ファレナを旅立って数年、カイルはある国の幕舎の中にいた。
ごたついた国はどこにもあるもので、気を付けて情報収集をしていればキナ臭い話はいくらでも舞い込んできた。だからこそ、傭兵の食いぶちがあるのだろう。この国は近年になって悪化した臨国との関係が燻り続けて小競り合いが続いていたが、ここにきてようやく大規模な戦争に発展しつつあった。
そんな時にやってくれば、傭兵や志願兵のクチはいくらでもある。ただし――兵役について初めてわかる国内事情というのも多かった。
いくつかの小競り合いを経て、カイルは小隊を指揮する立場にあった。ファレナでも、あの内乱の折には一隊を率いたこともある。それを思えば決して早い出世だとは思わないが、どこの国にも他人の出世を羨む者、足を引っ張る者はいるものだ。
そんなことをしている暇があれば兵法書でも読むなり剣の腕を磨くなりすればいいのに、他人を羨む者の多くはそうしない。内乱が起こる前のファレナの貴族たちによく似ている。自分のことが一番大事で、己の益になることと他人の不利益になること、スキャンダルにばかり関心が集まっている。
(もー、ホント失敗したなー……やっぱり情報収集はうまくやんなきゃダメだー)
どこに誰の耳があるともしれず、心の中でごちた。
カイルに宛てがわれた部屋は広くはない。だが色とりどりの花々が咲いた庭が、昼なら窓から見える。戦時中に暢気なものだと思わないでもないが、こういった安らぎは必要だ。
ごろりと狭い寝台に転がると、無理矢理目を閉じた。明日は早朝から遠征しなければならない。先見隊、というより伏兵を命じられたカイルは他の隊より出発が早い。途中までは馬を使えるが、二日分の道程は徒歩だ。眠らなければ体がもたない。
思えば思うほど、目が冴える。
(どこにいるんだろ……)
ファレナを出て以来、探していたというわけではない。だが戦場にいる時、傭兵としての仕事を請け負っている時、どうしても彼の人のことが思い出された。
顔の左側の大半を覆う眼帯、短い艶やかな黒髪、不敵な笑みを刻んだ口元。どれも忘れず、目を閉じれば思い描ける。そんなことが気になり始めたのは、かの人がファレナを去ってからで。それがどういう意味を持つのかなど、気付いたのは最近だ。
一度だけなら、酒の上での過ちがあった。
だが互いに過ちだとわかっていたし、戦時中とあっては己のことより大将である王子を支えることで頭がいっぱいだったから深くは考えなかった。余計なことに気を取られている暇はなかったのだ。だからソルファレナを離れて以降、心に余裕ができたということなのだろう。
戸惑わなかったといえば嘘になるし、多少なりと葛藤もあったが、心を偽り続けるのは面倒だ。とはいえ本当に彼への気持ちが恋情なのかどうかも確信が持てない。次に会った時にはわかるだろうか。
世界は広い。
一度道を別にした人と再会できる可能性はどれほどか。おそらくとんでもない確率で、まず会うことはないのだろう。加えて己の運があまり良くないこともわかっている。探すつもりで噂話は色々と仕入れているが、まだまだ雲を掴むような話だ。
(……会えたらいいのに)
溜息を吐くと、今度こそ眠るために寝返りを打った。
こちら側からは手を出す必要はないと命令を受けてゲオルグがその街に駐屯し、数日が過ぎた。半ば成り行きで戦争に参加することにはなったが、いまいち気が進まないのはこの戦いの先にあるものが見えないからか。
あるいは、上に立つ人間のせいなのかもしれないが。
(あいつのほうがよほどしっかりしていたな)
数年前に別れたきりの親友の息子を思い出す。戦いの中、あの少年がどれほど成長したか、見守っていたゲオルグは知っている。
彼のことを思えば、この戦争は真剣味に欠ける。いや、真剣なのだろうが、利権が絡んだ戦争は嫌なものだ。巻き込まれる民は不幸だとしか言いようがない。
戦争に巻き込まれはしたものの、まだ日は浅い。だからといってすぐに逃げ出すわけにもいかず、次の戦闘が終われば去就を考えようかと考えを巡らせた。
そんなことを考えてしまうのも、この国に未練や執着、心を許せるような友や仲間がいないからだろう。
いたところで、気ままな己の性情が直るとも思えないが。
街にいる間の根城として宛てがわれた小さな砦から街を見下ろす。数日の間に、街は少し雰囲気が変わったようだ。流れて来た人間の中に、胡散臭い者が混ざっているのかもしれない。高い壁で囲まれて東西にある門には常に門兵がいる。戦いが始まれば分厚い門を閉ざすだけで敵の侵入を防げると領主は高を括っているようだが、万全ではない。
仮に今往来している人間の中に敵方の人間がいたとしたら、閉ざした門を開くことすら容易い。東西の門どちらにも敵が張っている場合、挟撃されればこの街はいくらも持たずに陥落するだろう。
とはいえ、街に流入・流出する人間の警戒をこのあたり一帯を指揮する領主、将軍に強く求めても、聞き入れられない可能性のほうが高い。
(……言うだけ言っておくか)
余計なことを言うなと煙たがれることはわかっているが、進言したという既成事実を作っておくに越したことはない。気位ばかり高い貴族の相手は面倒だとばかりに溜息を吐くと、通りの一角に目が行った。
(……いかんな)
時折出てしまう癖だ。長い金髪を見ると、自然と目で追ってしまう。それが青年ならなおさらだった。
(未練がましい)
深い溜息を吐いた。
別れを悔やんではいないが、いつまでも胸に引っ掛かっている。だからこれを未練と言うのだろう。あたかも抜けない棘のように、彼を思い出させるようなことに遭遇した時に、ちくちくとゲオルグの胸を痛ませた。
今まで執着や未練といった感情とは無縁でいたから、どうしていいかわからなくなる。そのたびに己が道に迷った子供のように思え、恥ずかしくなった。
(今頃どこで何をしているか……)
ファレナを出たらしい、とは風の噂で聞いた。だがその後の動向については、さっぱり途絶えている。
未練だなともう一度自嘲すると、報告書を書くために紙の束を取り出した。
街に潜伏して十日、作戦の決行まであと一夜。
日中は目立たぬように、しかし信憑性の高い噂話等の情報を仕入れながら過ごす。旅商人とその用心棒であると身分を偽っている以上、目立ちすぎる行動は避けるべきだった。カイルにしては珍しく、女性に声をかけることも控えている。
夜になり本隊からの連絡がもたらされると、隊の仲間たちはそれぞれ割り振られた持ち場へと散る。この戦いで必要なのは犠牲ではない。おそらくパニックになるであろう人々を、なるべく安全・速やかに逃がしてやる必要があった。
(ドラートの時を思い出すなー……)
あの時は事前に軍師による風説の流布という仕込があったがために民衆が自発的に門を開いてくれたのだが、今夜は違う。混乱に乗じて開いてしまうのだ。
民衆への被害は少ないほうがいいに決まっている。
「隊長……」
もたれていた壁から体を浮かす。興奮を押し隠した仲間の声音に、刻が来たことを知る。
「じゃ皆、うまいことやってねー」
「はっ」
短く返された後、すぐに解散する。同じ連絡は、別の場所に待機している仲間たちにも伝わっているだろう。
(あれこれ考えちゃダメだ)
腰に差した刀の重さを確かめるように柄をひと撫ですると、カイルもすぐにその場を離れた。
鬨の声が上がったのは深更、月もだいぶ西へと傾いた頃だった。
ゲオルグは仲間の狼狽した声を聞く前に目を覚ましていた。手早く装備を調え、枕元の太刀を手にした時にようやく現状の報告が来る。
「敵は既に数キロのところまで来ております!」
「怠惰な見張りをまずクビにするべきだな。敵は馬か? 街の混乱は?」
「馬のようです。街のほうは今のところは、まだ……砦壁がありますので」
「砦壁か……」
あまりそれを当てにすることはできない。言えば、悲観的過ぎると非難されるかもしれないが。
「……門の周囲に兵を集めておけ。どのみち、そこ以外から侵入する道はないからな」
「は」
「街中の動きでおかしなところがあれば報告を。些細なことでも構わんと伝達してくれ」
「了解しました!」
慌ただしく飛び出した仲間の後を追うようにゲオルグも部屋を出た。
砦の者たちの支度が予想より早かったのは、ゲオルグと同じ傭兵出身の者が多かったからかもしれない。
短く指示を飛ばすと、己も持ち場へと急ぐ。
その途中、足を止めた。
(あれは――)
至る所に焚かれた篝火の中、彼の姿を捉えた。数秒だとしても、今度こそ見間違えるはずがない。
「隊長!」
仲間の声に現実へと引き戻される。そう、呆けている場合ではなかった。
「……行くぞ」
何故こんなところに。
何をしているのか。
訊きたいことは後から後から湧いて来る。
今夜が無事に過ぎたら、なんとしてでも探し出してやろう。
心に決めると足早に西門へと急いだ。
街中での戦闘はやはり、まったくの犠牲を出さずには終わらなかった。それでも出来る限り逃げる者たちを庇いながら、街の外へと導いた。
夜明けまで続いた混乱がようやく収束した時、カイルの前にはゲオルグがいた。タイミングが良すぎることに、しばし呆然とする。誰かに声をかけられる前に我にかえると慌てて落ち着いて話せる場所を探した。
幕舎の中はまずい。敵陣にいたゲオルグの姿を誰が覚えているかわからない。とっさにそう判断して人目のない場所を選べば、街の片隅の細い路地の奥まったところになる。
改めて向き合うと、様々な想いが去来した。
「こんなところで会うとはな」
「オレも……こんなところで会えるとは思いませんでした」
混乱の中で見えた姿、戦いの後の呼び出し。こうして互いを目の前にしても、にわかには再会が信じられない。ましてゲオルグのほうからやってきてくれるとは思わなかった。自分から探し出して目の前に立たなければ、気付かれないのではないかと思っていた。
だが考えてみれば一年ほどは陣を同じくする仲間だったのだし、姿を見かければ声をかけることもあるかもしれない。敵同士になっていてもその言い訳が通じるのかはわからないが。
狭い路地で向き合ってようやく、ゲオルグの左顔に眼帯がないことに気付いた。
「眼……」
「あ? ああ……、ファレナを出る時にな。もうあれをしている意味がない」
ファレナにいた頃、眼帯の下はどうなっているのだろうと疑問に思ったことがしばしばある。隠すほど醜い怪我を負ったのか、傷痕を見られたくないだけなのか。
それがどうだ、傷痕など片鱗もないではないか。とすると、あの眼帯には別の意味があるということか――。
どちらからともなく伸ばした腕が互いに触れたのは、確かにそこにいるという確信を触れることで得たかったからか。いや、ただ触れたかっただけかもしれない。
顔が近付き、視線が絡み合う。顔を寄せると唇が触れ合い、すぐに互いの舌の侵入を許した。
顎が痺れるほど長く口付け、どちらのものとも知れぬ声が漏れるのに興奮したのはいずれが先か。互いの体をまさぐり合い、服を寛げていく。こんなことをするつもりはなかったはずだが、今更止められないと思うし止めたくなかった。
はだけただけに留まった上衣、下着ごと引き下ろされた下衣。肌を弄るかたい手のひらに皮膚の下の熱を煽られ、煽り返す。口許に指が宛がわれ、舌を出して舐めれば口腔を乱暴にまさぐられる。抵抗するように舌を動かすと、制するように指で挟まれたり撫でられたりした。
戦後のどこか落ち着かない空気、だが保たれていた静寂を荒い呼吸が打ち消していく。くぐもった声も漏れたかもしれない。
興奮は戦いの後だからだ。
陳腐な言い訳が浮かぶが、言い訳する必要はない。互いにそんなことはわかりきっていた。
口腔を解放した指は、乱した下衣をくぐって尻をひと撫でした。乾いたままの手が性器に触れる。息を飲んだ。
いつの間にか腕の中で体を返され、ゲオルグに背を向けた状態になっていた。耳朶を食む唇、後孔を撫で、浅く差し入れられる指。呼吸と密着したところから伝わる鼓動、尻のあたりに当たるゲオルグの熱が、追い詰められているのは自分だけではないことを教えてくれる。
慎重だったのは最初だけで、性急な動きで中を解される。何本指を入れられているのかわからなくなった頃に、乱暴に引き抜かれた。悲鳴にも似た声をあげてしまったが、それを気にする余裕は、どうやら無い。
指を抜かれた時と同様、宛がわれた性器が乱暴に突き入れられた。痛みに萎えるかと思ったが、かたい手の平に性器を握り込まれ、擦り上げられると苦痛と快楽がせめぎあう。
やがて快楽が勝ると、口を閉じ、歯を食いしばっているのが困難になってきた。立っているのがやっとで、民家の壁に腕をついて支えてはいるものの、ゲオルグの腕がカイルを支え、壁で腕を突っ張ってくれなければ、覆いかぶさるような体と壁に潰され、盛大な擦り傷をあちこちに作っていただろう。
喘ぐ合間に何を口走ったのかは覚えていない。ただ、動きが激しさを増し、カイルの性器を擦り上げる手つきも変化して、我慢もできずに達してしまった。その時にはゲオルグの性器も抜かれていたから、おそらく彼も抜いた後で達したのだろう。
壁に縋るようにもたれていると、布で下肢を拭われる。どこにそんな物をと思ったが、後になって考えてみれば、道具袋に入れていたのだ。
荒い呼吸を整えている間に、衣服を整えられてしまった。今度こそ地にへたりこみかけると、脇から腕を回されて支えられた。
「……すまんな」
終わった後で何を言うか。
振り返ると、視線の剣呑を悟ったのか苦笑している。
「言っておくが、したことにじゃない」
「……じゃ、何ですか」
「場所を考えなかったことだ」
言うとカイルの手を取り、その手の平に唇を落とす。壁についていた手は、さすがに無傷とはいかなかった。
口付けられた手で、ゲオルグの頬をそっと撫でる。おかしなことを気にする男だ。
「まあ……気にしなくていいですよ」
互いに煽りあったようなものだ。どちらか片方が悪いわけではない。
ここまでやるとは予想外だったが、嫌とは思わなかった。とするとやはり、答えはひとつなのだろう。
「オレ、ゲオルグ殿のこと探してましたしね」
「俺を?」
何故と表情で言うゲオルグに口許を綻ばせた。わからなくて当然、かもしれないが、やることをやった後で言う台詞とも思えない。
「会いたくて」
その理由は多分ゲオルグ殿と同じですよ。
抱きつき、頬に音を立てて口付ける。この男の驚いたような、慌てたような顔は滅多に見られるものではない。ほくそ笑むと、首に腕を回して抱きついた。
このまま、ついて行きたいと言ったらこの男はどうするだろう。
少し体を離し、ゲオルグの顔を見つめると、にこりと笑って唇に口付けた。
まったく、こんなことになるとは思っていなかった。
抱きしめようとしただけなのに、見つめ合って触れた途端、何かが弾けたように唇を貪り、そのまま飢えを満たすように食らいついてしまった。
住人がほぼ避難退去していて良かった。そのために人気のない場所に来たわけではないはずだが、結果としてそれに助けられたのは間違いない。
己の行動を振り返れば、カイルにずいぶん無体を働いた。――だが抵抗しようと思えばできたはずで、抵抗がなかったということは嫌ではなかったか、抵抗を諦めたか、あるいはカイルにゲオルグの預かり知らぬ事情があるか。
都合のよい解釈ばかりをする気にはならない。
だが、カイルは会いたかったのだと言う。
ゲオルグと同じ理由だと言う。
あんな行動をとった理由、まして今までの靄の理由を認める気になったのはつい先程だというのに、そんな都合の良い話があるものか。椰揄されているのではないかと思ったが、どうやらそうではない雰囲気だ。
(それなら……)
カイルの前に現れるより先に、決めていたことがある。
それを告げてみようか。
頬に口付けをくれた後、上機嫌で己の顔を見つめているカイルを抱きしめ、耳元で誘惑の言葉を吐いた。