目的の部屋の前に来ると立ち止まり、数度ノックする。
返事を待たずドアを開け、中へ入った。部屋の主は特に機嫌を悪くした様子もなく、苦笑をしつつもカイルを迎えてくれた。
「気が早いな」
その言葉には応えずブーツの踵を鳴らし、仕事を終え、着替えも済ませていないままのゲオルグへと向かい――抱き着き、その勢いのまま、ベッドへと押し倒した。
普段ならばウエイト差があり、易々とできることではない。おそらくゲオルグの虚を突けたのだ。だが喜ぶ気も湧かなかった。
カイルは無言のままゲオルグを拘束し、動こうとしない。
感情の動きは、ゲオルグには見えないはずだ。
「どうした?」
押し倒されて仰向けのまま、ゲオルグが静かに問う。しかし答えは返さない。口を開けば、八つ当たりをしてしまいそうだった。肩の上に顎を乗せるようにして顔を伏せた。
ゲオルグの両腕は自由になる。左腕が腰に回され、右腕で頭を撫でられた。抵抗はしない。
もう一度「どうかしたのか?」と問われると、そこでようやく言葉が聞こえたかのように伏せていた顔をゆっくり上げる。
「……何もありませんよ」
己でわかるほど声は硬く、脆い。まるで薄い氷のように。
表情も硬かったに違いない。何かあったことは明白で、ゲオルグに頬を撫でられた。てのひらは暖かい。
「そんな顔をしていて、か」
内心の動揺が隠し切れていない自覚はあった。しかしそれを指摘されたくはない。だから表情を変えずに言った。
「黙って大人しくしててください」
到底人に何かを頼む態度ではない。にもかかわらず、ゲオルグはカイルの要求通り無言で、さらには体を抱きしめてくれた。それだけなのに、安堵してしまう自分が苛立たしい。
布越しに、ゲオルグの体温が伝わる。体温だけでなく、脈や呼吸も。
――生きている。
そう思えただけで、先程は流れなかった涙が溢れそうになる。込みあがるものを堪えるために奥歯をきつく噛み締め、ゲオルグの肩甲骨あたりの布を握り締めた。
腰に回っていたゲオルグの手が動いた。先程と同様、その手は頭を撫でてくれる。子供をあやすような仕草は、普段なら怒るところだ。今はそれもできず、じっとしている。
何か言えば彼にわからないことで喚くことにしかならない。いっそそうできたら楽だった。しかし頑是ない子供のような真似をするには、カイルは大人になっていた。
てのひらはあくまでも優しい。記憶の端にあるかないかの親のように。
この男は己を弱らせるつもりなのか。
そんなはずはないと思ったが、すぐに目許の堤防は切れ、シーツに涙が染み込んだ。甘え方など知らない。誰も教えてはくれなかった。
どれほどそうしていただろう。流れた涙が乾いた頃、まだわななきそうな唇を引き締めた。
「ゲオルグ殿」
返事を寄越さないのはカイルが押し付けた要求を愚直にも守ってくれているからか。構わず言葉を続けた。
「抱いて下さい。――できれば目茶苦茶に」
また一方的な要求だ。ゲオルグには断る権利もある。
きつく抱きしめられた次の瞬間には、天地が入れ代わる。見上げる前に、目をてのひらで覆われた。
「見られたくないんだろう」
嫌な男だ。――よくわかっている。
装束を片手で手際良く剥ぎ取られながら、作られた暗闇に身を委ねた。
カイルがその猫と遭遇したのは、小雨降る午後だった。
たまに訪れる花屋を出た後、性質の悪い男たちに絡まれてしまったのは日頃の行いのせいだろうか。まともに相手をするのも馬鹿らしく、内容によっては同僚たちに小言を食らいかねない。酔漢を力ずくで追い払うのは容易いが、無駄な小言を食らうのはできれば避けたい。
そんな理由で一目散に逃走している最中に、身を隠した細い路地で出会った。
木箱の陰に身を潜めたカイルの足元で、細く小さく鳴く。眼が鋭いのは野良だからだろう。白黒のブチ柄は、その割に綺麗に整えられている。
「ここ、君の縄張り? ごめんねー、ちょっとだけでいいから居させて欲しいなー」
小声で頼むと、カイルを見上げている猫は仕方なさそうに溜息を吐き、顔を洗った。どうやら許してくれるらしい。撫でようと手を伸ばすと、気安く触るなとばかりに引っ掻かれ、離れられてしまった。さすがにプライドは高いらしい。
己の力だけでプライド高く生きていく。その姿は数ヶ月前に同僚となった異国の男にも似ている。もっとも、猫に好感を抱いたのはそれだけが因子というわけではない。
その後、お礼にと猫に魚をあげて以来、その通りを通るたびに魚か肉か、猫が食べるものを持参した。
警戒心の強い野良猫だ。カイルが近寄るのをしばらくは許してくれなかったが、足繁く通ううち、カイルの手から餌を食べてくれるまでになった。それが嬉しくてさらに通い、三週間が過ぎる頃にはようやく体を撫でさせてくれるまでになった。
冷たくなった小さな体を発見したのは、それから七日後のことだった。