カイルは部屋に戻ると、ドアのすぐ横の壁に背を預けた。ずるずると背中が壁を滑る。
すっかり尻を落としてしゃがみ込むと、立てた膝の間に溜息を落とし、俯いた頭を抱えた。
(あー……もー……誰か記憶消して……)
気を抜くと、頭の中でちらちらと見え隠れしてしまう。数日前の――あの、陵辱が。そのたびに居た堪れなくなり、叫びだしてしまいそうになる。
実際そんなことをすれば奇異の目で見られるのはまだマシなほうで、下手をすればフェリドにあの時のことを報告しなくてはならない破目になる。それだけは断固として避けたい。あんな辱めを受けたことは、誰にも言いたくはなかった。だから奥歯を噛み締め、必死に別のことを考えて紛らわせる。
朝から晩までそんなことを繰り返していれば疲弊するのは当たり前で、このままではまずいのはわかりきっている。しかしことがことなだけに、誰かに愚痴を吐いて気持ちを軽くすることもできない。
悪循環だ。
できれば二度と会いたくない。次に会って首尾よくあの男、少年を殺せたとしても、記憶までは殺せないことはわかっている。
いっそ嬲り殺されていたほうがマシだったかもしれない。
(――でも……生きないと……)
ファレナを、大好きな人たちを守ることができなくなる。
再び溜息を吐く。ベルの音で顔を上げた。誰がこんな時に来たというのか。他人と応対する気になれないと思ったが、フェリドの通達を思い出した。
数日前の襲撃で特に大きな被害は受けなかったとはいえ、何をされたのか具体的にはわからないままだ。ただ一般電源回路をいじった形跡があったから点検をしなければならないという。メインコンピュータは勿論、解析の結果、何らかの細工を施された場所はすべてだ。
その中に、カイルの私室がある地区も含まれていた。室内設備の何かに細工されたが、何に何を細工されたのがわからず、緊急の点検となったわけだ。同じような点検は地区内のすべての部屋で行われる。
苛立ったようなベルが再度鳴らされる。
「はいはーい、今開けますよー」
慌てて立ち上がると、ドアのロックを解除して開ける。紺色の作業着に同じ色の帽子を目深にかぶった男が立っていた。
IDを見ると、見覚えのある社名と本人らしい顔写真付きの社員証が胸に付けられている。アナログだが、わかりやすいに違いない。フェリドいわくの電気設備機器保守点検会社の社員に間違いなさそうだった。
「点検に来たんですが……」
「聞いてますよー、よろしくお願いしますねー」
「今日は室内の設備も見るとのことでしたが」
「あ、ってことは中もですかー。片付けててよかったー」
軽口を叩きながら室内に招き入れる。どういうところを見るのかも、一応確認しておいたほうが良いのだろう。「どこから見ますかー?」と問いながら、自室を見回す。
見られて困るようなものは置いていない。何しろ、物が少ないのだ。必要なものだけしかないから、生活感は薄い。一度訪れたフェリドには「インテリアショップのモデルルームか何かか」と笑われたものだ。
ふと背後の点検員を振り返る。口許が笑っているのが見えた。
「どーかしましたか?」
「迂闊だな」
「え?……痛っ」
振り向きざま、突き飛ばされる勢いで肩を壁に押し付けられる。
何事かと混乱しかけたカイルの目に、帽子を脱いだ整備士の顔が映る。その金色の瞳は、見覚えがある。
戦慄が背を走った。
「油断しているからだ」
「おまえは……」
「覚えていてくれたのか」
そうでなくてはつまらん、と独り言のように言う顔は、どことなく凶悪だ。そう思わせるのは右の金色の眼のせいか。この眼に見つめられると、射竦められたように動けない。それを知っているのかいないのかはともかく、この少年は絶対に何かを企んでいる。間違いない。そうでなければ単身で――本当に単身かどうかはわからないが――こんな敵地にやってくることはないだろう。
できることなら忘れたかった。覚えていても良いことがある記憶ではない。羞恥と怒りしか湧かない。
少年はカイルの肩を掴んだまま、口の端を笑みに歪めた。
「今度から人を部屋に招く時には、顔も確認すべきだな。簡単に招き入れられるとは思わなかったぞ」
「次回からは是非そうさせてもらいますよ。……放せ」
低い声で威嚇をしても、痛痒を感じない表情で「何故?」と問われる。押さえ付けられていない左手を、ゆっくり己の背へ回す。
「敵と仲良くする気はありません、から!」
ベルトの裏に隠した小さな折りたたみナイフを閃かせる。指の長さほどの刃が少年の体に突き立つ前に、手首を強く手刀で打たれる。強い痛みに取り落としたナイフは少年の脚によってすぐには手が届かないところへ蹴られた。
咽喉の奥で笑う声は獣の舌なめずりに似ている。
「そういった諦めの悪いところは、嫌いじゃない」
「好かれようと思ってませんから」
「俺は好かれたいのだが」
残念だ、と大して残念でもなさそうに言って寄越す。
「……敵の本拠地の真っ只中にやって来るなんて、もしかして馬鹿ですか」
「おまえが忘れないうちにと思ってな」
正確には、と付け足す顔はとても少年らしくはない。
「おまえの体が」
「……ッ!」
殴り、黙らせようとした左の拳をたやすく掴まれる。腕を引こうとしたが、右手とまとめて掴まれた。
カイルより小さく、多少は細く見えるのに、一体どこに余裕な顔をして大人の男の抵抗を押さえ込む力があるのか。
少年は肩に掛けていた鞄の中から、黒い紐のようなものを取り出す。蛇のように見えた。少年の指に巻き付いたからだ。だが目も口もなく、厚みもない。
それを掴んでいたカイルの両手に近付けると、紐のような生物はしゅるりとカイルの手首に巻き付いて拘束する。抵抗など関係ないように、きっちりと。紐の端はどうやら壁にくっついたようだ。
「痛くはないだろう?」
言葉の通りだ。拘束されているのに、手首を拘束するものなど何もないような気がする。しかし紐らしきものを引っ張ってみても、頭上でまとめられた手が自由になることはない。多少伸びる程度で、緩む気配はない。
蹴り上げた脚すら容易く抑え込まれる。膝の裏を抱えられるようにされた。片足でバランスを取るしかなく、身動きを封じられたも同然。
「放せ!」
「もう少し芸のある言葉を言ったらどうだ?」
馬鹿にされたように笑われても、抗うことを止めるわけがない。持ち上げられた足をばたばたとさせ、体を捩ったり腕を引いたりして何とか拘束を解こうとする。空しく宙を蹴るばかりで、どうにもならなかった。
「……何をしに来た!?」
「おまえに会いに」
「な?!」
驚愕するカイルの顔に、少年が顔を近付ける。女王騎士の上着の止め具を外され、鎧の止め具を外す手に迷いはない。金属の音がやたら耳についた。
「アレであんな顔をするのなら、他に色々なことをしたらどんな顔を見せてくれるのかと思ってな」
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいるものか。いたって真面目に言っている」
「どこが……、っ」
内衣の袷から指が胸を這って言葉を奪われた。袴の前紐を解かれ、背筋を何かが走る。不快感を逃れようと体を捩っても、片足を抱えられていては意味をなさない。
胸を弄る手が腹を滑り、帯を解く。顔が肌に近付き、鼻先が胸元を擽った。あの時の――アレとは違う感触。しかしあの時のことを思い出させるには充分だ。
胸だけでなく、脇腹や脚、腹筋や耳、足の付け根や性器、余すことなく全身を舐ぶるように這い回った、あのぬめった柔らかな感触。アレと舌の感触はよく似ている。
「……いつまでもつかな」
歯を食いしばったのは、上がりそうだった声を殺すためだけではない。制止も懇願も、言えばこの男を喜ばせるだけではないかと思ったのだ。そんなことはしたくない。
面白そうに笑う金色の目をきつく睨み返す。気持ちは負けたくなかった。