ひとりになりたくはない

 さて、どうしようか。
 滑り落ちた斜面を背に、カイルは溜息を吐いた。まったく迂闊だったと自分の行動を反省するしかない。
 周囲を見てくるから待っていろと言ったゲオルグの言葉に反し、珍しい鳥の声に誘われて森の奥へ奥へとふらふらしたまではまだしも、上ばかり見ていたら斜面で足を滑らせてしまったのはまずかった。
 落ち葉の積もった斜面が崖でなかったことは不幸中の幸だったが、ゲオルグの言葉を反古にしてしまったことは事実だ。叱られることも頭を掠めたが、彼とはぐれたことのほうが重要問題である。
 何しろカイルにはこの森の土地勘がない。ゲオルグにはあるようだったからカイルは子供のように彼の後をついて歩いていたのだが、この事態は想定外だ。恐らくゲオルグのほうも同様だろう。
 怪我を確認するように体の各所を動かしたところで立ち上がる。軽い擦り傷が何箇所かあるだけで、捻ったり折ったりはしていない。積もっていた落ち葉に感謝しておこう。
 安堵の溜息を吐くと、あたりを見回した。落ちた斜面は登ろうにも足がかりも手がかりにもなりそうな場所はなく、どこからかぐるりと回り込まなければ上に上がれそうもない。
 ゲオルグと別れた場所から、どのくらい離れたのだろう。
 大して離れていないと思うが、鳥に導かれるように歩いて来てしまったので自信はない。大声を上げたら聞こえるだろうか。
「何やってんの、あんた」
 ゲオルグの声ではない。もっと――自分より若い、少年の声だ。声がしたほうを振り仰げば、数メートル先の木の上に少年が腰掛け、こちらを楽しそうに見ている。ひょっとしたら滑り落ちたところも見られただろうか。
 カイルがほんの少し感じた居心地の悪さを、少年は感じなかったらしい。
「若い男が、こーんな所に一人でいると、ろくなことが起きねえぜ?」
 少年らしくない言い方に、カイルは小さく噴き出した。自分でもそういうことを言うこともある。ただし、男に対しては一度もない。
 だが身構えていたものを少しだけ解いた。
「それ普通、女の人に言うことじゃないかなー?」
「女にも言うけどな。物好きには違いねえよ、あんた」
 にやりと笑うと、木の上から身軽に下りてくる。体重を感じさせないのは、よほど身体能力に優れているからか。長い栗色の髪は背を隠して余る。
 近隣の村に住む少年だろうか。
「こんな森の奥に来るのは獣か盗賊くらいのもんだ」
「じゃ、君は盗賊?」
「違うけど、似たようなもんさ」
 刹那、少年の瞳がきらりと光ったように見えた。ほんの一瞬のことだ。気のせいかもしれない。
「似たようなもの、ね。そんな悪党には見えないなー」
 せいぜいが悪童といったところか。己もフェリドの世話になるまでは悪戯が過ぎる子供だったことを思い出す。十年も昔ではないのに、遠い過去のように思えた。
 少年はおかしそうに笑う。
「はっは! 人を見掛けで判断すると痛い目見るぜ」
「……そうだねー、たしかに」
 例えば、幼い頃にカイルの面倒を見てくれたヴォリガは厳つい顔で粗野な男に見られがちだったが、実際は人情に篤く他人の喧嘩や争いを好まない男だった。
 その後カイルを引き取ってくれたフェリドは、豪快でいかにも男の中の男という人間だったが、美しい妻と子供たちにはてんで弱かった。仕事での顔しか知らぬ者が家族の前で甘い顔をしているフェリドを見れば、目を剥いたに違いない。
 今行動を共にしているゲオルグもフェリドに似たところのある男くさい良い男だが、あれで甘味に目がないという一面を持つ。
 喧嘩の仲裁や揉め事に突っ込んでいくヴォリガや家族にでれでれしているフェリド、甘味をこの上なく幸せに貪り食うゲオルグらの姿しか見ていない者たちには、彼らがどんなに強い男か知らず、侮るかもしれない。そうして痛い目を見て思い知るのだろう。
 そのことがわかるから、カイルは少年の言葉に正直に頷いたのだが、少年はカイルを奇異の目で見る。
「……あんた、変わってんなあ」
「え、そうかな?」
「人から言われねえの?」
「全然」
「あんたの周りも変わってたんだな」
「アハハ、それはよく言われてたかもー」
 言われた時のことを思い出せば、自然と笑みが浮かぶ。温かな思い出のひとつだ。
 少年は両手を頭の後ろで組み、ちらりと周囲の木々へ視線をやった。
「変わってる奴は結構好きだぜ、オレは。良かったらうちに来いよ」
「ええー? でも……」
 唐突な申し出に戸惑いは隠せない。どのみちうろうろと森の中を彷徨っていれば日は暮れるし、カイルを捜しているかもしれないゲオルグと再会できるかもしれないが、できないかもしれない。
 何より、人を見かけで判断するなと言ったのはこの少年ではないか。盗賊ではないにしても似たようなもの、というのがどういう意味なのか、よくわからないことも躊躇の理由だ。
 カイルの内心の躊躇いなど知らず、少年は人懐こく笑う。
「大丈夫だって。オレの家、ってゆーかねぐらは、この森の中だから」
 森は庭のようなものだからはぐれた人間も一緒に探してくれるという。ありがたい話だが、会ったばかりの、それも年下の少年に、そこまで世話になって良いものか。
 悩んでいると手を引っ張られる。その手は意外に冷たかった。
「大丈夫だって。もうじき日も暮れるし、うろうろするより安全だと思うけど?」
「そう、かもしれないけどー……」
 本当にどうしたものか。困り果てていると、それを助けるような言葉が投げかけられた。
「下手な魔物といるより危険そうだな」
 第三者の声に驚いて振り向けば、ゲオルグが背後の斜面から滑り降りてきた。
「ゲオルグ殿!」
 離れていた時間はわずかなはずだが、再会できたことに安堵してしまう。反射的に駆け寄ると、笑みが零れる。
 だが次の瞬間には驚いた。
「あれ、オッサンいたの」
 少年が気安い調子でゲオルグに声をかけてきたのだ。そればかりではない。ゲオルグのほうも大して驚いた様子はなく、苦笑している。
「気付いていたくせに何を言ってるんだ」
「あ、バレてた?」
「わかりやすすぎだ」
 ゲオルグが一笑すると、少年は悪童の顔で笑みを浮かべる。
 気安い様子から察するに、知り合いか何かだろうか。改めて探るように少年を観察した。
 近くで落ち着いて見ると、少年の眼は薄い金色をしていた。セーブルで出会ったエルンストと――ゲオルグと同じ。
 まさか。
 思考が閃いた発想へと飛んでいく。発言はゲオルグのほうが早かった。
「すまんな、カイル」とゲオルグに声を掛けられて我に返る。慌ててゲオルグを見れば、微苦笑していた。本当には困っていない、手のかかる子供の親のような。
 そもそもはぐれたのはカイルがぼんやりしていたからだ。謝るのはむしろカイルのほうだった。
「いえ、オレこそすみません。ぼんやりしてたせいで落ちちゃって……」
「怪我はないか?」
「擦り傷くらいですから、大丈夫ですー。……それより、この子は?」
「こいつも吸血鬼だ。ハーフの。名前はロイという」
「えっ?」
 夜の種族だとは思ったが、ゲオルグと同じ吸血鬼とは。それも、ハーフの。カイルが思った以上に、世の中には吸血鬼が存在しているのだろうか。
 自分で思う以上に驚いた顔をしたのか、ゲオルグに苦笑される。
「……言っておくが、血は繋がってないぞ」
「願い下げだよなあ」
「まったくだ」
「少しは否定しろよオッサン」
「おまえが先に否定したんだろうが」
 二人のやり取りはテンポも良く、どこか温かい。軽口の応酬は気安い者同士だからこそか。歳の離れた兄弟か親子のような会話は見ていて微笑ましいはずなのに、ちりりと胸が痛むのは何故だろう。
(なんか……やな感じ……)
 痛む理由は薄ら見当がついていた。それを素直に認めたくはない。握った掌に爪を食い込ませ、痛みをすり替えた。
「ええとー、それでお二人はどーゆーお知り合いなんですかー?」
「そりゃこっちの台詞だぜ。あんたこそオッサンとどういう関係なんだよ」
 おや、とカイルはロイを見た。この少年は――本当に少年かどうかはわからないが――何か含むところがあるのか。それが何かは、薄々気が付いたが言わずにおく。
 ゲオルグが苦笑しながらロイの頭を撫でた。
「カイル、ロイは以前俺が見付けた吸血鬼だ。問題ばかり起こしていた元気のいい悪ガキでな。二ヶ月くらい面倒を見たが、結局シエラが連れて行った」
「エルンスト君みたいにですかー?」
「そんな感じだな。もっとも、こいつの場合はシエラが連れて行く時にだいぶ暴れたが」
「え。あんな美少女と一緒にいられるのに?」
 四六時中あんな美少女といられたら、きっと楽しいのに。正直なカイルの発言に、ロイはともかくゲオルグまでが微妙な表情をした。カイルが知らない一面がシエラにはあるのだろうか。
 シエラはセーブルで会った、見た目は病弱な美少女の吸血鬼だ。カイルは彼女の銀色の髪を思い浮かべた。ゲオルグの話だと見た目以上に頼りになる女性のようだが、先程の二人の反応といい、ロイの口振りではそれ以上に何かありそうだ。見た目だけでは判断できないということか。
 綺麗な薔薇には棘があるということだろうと納得しておく。
(そーいえばオレだけ知らないんだよねー……聞けば教えてくれたかもしれないけど)
 どこでどんなことをした、という話はぽつぽつと聞いていたが、ゲオルグ個人に関わるようなことは聞いていない。まだセーブルを出て、たった一週間も経っていないから、仕方ない――と思い込むことにする。そう思わなければ体に悪い気がした。
 ロイは横を向き、何やらぶつぶつと恨み言を言っているらしかった。
「ったく、最初はあんたが面倒見るとか言ってたのに、いつの間にかあのカミナリオババに……」
「あの人が決めたんだから仕方ないだろう。報告しとくか?」
「よ、余計なことすんなよ!」
 焦ったように否定するところを見ると、彼はシエラに頭が上がらなかったらしい。傍から見ている分には、黙っていれば美少女と美少年のカップルに見えただろう。
「元気そうで何よりだ」
 ロイの頭をわしゃわしゃと乱暴にゲオルグが撫でれば、「止めろよ!」
「オレはもうガキじゃねえぞ!」
「ガキだろうが」
 止めろと言いながら、ロイはちっとも嫌そうに見えない。ゲオルグもそれがわかっているのだろう、ひとしきりロイを撫でて笑っていた。それだけを見れば、まるで仲の良い兄弟のようだ。
(そういえば、オレも撫でられたなー)
 もしかしたらゲオルグの癖なのか、単に頭を撫でるのが好きなのか。誰にでもそうしているのなら、癖なのかもしれない。
「カイル?」
「えっ?」
「大丈夫か?」
「何がですかー?」
 二人に顔を覗き込まれ、さすがに焦る。
「変な顔してたぜ、あんた。疲れてんじゃねーの? オッサンの体力に合わせて歩いてたら死ぬだろ?」
「そういえば、無理をさせたかもしれないな……」
 ここに来るまで、休憩はわずかにしか取っていなかった。ゲオルグ自身は体力に問題はなかっただろう。カイルはと言えば、ゲオルグより格段に体力はなかったが、だからといってへばるほどではない、と思っている。
 フェリドと一緒の時にいも、強行軍はあったのだ。これしきでへばっては男がすたる。
「いえ、大丈夫ですよー」
 しかし二人はカイルな言葉も聞こえない様子で何事か話し合い、終局的にはロイのねぐらで一晩休むことに決まった。
 セーブルを出て以来、気付かなかったがずっと緊張していたらしい。そのことに気付いたのは、ロイのねぐらで個室を与えられてぼんやりしていた時だった。
 野宿をしていた時は眠りが浅く、また眠っても夢に苛まれ、熟睡できないでいたのだ。
 ゲオルグには恩義も感じていたし好意を抱いていたが、あの夢だけは何とかならないものか。
(一応、対策は考えてくれるって言ってたけど……早く見付からないかなー、解決方法。寝不足なんて言い訳にならないし……)
 もし何かあった時のことを考えると、悔やんでも悔やみきれないに違いない。それだけは避けたかった。
 夜具に仰向けで転がる。今頃隣の部屋ではゲオルグがロイと積もる話に花を咲かせているだろう。カイルがその場にいても構わなかったはずだが、疲労もあって遠慮した。
 胸に湧いた靄は、まだカイルの胸にある。隣に二人がと思うと、その靄はいっそう濃くなった。
(やだなー、こんなの。なんだかまるで……)
 嫉妬しているみたいだ。
「…………えー……」
 簡素なベッドに転がると頭を抱えた。考えてみれば当たっている、ような気がした。
(違う違う、嫉妬とかじゃなくてー、……寂しいんだきっと)
 二人きりで過ごしている期間は短いが、どうやらその間にゲオルグに依存していたようだ。話す相手もゲオルグしかいないし、自然といえば自然に、彼に懐いていたことは否定しない。だからゲオルグと仲が良く、過去や彼らしか知らないような会話で勝手に疎外感を感じてしまうのだ。
 だったら、ある程度は自ら進んで彼らの会話に加わるべきか。幸いカイルは人見知りはしないし、ロイもそのようだ。
(どうせなら楽しいほうがいいよねー。昔のゲオルグ殿の話とか、聞いてみよう)
 そうしようと決めると、乱暴にドアをノックされた。返事をするよりわずかに早く、ドアが開かれる。不躾に入ってきたのはロイだった。タイミングの良さに驚かされる。
「ロイ君。どうしたのー?」
「どーしたも何も、」
 ドアを閉めてずかずかと入ってくると、床に敷いた布の上にどかりと座る。明らかに何かに憤慨した様子で、身を起こしたカイルを見上げた。
「あんた、本当にヤッてねーの?」
「は?」
 何の話かと目を丸くすれば、ロイは苛立たしげに舌打ちした。「だから、」
「あのオッサンと寝たのかどうかって聞いてんだけど。オッサンはすっとぼけやがるから話になんねーし」
「ね……」
 聞かれた意味を脳が理解するのに数秒かかった。理解した途端、思考がいっそう混乱する。
「その歳で照れることでもないだろ? ヤッたかヤらないかってのに、オッサンはなんか上手いこと話誤魔化して教えてくれねーからさ。あんたが教えてくれるんならいいだろうと思ったんだけど。で、結局どっち?」
 早口でまくし立てられた言葉はカイルの右耳から入って左耳へと抜けた。
「な、何でそんなことが気になるのー?」
「普通だろ。吸血鬼は手ぇ早いらしいぜ、一般的に」
「……ホントにー?」
「適当。でも何人か会った奴で、嫌いって奴は知らねー」
「…………」
「で、どっち?」
「……そーゆーロイ君はどーなの? ゲオルグ殿と一緒にいたんでしょー?」
 おまけに吸血鬼なのだから、そういうことが好きなのは間違いない。先に彼が「嫌いって奴は知らねー」と認めている。当然自分も入っているはずだ。
 正直に答えず疑問で返したが、ロイは無言のまま横を向いた。すぐに膨れた顔を見れば、何もなかったことはわかる。
(……ってオレ、何でホッとしてるんだろ……)
 ホッとした自分に動揺してしまう。理由は考えたくない。
 ロイがぽつりと呟いた。
「あのオッサンさあ」
「んー?」
「なんていうか、上手そうだろ? 見た感じ」
「ああ……それはわかるかなー」
 武骨だが、優しい。それとは別に、立っているだけで色気を感じる。人の目を惹き付ける男だ。それがそう思わせる要因だろう。素直に同意すると勢いを付けたロイが身を乗り出してきた。
「だろ!? だったらどれだけ上手いのか気になるだろ?」
「まあ、そう、かもしれないねー」
「試してみたくなるのが人情だよな?!」
 それはどうだろう。
 思ったが口に出すのは止めた。とりあえず頷いておく。
「そうだねー。で、どうだったのー?」
「…………少しはわかれよ」
 不機嫌な声で横を向いてしまった。それで結局ロイとゲオルグの間には何もなかったのだとわかる。
「ロイ君は、」
 不用意な発言は気が緩んだからだ。
「ゲオルグ殿が好きなんだねー」
「…………」
 たっぷり数分の沈黙。虚を突かれたらしいロイは目を見開いたが、その後で横を向いた。
 何を訊いているんだと思わなかったわけではない。ロイが癇癪を起こせば、冗談にして宥めるくらいの余裕はあった、つもりだった。
 だがロイは予想に反し、少しだけ口を尖らせて自分の脚を抱きしめる。拗ねているように見えた。
「……嫌いじゃなかった」
 ぽつりと呟いた言葉はかえって真実味がある。
 訊いたことを後悔した。
「でも、昔の話だな!」
 そりゃーオレをカミナリオババに押し付けて行った日には恨みもしたけど、と湿った空気を吹き飛ばすように明るい調子で笑う。
「ま、おっさんが来るとは思わなかったなあ」
 てっきり吸血鬼狩りか他のお仲間が来るかと思ったのに。
 ぼやきか独り言に似た言葉が少しだけ引っ掛かった。その言い方だと、吸血鬼狩りか吸血鬼を呼ぶために何かをしていたように聞こえる。
 まさか。
「……もしかして、セーブルの吸血鬼騒ぎって……」
「あ、あれはオレ。最近ご無沙汰だったから、ちょっとやり過ぎたかなと思ったんだけど、我慢できなくて」
 途中から警戒をかい潜ることのほうが楽しかったと笑う顔はまったく悪びれる様子がない。ゲオルグが手を焼いた理由の一端を垣間見たような気がした。
 その後もロイと他愛のないお喋りに興じ、話に区切りが着いたところでようやく解放された。
 簡素な寝台に仰向きで寝転び溜息を吐くと、再びノックの音。今度はすぐに入って来る気配はなく、カイルの返事を待っているようだった。疲れてはいたが、身を起こして返事をする。訪問者はゲオルグだった。
「疲れてるだろう、すまんな」
「いいえー。でもひとつ、事件が解決しましたよ」
「何?」
 セーブルの吸血鬼騒ぎの件の犯人がロイだったことを告げると、ゲオルグは盛大に溜息を吐き、頭を抱えた。
「大人しくしていると思ったら……」
「途中から目的が変わっちゃったみたいですけどねー」
「だからと言って許される話じゃないだろう。死人も出ている」
 シエラに報告しておかねば、とぼやいたゲオルグの表情は見覚えがある。ゲオルグにではなく、昔面倒を見てくれていたヴォリガと同じ。
(ロイ君も気の毒にー……)
 だが心のどこかで安堵している自分もいる。まったくここ最近、どうかしているとしか言いようがない。情緒不安定も良いところだ。それも、たった一人に起因した。
 それもきっと女性との遭遇が少ないからに違いない。大きな街に行けば、いや小さな村でも、女性がいればいつもの調子が戻るはず。
 気休めだとわかってはいるが、思い込まずにはいられない。
「……大丈夫か」
「えっ?」
「やはり疲れているんだろう」
「いえ、大丈夫ですよー。眠っちゃえばいつも通りですから」
「それなら良いが……」
 気遣わしい表情。彼にはいつも気を遣わせてしまっている。そんな顔ばかりさせたいわけではない。
「大丈夫ですって。で、お話は何でしょー?」
「ああ、明日からのことだ」
 もっとも、やることのうちの半分はロイのおかげで片付いた。問題は残り半分の仕事のことだった。
 とはいえ夜更けでもありカイルが疲労していることもあり、詳細な打ち合わせは翌日に持ち越された。
 草臥れた体をベッドに横たえ、目蓋を閉じればすぐに眠りが訪れる。
 夢も見なかった。

 
 
 翌日、ゲオルグとロイはカイルを置いて森の中の探索に出かけた。
 ロイは森に詳しそうではあったが、それも森の東側だけの話で、西側にはほとんど足を踏み入れたことがないという。この機会に何があるのか知っておいて損はない、というのは建前で、本音は「何か楽しそうなことやってるな、混ぜろ」ということらしい。
 好奇心は時に身を滅ぼすが、ロイはハーフでも吸血鬼ということもあり、体は普通の人間よりは丈夫だ。それに戦えないわけではない。己の身くらいは護れるだろうと判断され、同行を許可された。
 カイルが留守番役になったのは、ゲオルグに疲労を心配されたことと方向感覚及び距離感の違いだった。
 方向音痴というわけではない。ただ広大な森で二手に分かれ、また合流する場合、吸血鬼同士で行う交信は便利なもの、らしい。ある程度の距離までなら、それを使って互いの位置を確認することもできるという。感覚的な能力らしく、具体的にどうして通信するのかまではカイルにはわからない。
「留守番、かー……」
 世話になっているのだからと思い、張り切って洗濯と掃除は済ませてしまった。そうすると、日が中天から傾く頃にはやることがなくなる。自主的に鍛錬でもやろうかと思ったが、今ひとつ身が入らない。
 天気が良いので外でぼんやりと、木の幹に凭れて座る。両腕を伸ばすように広がった枝のおかげで、顔に直接日の光が差すことはない。麗らかな日差しに気温。半ば夢見心地だった。
 ――カイル
 呼ぶ声は現実のものではない。おそらくは夢の中からの声。
 ――……カイル
 今度はもう少し近くから。そちらを顧みれば、ゲオルグがいた。
 ――…………、……
 囁かれ、触れられる。てのひらが素肌の胸をまさぐった。
(夢、だ……)
 そうでなければゲオルグはこんな触れ方はしない。触れられた場所がどこも気持ちよくなる、こんな触れ方は。
 思い出しているだけだ。
 いつかの夢を。
(もー……嫌だな……)
 これではまるで、
(オレがこうされたいとか思ってるみたいじゃないか……)
 そんなことはない、はずだ。
 考えは胸の中にしまい込み、今度こそ意識を眠りへと手放した。
 
 
 
 夕刻前に帰ってきたふたりは、深刻さを表情に滲ませていた。
「何かあったんですか?」
「どーもこーもねえよ」
「性質が悪いのが棲みついてるな」
 ナガール教主国との国境がある山の裾野に広がった森は、山の中腹まで続いている。その森が途切れたあたり、山肌に空いた大穴の中に棲んでいるモノがいた。
「あんなのがいたなんてなあ……」
「気付かなかったのか」
 ゲオルグの言葉にロイは鼻を鳴らした。
「普段あんなとこ行かねえからな」
 道理でこのあたりに凶悪な魔物が多く、危険な森だと言われているわけだ。あれに惹かれて集まったのだろう。
 その代わり、ファレナにナガールが大軍で攻めかかるのを防いでいてくれている、とも言える。毒を以って毒を制す、というところか。
 だからといって放置しておいて良いとは限らない。森や山の近くの村や街では人への被害も報告されている、と依頼人は言っていた。
「まあそれは人の王が何か考えなきゃなんねーことだろ」
「ああ。そこまで依頼されていないしな」
 あっさりし過ぎてはいないか。近隣の街や村の人たちはどうするのか。しかしすぐに、規模が大きくてカイルがどうこうできる問題ではないと気付く。確かに王でなければ解決しがたい。戦争に関しては特にだ。
「で、どうしますー?」
 依頼の内容は、この森に棲むとある魔物を倒し、その角と牙、爪を持ち帰ること。山に棲む魔物ではないが、とても強いことに変わりはない。
 その魔物の角などは薬や装飾品として重用されているというが、市場では目が飛び出るほどの値段が付くことも珍しくはない。何しろ魔物が相手で、生半可なレベルでは到底太刀打ちできないのだ。死体でも見付けられれば良いが、広大な森を手分けして探すのは危険も付き纏う。
 ただしそれは普通の傭兵なら、の話だ。
「大丈夫だ」
 ゲオルグは笑うとカイルの頭を撫でる。
「ふたりでいるんだ、何とかなるさ」
 ゲオルグにそう言われると、不思議とそう思える。だからきっと大丈夫なのだと思っていた。

 
 
 
 
 油断していたわけではない。
 いや、それも後になって思い返せば、言い訳にしか過ぎないか。
 順調だったのだ。――途中までは。
 
 
 
 目的の魔物自体は首尾良く倒せ、角や爪などを入手できた。真珠のような輝きを持つそれらは確かに美しいが、はたして大枚を叩いてまで入手するほどの物なのかはわからない。カイルやゲオルグにとっては、あくまで依頼を受けた品物を手に入れたという認識しかない。
 爪や牙をナイフを使って苦労しながら回収し、気を抜いたか抜かないか。その隙を狙い済ましていたかのように、後方から飛んだ矢がゲオルグの頬を掠めた。
 咄嗟に手近な木の幹へ身を隠す。二射目はカイルが身を隠した木の隣の幹に突き刺さった。
 何者かと誰何する必要はない。大方、同じ物が目当てのご同業か盗賊か、その類だ。魔物の強さは理解していて、己らでは無謀な真似をせず、だが獲物の価値を知っているからこそ、誰かが代わりにその魔物を倒した後を狙っていたのだろう。まるでウルスか何かのように。
 敵の得物がボウガンや弓となると、少しばかり厄介だ。間合いが遠い。
(でも……)
 隙はある。
 矢をつがえている時には隙ができるはずだ。ただし、敵が飛び道具だけを得物にしているとは限らない。人数は気配でなんとかわかるが。
「七人……ですかねー」
「ああ、多くても八人といったところだな」
「とりあえず、魔法使いましょうか」
 攻撃魔法としては威力の弱い水魔法だが、目眩ましや不意打ち程度には使える。
 タイミングを見計り、狙いを定めて氷の息吹を食らわせるとふたり同時に木の幹から飛び出した。潜んでいた敵は氷の飛礫に驚いたのか、情けない悲鳴を上げて飛び出してきた。
 長々しい前口上をする必要はない。互いに互いの目的はわかっている。気合を吐き、剣を抜く。七対二の不利をものともせず、背中合わせに場所を入れ替わり立ち替わりしながら剣を振るった。
 そう長い時間ではない。
 腕に覚えがありそうな男たちではあったが、腕の差は明らかだった。半数以上が斃れた後で、襲撃者たちは芸のない捨て台詞とともに逃げ去っていく。その背を舌を出して見送った。
「ホントに覚えてて欲しーならもっと独創的なことを言ってくれなきゃダメですよねー」
「…………」
「ゲオルグ殿?」
「あ……ああ、すまん、」
 何でもないと言って寄越す顔は、とても言葉通りだとは思えない。顔色は真っ青で、今にも倒れるのではないかと思ってしまう。
「どうかしたんでしょう、どうしたんですか」
「いや、少し休めば……、」
 言いながら、大きな体が傾いだ。咄嗟に肩を掴んで支える。青冷めた頬に触れれば、普段より明らかに冷たい。これでは、まるで――
 いや、と頭を振る。己の悪い考えを拭い去りたかったからだが、ふと掌にぬるついた感触があることに気付いた。何かと見れば、血だ。まだ暖かい。返り血かと思ったが、そうではない。
 ゲオルグの、血だ。
 左腕、上腕から肘のあたりにかけて、ぱっくりと肉が見えている。
 反射的に水魔法を行使した。清涼な空気、水の気配がゲオルグの体を取り巻くが、顔色が良くなる気配はない。
 足りないのか。
 再度優しさの雫を掛けるが、青冷めた顔色は戻らない。さすがに焦った。たいていの傷や怪我、毒ならば払拭できているはずだ。それなのに、どうして回復しないのか。
 己の服を裂くと包帯代わりに傷口へ巻き付ける。さらに服を裂き、肘のあたりをきつく縛った。
「ゲオルグ殿、歩けますか?」
「ああ……大丈夫だ」
 薄ら浮かべる微笑すら痛々しい。こんな時にまで無理をするのか――させているのか。
 カイルは唇を噛み締めると、ゲオルグの肩を支えて歩き出した。背負えられたら良かったが、それでは魔物と遭遇した時、遅れを取る。共倒れにでもなったら、先程の連中が喜ぶだけだ。
 ともかく、今は早くロイのねぐらへ戻らなければならない。魔物をひとりで退治するのは、なかなか骨が折れそうだが、やるしかない。腹をくくって大地を踏み締める。
 ゲオルグが剣を抜こうとしても押し留めてやる。おそらく、彼の体を蝕んだのは毒だ。ほんの少しだけゲオルグの頬を掠めた矢に、もしかしたら猛毒が塗ってあったのかもしれない。そして、毒を受けたまま剣を振るっていたのだとしたら体力は抉られ通しで、ゲオルグにかかった負担は相当重い。
(気付かなかったなんて……!)
 気付いたところで、どうしようもなかったかもしれない。だが、すぐに水魔法で回復していれば、毒の大半はすぐに治癒できたかもしれないのだ。悔やんで悔やみきれるものではない。
 救いは、ゲオルグが吸血鬼――ハーフだが――である、ということか。並の人間より頑強だというのなら、今はそれに掛けるしかない。
「オレに体預けちゃって構わないですから、体力使わないで下さいね」
「しかし……」
「喋らなくていーですから、頼むから大人しくしてて下さいよ。……頼り無いかもしれないですけど、今くらいオレを頼ってくれたって、いいでしょ」
 声が震えるのも構わず言い放つと、歩みを進めていく。
 自分ではなく、フェリドがここにいればこんなことにはなっていなかっただろうか。
 奥歯を噛み締め、胸の奥から湧いてくる靄、自己嫌悪や自虐を必死に抑えた。
 
 
 
 ゲオルグを半ば背負うように帰って来たカイルを見るなり、ロイまで血相を変えた。
「なっ……、どうしたんだよ!」
「わけ、後で……おくすりとか、お願い」
「あ、ああ……待ってろ!」
 あともう一息。ロイの顔を見て力が抜けかけたが、まだ倒れ込むわけにはいかない。担いだゲオルグを最後の力を振り絞って部屋に運び、ベッドに寝かせる。息を吐くと全身の力が抜けた。
(どうして、こんなことに……)
 床に座り込むとゲオルグの邪魔にならないよう、ベッドの端に俯せるように凭れる。
「悪い、おくすりなんてほとんどなくて……今湯を沸かしてるから」
 ロイはすぐに清潔らしい布とおくすりを持ってきてくれた。ずいぶん昔に購入したのか、教会がまだ教会として機能していた頃に置いてあったものなのか。ともあれ、今はないよりずっと良い。
 ゲオルグの血に塗れたマントや服を苦心しながら二人で脱がし、水に浸した布をかたく絞って傷口の周囲を拭う。
「これ……毒か?」
 頬の傷だけでなく、腕の傷も、傷口は紫に変色していた。ロイが眉をしかめる。カイルは小さく頷いた。
「水の紋章、使ったんだけど……ダメで」
「…………普通ならこのくらいの傷、すぐ治るんだ」
「回復力はすごいって、聞いたよ。でも、ゲオルグ殿は純粋な吸血鬼じゃないから……」
「それでも、昔はこれくらいなら治りは早かった。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「おっさんの体力が落ちてたか、この毒が吸血鬼に効く毒か、どっちかじゃねえかな。そんな特殊な毒があるとは聞いたことがねえけど、ないとも限らないし」
「そ、んな……!」
 どうすれば良いのか。目の前が暗くなった気がした。普段憎まれ口を叩いているロイも今はそんな気がないらしく、真剣な表情だ。それがいっそう事態が深刻だと言われているようで、カイルは焦るばかりだった。
 すっかり傷口の周りを拭うと湯で溶いたおくすりを傷口に当て、包帯を巻いた。消毒ができれば良いが、消毒薬も毒消しも生憎持っていないのだという。彼が吸血鬼であることを思えば、仕方のないことだろう。切り落としでもしない限り、人間の数十倍もの治癒力で回復してしまうのだから。
「ごめん……」
「やだな、ロイ君が謝るところじゃないよ。それに、普通の毒じゃなさそうだし」
 目を閉じているゲオルグの顔は青冷めている。出血もかなりあったが、それ以上に毒が体の内部を蝕んでいるのかもしれない。それを考えると、カイルは身を掻きむしりたくなる。
 何か処置できる方法がわかれば良いのだが、カイルにはわからない。ロイも詳しくないという。シエラに教えを請うことができればいいが、彼女と連絡を取る手段すら二人ともも知らず、カイルは愕然とした。
 彼のことをほとんど何も知らないとは思っていたが、知らないことがこんなにもマイナスになるとは思わなかった。
 途方に暮れた沈黙を破ったのはロイだ。
「……体力が回復すれば、もしかしたら少しはマシかもしれねえ」
「体力?」
「おっさん、血吸わねえだろ」
「吸わなくても大丈夫だって聞いたけど……」
「吸血鬼が必ずしも血を必要とするわけじゃねえんだ。オレだって普段は人間と変わらねえ飯食ってる。けど、血は……まあなんていうか、大好物でもあるし、摂ったらしばらく何も食わなくてもいいくらいにはなるんだ」
 活力剤のようなものだろうか。そう解釈し、頷く。
「しばらく血を断ってたから、どこか人間に近付いてた部分があるんじゃねえかな。吸血鬼の部分が半分眠っちまってる、って感じで。だから毒に負けてる」
「っていうことは……」
「もしかしたら、血を飲ませたら……毒に効果あるかはわかんねえけど」
「……どのくらい飲ませたらいいんだろ」
「わかんねえけど……目が覚めるまで、かな?」
 自信なさげにロイが口篭る。カイルは小さく頷いた。
「他に方法がないんだから、ともかく試してみよう。ロイ君、ナイフ借りるね」
 道具袋に入れていたナイフを取り出すのももどかしく、ロイが腰に差していた短刀を借りると、蝋燭で刃先を炙る。そうして手首のあまり太くない血管を選んで傷を付けた。
 すぐに紅い血が流れ、指先に達する前に開かせた口に宛てる。飲み込めるだろうかという不安はあったが、口中に入れるだけでも違うはずだと信じたかった。
 紅い筋が吸い込まれる。しばらくしてわずかに喉が上下するのが見えた。だが反応はない。
「一度じゃ駄目かもな……何度か分けたほうがいいかも」
 ロイの言葉に頷き、血の流れが弱まったところで指を口許から離した。ガーゼを宛てて手首に包帯を巻く。
 ゲオルグの顔色は、先程よりずいぶんましになったように思える。そうであったらいいという、願望がそう見せているのかもしれないが。
「効果あったかな……」
「仮にも吸血鬼なんだから大丈夫だろ。オレは薬探してくる」
 森に自生している草花の中には薬草も毒消しもあるという。それらを摘んで煎じれば、また効果があるかもしれない。
「オレが行こうか?」
「帰ってこれねえだろ。まあ、あんたはおっさんの相棒なんだから、傍についててやんな」
「ロイ君……ありがとう」
「ばっ……礼を言うのはまだ早いだろうが! と、とにかく行ってくる!」
 慌てた様子でばたばたと出て行ってしまったが、頬が赤くなっていたのをカイルは見逃さなかった。
 ロイが出て行くと、ゲオルグに視線を落とす。
 青冷めていたが、先程までの土気色より何倍も良い。呼吸は浅かったが、ほとんど息をしていない時よりずっと良かった。
「ゲオルグ殿……、ごめんなさい……」
 結果的に足を引っ張り、今は彼の命を脅かしている。自分をいくら責めても足りない。
 彼に何かあったらどうすればいいのだ。
(大丈夫……大丈夫……)
 言い聞かせるように何度も呟く。気休めにしかならなくても、そう信じていなければおかしくなりそうだった。
 代われるものなら代わりたい。
 この負傷はカイルのせいだ。わかっているから余計に苦しい。
 無駄だとわかっていても、カイルは最後に残った魔力を振り絞って水の紋章を使った。右手にほの青い光が生まれ、掌を毒を受けた腕にかざす。青い光が腕に吸い込まれていくような動きがあったが、包帯の下の傷にどれほど影響を与えられたかわからない。
 ロイが帰って来る前にもう一度、血を飲ませてみようと決めて水に浸した布をかたく絞り、ゲオルグの額に浮いた汗を拭った。
 
 ゲオルグの容態に明らかな変化が起こったのは、一夜が明けてロイが採取した毒消しと三回目の血を交互に与えた後だった。
 顔に色が戻り、呼吸も深くなった。生きている、ということがようやく実感できる。それがわかるとカイルとロイは互いを労った。
「何とかなったな」
「うん……ロイ君、ありがとう」
「まだ早いだろ」
 ほんのり耳を赤くしたのは照れたせいか。自分でもそれに気付いているのだろう、わざとぶっきらぼうを繕ったような顔をする。
「とりあえず、風呂の支度と飯の支度して、食ったら寝ようぜ」
 安心したら眠くなったと大きな欠伸をするロイにつられるように、カイルも欠伸した。一晩分の気疲れが、日も昇りきった今頃になって襲い掛かってきたらしい。
 風呂の支度はロイが、食事の支度はカイルが分担し、早々に身を清めて食事を終わらせてそれぞれの部屋に引き上げた。
 寝台に横たわればすぐに眠ってしまうかと思ったが、予想は外れた。眠りがやってくるまで、少しの間があった。
 隣室ではゲオルグが眠っている。
 生きている。
 そんな当たり前のことで暴れだしたいくらい喜べるなんて、今までにはなかった。
 今はすべてのものに感謝したい。
 思いながら、意識を深い眠りへ引き寄せた。
 
 昼過ぎからのゲオルグの回復ぶりは目覚ましかった。つい数時間前まで青白い顔をしていたとも思えない。
 ゲオルグが吸血鬼で良かったと、この時ほど思ったことはない。
 すぐに起き上がろうとするのをこの時ばかりは叱り飛ばし、ロイと共に数日は安静にすべきだと説き伏せる。その後二、三日ロイのところへ世話になり、ゲオルグが完全復活すると旅支度を始めた。
「まだゆっくりしていけばいいのによ」
「そうもいかん。依頼人に届けるものがあるからな」
「真面目だな」
「当たり前だ。おまえはもう、騒ぎを起こすなよ」
「気を付ける」
「でなければ、長老直々の制裁が待っているぞ」
「う……」
 わかったと頷くロイは、年齢より幼く見える。
 本当に仲の良い兄弟のようだと見守っていると、ロイと目が合った。手で招かれ、何事かと身構えれば耳打ちをされる。
「あのさ、あんた気にしてたみたいだけど。おれ、好きなヤツは別にいるから安心しろよ」
「え?」
「ま、頑張りな。あのオッサン相手だと色々大変だと思うけどさ」
「な、なんの話?」
「トボケんなって。オッサンも満更じゃなさそうだし、頑張れよ」
 じゃー元気でなと見送られる間も、動揺したままだ。それは表情か脚取り、あるいは両方に表れていたらしい。
「何を言われたんだ?」
「え、いや……たいしたことじやないですよー。頑張れって言われただけですから」
「そうか?」
「はい! さ、早く依頼主のとこに行きましょー!」
 ゲオルグの視線を振り切るように脚を早め、道を行く。
 問題はまだ山積していると、気付いていたが気付かない振りをして振り返らなかった。
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