた者ばかりで編成されているため、人数の少なさはカバー出来、いざとなれば各人の咄嗟の判断に任せられるようになっていた。
もとよりゲオルグには貴重な戦力を無駄に消費させる意思はない。どれだけの敵を撃破出来たかも重要ではあるが、後々のこと――例えば次の戦――を考えれば、預かった部隊の生還率も重要だ。敵を壊滅させても、自軍にも深刻な打撃を受けては意味がない。
伏兵に気付いたのは偶然だった。
ゲオルグの部隊の中の目が利く者が、たまたま敵兵の姿を高台から見付けたのだ。
(まずいな)
敵兵が姿を隠していたのは戦場の中では南、茂みと木立が密集している一帯だ。戦闘が始まる前、ルクレティアから戦場の情報を告げられた時にはいなかった。その後に移動して来た伏兵なのだろう。ゲオルグたち同様、人数は一隊にしては少ない。だが嫌な感じがした。
(……紋章兵か……)
弓を持つ者たちに混じって、杖らしきものを持った兵がいることに気付いた。何の紋章を使うのかはわからないが、出来れば対峙したくない――ゲオルグの苦手な敵だった。
数刻もしないうちに、味方が伏兵がいるあたりを通る。糧秣部隊を襲撃されれば軍の士気が下がることは経験上知っている。今回の戦いが数日に及ぶかどうかはわからないが、なんとしても避けておきたい。
周囲を見遥かす。糧秣部隊を率いているのはシンロウだが、彼に連絡が行くのはもう少し先で、軍師から具体的な指示が飛ぶのはさらに先だろう。すでに両者には伝令を向かわせたとはいえ、時間は稼いだほうが良い。――そのための遊撃隊だ。
装備を確認すると、指示を待っている仲間を振り返った。
その知らせが王子や王子の部隊の近くにいたカイルに届いたのは、そろそろゴドウィン方から撤退の合図が上がろうとしていた頃だった。
王子の部隊の傍にはいつも、護衛の代わりあるいはルクレティアの急な策に応じられるように一隊が付き従っているのが慣例で、この時はカイルが率いる歩兵部隊だった。
「ご報告します! ゲオルグ隊、敵紋章兵隊と南の森にて遭遇、応戦開始! 現在のところ、部隊の損害は軽微! 引き続き応戦するとのこと!」
「なっ……」
応戦だと?
いや、それはわかる。敵と遭遇した途端に退くことは容易ではない。出来れば遭遇前に部隊特性上、手な部隊との交戦は避けたいが、いつもそう出来るとは限らない。
ともあれ、退く意思がないとはどういうことか。考えられるのは命令であるということと、ゲオルグ自身の決定であることか。
「……王子やルクレティア殿は、なんて?」
「ゲオルグ殿の采配に一任するが、被害が大きくならないよう撤退の準備を整えつつ、ベルクート隊と交代せよとのことです」
「…………」
戦が始まる前、ルクレティアが描いた部隊の展開図を頭の中で描く。ベルクート隊はゲオルグの隊から一番近いといっても、だいぶ離れた位置にいるはずだった。もっともゲオルグはこの戦では遊撃隊を任されていて、どう動いていたのか把握するのは難しい。
南の森は糧秣隊の進路でもある。知らずに進軍していれば隊としての体裁は整えているとはいえ、大打撃を受けたに違いない。長期戦になる見通しならなおさらだ(もっとも軍師は特に考えがある以外では長期戦を好まないため、ゴドウィンとの1回の戦闘について長期化することは稀なのだが)。だから発見できたことは僥倖といえる。
わかってはいる。
頭でそれを理解はしているのだ。伝令が伝えた情報以上のことがその場で起こったのかもしれず、だとすればカイルには推し量れない。戦場経験の豊富な男の考えることだ、結果を考えれば迎撃するほうが良いと考えたのだろう。
しかしそれを納得出来るかといえば、別の話だ。
戦場経験が豊富な男が今対峙している敵は、彼のもっとも苦手とする紋章攻撃の部隊だ。どれほど苦手としているか、過去に彼が負傷した時を見ているから知っている。下手をすれば、命に係わる。
(ゲオルグ殿……!)
任された部隊を置いて、いや連れていったとしても、勝手な行動をとるわけにはいかない。そのために軍全体が不利益を被る可能性もあるし、軍律違反はたとえ王子の側近であるカイルであっても罰される。感情で動くことは許されない。
カイルは拳を握った。少し伸びた爪が掌に食い込む。痛みがあるほうが、感情の爆発を抑えられそうな気がした。
伝令を労い、下げるとゲオルグがいるであろう森のほうをきつい眼差しで見つめた。
この心配はきっと杞憂に終わる。だから大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、無理矢理に視線を引き剥がした。
昼過ぎから始まった戦闘は夕刻前には終結した。
慌てたように退却していくゴドウィン軍を深く追撃することはせず、ルクレティアの指示で全軍が速やかに隊をまとめ、集合した。セラス湖のほとりの城まで戻るには時間がかかりすぎるため、やむを得ず野営を張る。
野営の道具は準備があった。シンロウの部隊が無事だったため、糧秣もすべて無事に揃ってある。――ゲオルグのおかげだ。その当人はまだ、救援に向かったベルクートとともに姿を見せていない。
宿営地にほど近い場所に待機していたせいもあり、カイルは集まってくる仲間たちを労い、時には回復に回った。死傷者がいくらか出たことは痛ましいが、幸いにして動けなくなるほどの怪我を負った仲間はおらず、魔法も何とかもってくれた。
その間も、視線は忙しなく周囲を見回す。伝令からの報告を聞いてからずっと気になっている人の姿が、まだ見えない。もう夕食を摂っている者も多い。救援に回ったというベルクート隊の姿も同様になかった。
ゲオルグ隊とベルクート隊が帰還したと報せが入ったのは、割り当てられたテントで食事を摂った後だ。
「ゲオルグ隊、ベルクート隊、帰還!」
報告を聞くなり矢も盾もたまらず、すぐにテントを飛び出した。先に王子やルクレティアに報告をしているに違いないが、大人しく待つことなど出来なかったのだ。
到着したばかりの2隊の様子を先に見に行く。すでに医者や救護班が、地に座り込む彼らの中を忙しなく動き回っていた。
一目見て、どの部隊より疲弊しているのがわかる。その割に2隊とも死者の数は少ないようで、そこはほっとした。死者が出ること自体は悲しむべきことだが、今はその数が少なかったことを慰めにするしかない。
「そこの女王騎士、ぼーっとしているだけなら邪魔だ」
医者の声で我に返る。そう、ただ見に来ただけではない。
「オレも手伝います!」
魔力は温存しておきたいところだが、座り込んで動けずにいる者、己も怪我をしているのにさらに重傷の者を担いでいる者たちを見れば、そうも言っていられない。
他に水の紋章を宿していたキサラやエルンスト、コルネリオたちと協力して重傷の者を優先的に魔法で癒すと、手当に回る。湯で血や泥に塗れた体を拭い、労をねぎらう。その間に交戦した時の様子を訊くのも忘れなかった。
無謀と紙一重の戦いだったらしい。元々は時間稼ぎだったというが、敵側も支援の部隊が到着してしまったため、本格的な戦いに移行してしまったという。
ゲオルグも自ら魔法使い、詠唱者へ突っ込んで行ったという。呪文の的になることも厭わず斬りかかり、大半は詠唱が終わる前に斬り伏せたらしいが、それにしても自殺行為に近い。
ゲオルグの性格からいっても、隊の者たちを盾にしたり逃げ回るような男ではないから、そうするより他に選択肢がないのもわかる。だが仲間を庇いながらとはいえ炎の壁を剣圧で斬り飛ばし進路を作りながら敵隊に突っ込んだり、火炎の矢を剣で防ぎながら戦うにも限度がある。無傷でいられるわけがない。
それなのに時にはベルクート隊の者をも支援しながら剣を振るったというのだ。おそらく、火傷を負いながら。
わかっている。
戦場だからだ。
だが、割り切れぬものを感じた。
ゲオルグとベルクートが姿を見せたのは、何人かの話を総合して交戦の概要がわかった時だ。
カイルがいたことに気付かなかったわけはないだろうが、まずはそれぞれの隊の者たちを労って回る。やがて遅れて到着した彼らのための食事が行き渡り、一息ついた空気が流れた頃、カイルはようやくゲオルグとベルクートの傍へ寄った。その時にはいつもの笑顔も浮かべていられた。
「おふたりとも、心配しましたよー」
「すまんな」
「少々迂回してこちらに来たので、遅れてしまったようです」
「怪我はありませんかー? 一応他の人たちの手当は、一通り済ませちゃいましたけど」
一瞬だけふたりが目配せしあったのをカイルは見逃さなかった。何かある。
口を開いたのはベルクートが先だ。だが何かを言うより早く、マリノが彼の姿を見付け、駆け寄ってくる。そうしていつものようにやや大仰な遣り取りをした後で、少し強引にベルクートを連れていってしまった。
残されると、ほんのわずか気まずい空気が流れる。沈黙を破ったのはゲオルグだ。
「話があるんだろうが、先に食事をとりたい」
「じゃあ、オレのテントでどうぞ。近いですから」
「ああ、すまん」
配給係から食事を受け取りながら、テントへ戻る。広くはないテントだが、せいぜい一晩のことだ。
干した魚、根菜がいくらか入ったスープ、少し冷めた白米。
それらはゲオルグとベルクートが守ったものだ。食事をするゲオルグを眺めながら、先程複雑な気持ちになったことを思い出した。
「……それで?」
食事を終えたゲオルグがカイルを見上げる。食器は脇に避けられ、話を聞く姿勢を見せてくれた。
「…………服、脱いで下さい」
「戦の最中だぞ」
ごく軽い調子で、肩を竦めながら返された。隠した苛立ちが増す。
「オレがそういう意味で言ってないって、わかってるでしょう」
苛々としたのが伝わったのか、ゲオルグは真摯な視線を寄越した。
「必要な治療はしてある」
「応急処置より軽いでしょう。ちゃんと見せて下さい。傷口が膿んだらどうするんですか」
「必要ない」
とりつく島もないほどきっぱり言い切られると、途端に頭に血が上った。
何を言っているのだ、この男は。
感情に任せ、ゲオルグの胸倉を掴む。
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと傷口を見せて下さい」
「俺が大丈夫だと言ってるんだ。過剰な手当は必要ない。物資が無駄になる」
この男は何を言っているのか。
ゲオルグの言葉、態度はカイルの抑えていた感情に火を注ぐ。わざとではないかと思うほど、逆撫でされる。
気が付いたら体が動いていた。
「あんた、死にたいのか!」
渇いた高い音。激昂のまま、ゲオルグの頬を殴っていた。
ゲオルグは殴られたまま、目を伏せている。
全身が心臓になったかと思うほど明確に鼓動の音が聞こえる。頭と、殴った拳が熱い。
「……気は済んだか」
「そういう話じゃ、」
「戻る」
カイルの言葉を断ち切るように短く言い、テントを出て行ってしまう。カイルが止める暇もなかった。
「くそっ……!」
地面に拳を打ち付ける。憤りのためか、怒りは感じなかった。
何故わからないのか。
仕方なかったとはいえ、紋章兵に自ら突っ込んだというだけでも万一のことを考えれば不安だったというのに。
無謀を犯して命を危険に晒し、揚句に負傷など――案じないとでも思っているのか。
それとも自分は死なないとでも思っているのか。だとすれば、とんでもない自惚れではないか。戦場を数多く潜り抜けてきたくせに、そんなこともわからないのか。それとも、潜り抜けてきたからこそなのか。
あんなに平然とされては、身を案じたことが馬鹿馬鹿しく思えてしまうではないか。
(ゲオルグ殿も、同じ目に遭ってみればわかる……のかな……)
深い溜息が漏れた。その可能性がないとは言わないが、低いような気がする。だから余計に腹立たしいのだが。
考えてみれば、ゲオルグは誰が負傷してもいつも落ち着いていた。あれはまさか、関心がないからなのだろうか。負傷した人間のことなど、どうでもいいと思っているからなのか。
(いや、)
違う。
ゲオルグが仲間を大切に思っているのは、彼に与えられた役目、今までの戦場での様子からしても明らかではないか。
とすれば、自分のことについて無頓着過ぎるのだろう。――実際は違うかもしれないが、カイルにはそうとしか思えない。こんなに彼の身を案じている者がいるというのに、どうしてあんな態度がとれるのか。
苛立ちを無理矢理抑えると、振り返る。とっくにゲオルグの姿など見えないが、もしその場にいれば何かを言いたかった。
(もし、オレがゲオルグ殿の立場だったとしても、ゲオルグ殿は……)
カイルと同じようには、案じてくれない。
そう思うと堪らない。同時に、苦笑が漏れた。
たったひとりの、それも男を相手に、なんと滑稽なことか。ゲオルグがこういった感情を露にしてくれないせいもあるが、これではまるでひとり相撲ではないか。
溜息を吐いてその場にしゃがみ込む。彼も一度同じ目に遭えば良い。
そんな呪いめいた毒が効いたのかどうかはわからないが、一ヶ月後にはカイルが負傷した。
ゲオルグが久々にセラス湖のほとりの城へ戻った時、城内の空気は重かった。
重苦しく立ち込めた灰色の雲のせいかと思ったが、どうやらそうではない。ゲオルグの姿に気付いたレレイが教えてくれた。
今日――それも先程、カイルが魔物との戦いで重傷を負ったのだと。
どうやら王子やリオンが別の仲間たちと出掛けている間に城の近辺で魔物が出現し、兵士たちと退治に出掛けたそうだが、その時に負ったらしい。
「だが、このあたりの魔物は……」
「そうなんですが、このあたりの魔物に混じって、たまたまセーブルのほうでしか出現しないような魔物がいたそうです。魔物の死骸を、ダイン殿が確認して下さいました」
セーブルあたりでしか出現しない魔物。ダインが確認したのなら間違いないだろう。たしかに戦い慣れていない者には強敵に違いない。ドラゴンゾンビあたりなら、ゲオルグでも手間取る。
それはいいとして、単純な疑問が残る。
何故、セーブル周辺に生息する魔物が、このあたりに出現したのか。
「……勝手に流れて来たにしては、距離がありすぎるな……」
魔物にも縄張りはあるものだ。普段ならばそれを侵すような真似はない。内乱前から魔物の動きは活発になっていたというが、これもそのひとつなのかどうか。
レレイはゲオルグの言葉に頷いた。
「ええ。兵士たちの調練の一環で魔物退治も含まれていますから、そんなに手強い魔物ではありません。もしかしたらアーメス軍かゴドウィンのしたことかもしれませんが、ルクレティア様は何もおっしゃいませんでした。確証がない以上、偶然と思うより他にありません」
それに不運はもうひとつあったのだという。
「戦いに不慣れな若い兵士たちがいたのですが、カイル殿はどうもその兵士を庇ったようです。今はちょっと錯乱気味で手が付けられないので、シルヴァ先生が鎮静剤を投与して眠らせてありますが」
「そうか」
「今カイル殿は医務室で安静にしていらっしゃいます」
素っ気なく礼を言うと、足早に城内へ入った。
まずはルクレティアに報告。王子はまだ外出中だから、彼への報告は彼が帰ってからで良い。報告が終われば、湯を浴びる。次にルクレティアから言い渡される内容によってはすぐに発たなければならない。その間に時間があれば道具屋に寄って、少なくなったおくすりの補充をする。チーズケーキの補充もしておきたい。
医務室に寄るのはそれらが済んでなお、時間があったらだ。
己に言い聞かせるように行動を決めると、ルクレティアの部屋をノックした。動揺しているとは、認めたくはなかった。
枕許に立ち尽くして見下ろしたカイルの顔は、部屋が暗いせいかいっそう色が悪い。
シーツをめくれば、腹を中心に包帯がきっちり巻かれていた。換えたばかりなのだろう、真新しい包帯は白く清潔そうで、怪我を負っているとはにわかに信じがたい。
ゲオルグが医務室を訪れたのは、道具屋で一通りの補充を済ませ、仲間たちに請われて武術指南をし、食事や入浴を済ませた後だ。たまたま次の指令に就くまで丸一日の猶予があった。だからだ。
シルヴァは休み、今はムラートが宿直にあたっている。容態が急変した時に対応するためだというが、そこまで重傷だったのかと驚いた。
医師の言葉を裏付けるように、カイルの顔色は青冷めている。――いや、日の光の下で見たなら、土気色だったかもしれない。口元から頬のあたりを覆ったガーゼも痛々しい。
傷口は見ていないが、見た者によれば魔物の爪に刔られ、炎の攻撃も喰らったためにケロイド状になっており、酷い有様だという。すぐに回復アイテムやカイル自身が魔法を使って治癒したものの、傷口が完全に塞がるには至らなかったらしい。
ただ眠っているだけに見える。
素手の指先で、そっと頬にかかっていた髪を払ってやる。そして慌てたように手を引いた。ほんのわずか触れた肌から伝わった体温が、ひどく冷たいと思ったからだ。
まるで生きていないような。
(……馬鹿馬鹿しい)
今は生きている。生きているのだ。
鼻のあたりに手を翳し、弱々しい吐息を確認した。間違いなく生きている。
実感が湧かない。
これは夢ではないかと思うほど、現実味が感じられない。
ひどく静かなせいか。
薄暗いせいか。
……片目で見ているせいか。
シーツの上に力無く投げ出された腕、手のひらを、ごく薄い硝子に触れるように触れた。壊れはしないが、やはりひんやりしている。
内臓が冷えるような感覚。
誤魔化すために息を吐いたが、それすら震えた。
(大丈夫……大丈夫だ)
念じているのか、祈っているのか、そう思いたいだけなのか。触れていないほうの拳を強く握る。何かが込み上げてきそうで、くちびるをきつく噛み締めた。白い手のひらを、仇を睨むように見つめる。
ふと、その手のひらがわずかに動いた気がした。
「……んて、かお……してる、ですか……」
はっと顔を上げた。
力のない顔――だが、しっかりとその目はゲオルグを見つめている。普段より輝きの薄い、だが晴れた空と同じ色の瞳。
咄嗟に言葉が出なかった。
「ゲオルグ、どの……?」
掠れた声が痛々しい。緩慢に伸ばそうとする手に気付き、慌てて屈んで顔を覗き込む。
「動くな」
発した声は舌がもつれて不明瞭になる。幸い、そこは気にされなかった。
「だ、って……血、が」
何のことかと首を傾げると、顔へ手を伸ばされた。くちびるに冷えた指先が触れる。
「切れ、て……」
カイルの指を掴み、その先を見れば、赤黒く染まっている。先程噛み締めた時に切れてしまったのだろうか。感覚はなかった。
掴む手に力を籠める。少しでも体温が分けられたら良い。
「……痛くはない」
「また……そゆこと……」
眉間に皺が寄る。頬の傷に障ったか、それとも腹か。指の血を舐め取ると、ベッドへそっと置いた。
「喋るな」
「あんたが、変なこと言うから……」
カイルが息を大きく吐けば、部屋の澱んだ空気が動いた気がする。床に跪き、額にはり付いた髪をそっと払う。
間近で、観察するようにまじまじと顔を見つめた。辛そうにしているのは当然だ。重傷人なのだから。
はたと、医者を呼ぶべきだと気付いた。ムラートは別の部屋で、他の怪我人を看ているはずだった。まだ起きているかもしれないし、そうでなくとも昏睡していた患者が目を覚ましたのだから医者に知らせるべきだろう。
「待ってろ、医者を呼んでくる」
「あ……待って、ください」
言葉で引き留められ、浮かしかけた腰を戻す。
「どうした」
「……ちょっとは……オレの気持ち、わかりました……?」
虚を突かれた。
何の話かと思ったが、ふと思い出す。あの時の戦争だと。
こんな時に何を言うのか。
いや、こんな時だからこそか。
よほど根に持たれていたらしい。――この男らしいと言うか。苦笑めいた笑みが浮かびかけた。
見上げる双眸はあくまで真剣だ。誤魔化そうと思ったが、それはあの時のカイルと、この眼に失礼だろう。
深くから息を吐く。
まったく同じではない、だろう。だが――
「……ああ。わかった」
小さく頷くと、カイルは意を得たりとばかりに笑みを浮かべた。頭をひと撫ですると、医者を呼びにカイルの傍を離れる。
あの時カイルが本当は何に怒っていたのか、ゲオルグには正しくわからない。多少の無茶はしたと思うが、死ぬような、あるいは動けなくなるような怪我は負わなかった。
だが、彼がああ言う限りには、きっとこの部屋に入った時の自分と同じような気持ちを味わわせてしまったのだろう。全身が冷えるような、あの感覚を。
これからもそういう気持ちにさせない、という保証は出来ない。
だがせめてあの青い眼のひかりが自分の知らぬところで失われなければ良いと、身勝手だとわかっているから言葉にはせず心の中でひっそりと願った。