意識が浮上して最初に、澱んだ空気は黴の臭いが混じっていることに気付いた。おまけに湿っていて、気温が低いことだけが救いのような場所だった。その部屋の目的を後から考えれば、そんなものなのかもしれなかった。
驚くほどの静寂。脈を打つ己の鼓動だけがやけに大きく響いた。
(……室内なのは確かだな)
外であれば風の音、鳥の声、木々や草々のざわめきが聞こえるはずだ。だがそれらの音はゲオルグには届かない。
代わりに感じ取れるのは、とても衛生的とは言えない空気、人の気配がなさすぎる空間。おかしなところはそれだけではない。己の状態を悟れば、愕然とする。目を開けて確かめるまでもなく、一糸も纏っていないのだ。おまけに手足を拘束されており、頭は鉛を乗せられているかのように重い。
ファレナの太陽宮の地下、あるいはゴドウィン城の地下、または他の国の屋敷や城の地下。同じような空気を持つ場所にいたことがある。それらを思い返すまでもなく、敵方に捕まったのだと思う他ない。それ以外は黴臭い場所へ押し込められる理由が考えられなかった。
ゲオルグは決して臆病な男ではない。どちらかと言えば豪胆な部類に入る男だろう。だから恐怖はなかった。呼吸はそのままに、あたりの気配を窺い続けた。人の気配がまったくないことを確信すると、ゆっくり目を開いていく。そこで初めて、拘束されているのは両手足だけでなく、首もであることを知った。時代錯誤の奴隷か捕虜の扱いだ。後ろ手を拘束しているのはどうやら鉄製の枷だ。脚は縄か何かで椅子の足に括り付けられているらしい。
(念の入ったことだ)
黴臭い部屋に似合いの、薄暗い部屋。石で囲まれた部屋に装飾品は無い。あからさまに拷問部屋、というわけではなさそうだが、大差ないに決まっている。頭が重いのは、部屋の黴と埃のせいだろうか。
不意に、澱んだ空気が揺れた。次いで、ゆっくりとした足音が響く。目を開いてそちらを見た。明かりの乏しい薄暗がりの中、背が高い男が自分を見下ろしている。幸い暗がりに弱いというわけではないため、しばらくすれば男の容姿は見て取れた。
ゲオルグを愕然とさせるには充分な衝撃を与えられる。――ゲオルグがよく知る男に似ていた。いや、似ているなどと一言で表現するのもおかしい。瓜二つだ。本人だと言われたら、信じたかもしれない。髪の色も同じであったなら。
「起きてましたねー、ちょうど良かった」
声までも。
動揺を、奥歯を噛み締めて押し殺す。こんなところで弱みを見せるわけにはいかない。
「何があったか、覚えてますか?」
「……おおよそは」
「感謝して貰いたいなー。あんた、危うく厄介な連中に連れて行かれるところだったんだから」
まるで自分は厄介な人間ではないような口振り。そんなはずはない。
「相当怨まれてるんだねー。どこで買ったの?」
そんなことは知ったことか。
「それでこの待遇か」
「まー、一応ね」
「……ここはどこだ」
「おれの根城、の一室。黴臭いのが難点だけど、きっとすぐに慣れますよー」
ゲオルグが聞いたこととはわずかにずれた答えは意図したものか。
「ここから出せ」
「出来ない相談だなー。おれにも一応、面子があるしね」
だからゴメンねー、と軽い調子で言われても、少しも謝意を感じない。心から謝っているつもりもないだろう。
椅子の背の後ろで嵌められた両手の枷を、静かに引っ張る。金属の枷は頑丈で、ちょっとやそっと引っ張った程度ではびくともしない。脚の縄はその点だけはマシだが、切れる気配が見えないのは枷と同様だ。
首の枷はどうやら、家畜のように嵌められた首輪から繋がっている。これが一番、行動を制限するものかもしれない。
視線を感じた。値踏みするような視線。煩わしい。
「へえ、やっぱり女王騎士様ともなると、イイ体してますねー……元、でしたっけ」
陰鬱な場所に似合わぬ軽い口調でそう告げられたところで、嬉しいはずがない。裸にされた胸や肩を撫でられるのも不快だった。
よく知っているものだ。いや、ファレナなら女王殺しの下手人として触書が出回ったのだ。あるいはその人相描きを見たのかもしれない。だとすれば、ここはあの場からそう遠くはないか――単にこな男がファレナにいたことがあるだけか。
この男の顔は見ていたくない。顔を背けると、犬のように喉元に締められた首輪、そこから繋がった鎖が重い音を立てる。
「女王騎士様ともあろう方が、話している人のほうも見れないんですか?」
喉の奥で笑う声が癇に障る。わざと馬鹿にした言い方は、ゲオルグが何か反発することを期待してのもの。それに乗ってしまうのはいっそう癪だ。
男にしては細い指が、首輪から垂れた鎖を引っ張る。息が詰まり、仕方なく顔を上げた。視線を逸らしたのは顔を見たくないからだ。
腕を拘束されていなければ、こんな所すぐにでも脱出した。いや、あの時気を失わなければ。
悔やんでも悔やみきれないが、今は過去を嘆いている場合ではない。どうやってここを出るか、その算段を付けなければ。――容易ではないことはわかりきっているが、諦めて大人しく言いなりになるつもりはない。
「目を見て話を聞けないんですかー?……この顔が、そんなに嫌かなー。あんたの愛人と一緒でしょー?」
同じ顔、同じ声で言われるといっそう腹立たしい。
「貴様と一緒にするな」
睨み付けても、この男は動じる気配もない。それどころか楽しんでいるようですらある。
「いいなー、その顔。屈辱的で」
そそりますよ、と笑みを含んだまま言いながら触れてきた。指先で肩から胸を辿る。嫌悪感で肌が粟立つ。「でも、」
「立場はわきまえたほうが利口ですよ」
強く立てられた爪が皮膚を破り、赤い筋を残した。
「……触るな」
「命令できるのはあんたじゃない」
わかってるでしょ、と喉の奥で笑い声が響く。
わかっていても、言いたくもなる。元々、他人に馴れ馴れしく触れられるのは好きではない。最初から許せたのはカイルくらいだ。彼には不思議と嫌悪感を感じなかった。
おそらく、その頃にはとっくに惚れていた。――かもしれないから。
カイルと同じ顔をした男は笑う。
「いーじゃないですか、そんな嫌がらなくたって。……似てるんでしょー?」
「…………」
誰のことを指して言っているのかすぐに思い至る。わずかに眉が跳ねた。そのわずかな表情の変化も見逃さなかったのだろう、視線に笑みが含まれた。
「なんで知ってるかって? そりゃーね……蛇の道は蛇、って言いますしねー」
髪の色以外、何もかも同じで腹が立つ。嫌悪感、とは似ているが少し違う。
「もう少し友好的になったって、バチは当たらないと思いません?」
「仲良くする気はない」
「構いませんよ。仲良くなくたって、ヤれるから」
椅子に固定されたゲオルグの脚の間に立つと、片膝を折る。顔を覗き込んで来た次には、白い指が性器へ触れてくる。絡み付く指までが、記憶にある指と同じような感触に感じられた。――そんなところを触られたことはないのだが。
今度こそ嫌悪を視線に含ませた。
「そういう趣味があるのか」
「別に? 趣味とかじゃなくて、気持ち良ければ何だっていいでしょ」
根元から先端、鈴口を指が辿る。慣れた手つきは時間をかけず、ゲオルグの熱を煽る。
頭の中で気を散らしながら、与えられる刺激をやり過ごす努力をする。
「離せ」
「こんな状態にしたままで?」
「離せ」
一度目よりきつく言った。だが効果がないことは男の顔を見ればわかる。心底楽しそうに、猫のように喉を鳴らした顔が憎らしい。
「嫌ですねー。もっと追い詰まった顔が見たいですから」
見せて下さいねと弧を描いた唇は、固く閉じた目蓋に遮られて見ることはなかった。