foreboding

 ひとりの部屋に咳が空しく響く。
 視界は白かった。天井の白だ。その視界が滲みがちになるのも、体全部と吐く息が熱いのも、汗で寝衣が貼り付くのも不快でたまらない。
 腕どころか指を動かすのも億劫だが、部屋に誰もいない以上、カイルが自分で動くしかなかった。両腕を支点にして、ゆっくり体を起こす。
 熱を出すなど、何年ぶりのことだろう。
 思い出そうとしても、ここ数年は発熱の記憶はない。とするとまだ見習いの頃か。そういえば、慣れぬ王宮勤めに疲れるたび、熱を出していたのではなかったか。
 存外に繊細な奴だとフェリドに笑われ、幼かった王子にはずいぶん心配をかけてしまった。
 護るべき者に心配をかけてしまうなど、女王騎士としては失格かもしれない。だが、周囲に知った人間、まして心を許した人間などおらず、ひとりでこの部屋に寝起きするのは本当は心細かった。
 それを知ってか知らずか、寝込んでいた時にはフェリドや王子、時にはミアキスを連れたリムスレーアまでが見舞いに訪れてくれたのは本当に嬉しかった。
 戦争に参加し、我武者羅に戦っていたらそれなりの功績を立て、フェリドに取り立てられた。三階級特進以上の出世が信じられなかったのは周囲だけではない。
 だからこそ、フェリドにつまらぬことで迷惑がかからないように振る舞ってきた、つもりだ。朝は得意ではないが朝議に遅れたことはないし、公務は適度に手を抜きながらもやるべきことはやっている。
 貴族に付け入られる隙を与えてはならない。カイルが何か失敗をすれば、批難はカイルだけではなくカイルを取り立てたフェリドにも及ぶ。それは避けたい。
 そうやって気を張っているうちに熱を出すのだ。自業自得としか言いようがない。
「……?」
 唐突なノックの音に、視線をドアへやる。返事を待たずに入室してきた男に、心底驚かされた。
「すまん……起きているとは思わなかった.。無断で入らせてもらったぞ」
 音を立てずに扉を閉め、ベッドの傍までやってくる。
「起き上がって大丈夫なのか?」
 女王騎士らしからぬ短髪は艶やかな黒で、鋭い眼差しは肉食獣を連想させる金。がっちりした体躯を布地の多い女王騎士の装束で包んだ、カイルの年上の後輩、女王騎士長の旧友。
 手にしているのが剣でなく、籠なのが不可解だ。
「どうした? 熱でぼーっとしているのか? 喋る気力がなければ、首を振るだけでも良い」
 実際喋るのはひどく億劫だ。喋らないで済むなら、それに越したことはない。頷いて同意を示す。
 ふと体を起こしかけた不自然な体勢に気付いてくれたのか、クッションと枕で背当てを作ってくれた。遠慮なくもたれると、息を吐く。
 クッションに体が沈み込むのではないかと思うほど身が重い。健康な状態がどうだったのか、思い出すのも困難だ。
 差し出された水を受け取り、ほとんど一息でグラス一杯分空けてしまう。思っていたより体は水分を求めていたのかもしれない。
「ただの風邪なら眠って治すのが一番だな」
 ずるずるとシーツの中へずり下がっていくカイルに笑いながらグラスを受け取ると、そっと額に手を当ててくる。その手はひんやりとしていて心地好い。吐息が漏れた。
 ゲオルグが笑ったらしい空気の震えを感じる。何かと思って目線を上げるが、優しい視線に見つめられただけで、逃げ場のない居心地の悪さを感じた。
 フェリドがわざわざ国外から招いた友人のことを、嫌いというわけではない。現在いる女王騎士の中では、付き合いやすいほうの人間だろうと思う。
 異国でたいそうな将軍職に就いていたり、他にも活躍を風聞レベルで聞いたりもしたが、驕ったところもなければ高慢でもなく、堅苦しいわけでもない。雰囲気はまったく違うが、フェリドと似たタイプの人間だ。
 だが、どうしても身構えてしまう。
 それはこの男の纏う空気のせいかもしれないし、些細な言動に起因するものかもしれない。あるいは半顔を覆うようにしている眼帯のためかもしれない。
 いずれにせよ、この男に気を許すことは出来なかった。
 無骨に見えて存外機微に敏い男のこと、カイルのそんな感情も伝わっているはずだ。
 だからこそ居心地が悪い。
 よく思っていないことを知っているであろう相手とふたりきりでいて、落ち着けるはずがない。
 もしかしたらフェリドがこの男を寄越してくれたのかもしれない。今女王騎士たちは王子の視察の準備、王女の闘神祭の準備に追われている。生真面目な人間が大半を占める連中だ、フェリドの命令とあれば渋々であろうとやってくるだろうが、小言のひとつでも寄越しかねない。
 だからこその人選なのだろう。ゲオルグは小言を寄越したりはしないからだ。
 どう転んだところで、嬉しくはないのだが。
「……どういう、つもりなんですか……?」
 熱に溶けそうな頭のまま、ゲオルグを見上げる。
 わざわざ見舞いに来るなど弱っている様を見て笑いに来たのか。そんなことがあるはずもないが、熱のためか卑屈な感情に囚われた。
 ふと、ゲオルグが微笑む。
 その微笑が、怖かった。
 傍から見れば――いや、カイル以外の者が見れば優しいだけの微笑だったのだろう。熱を出していなければカイルもそう思ったに違いない。後になってこの時のことを思い出した時、やはり自分の感覚は正しかったのだと思い知ることになる。
 手が伸ばされた。縊られるのではないかという予感は、しかし外れた。身を固くしたカイルの、寝乱れた髪を梳くように、頭を撫でる。
 屈み込んだゲオルグが、カイルの顔を覗き込む。表情はあくまで気遣わしい。「どういうつもりも何も、」
「単なる見舞いだ。……早く治るといいな」
 撫でる手は、予想外に心地良い。払いのける気力もなくそのままにしていると、いつまでも撫でている。まさか寝付くまで撫でるつもりか。
「起きているのは体に毒だろう。一応食えそうなものを持ってきたが、食える時に食え」
 そう言うと、テーブルに置いた籠を示す。何かと気になっていたが、食べ物だったとは。意外にマメな性質なのだろうか。今はともかく、ありがたいには違いない。
 固い指が、額から後頭部へと頭を撫でる。段々力が抜けてきた。眠気に再び狙われている。抗えるとは思っていない。
 なおも撫でられ続け、瞼は完全に落ちてしまった。気配はまだ、傍にある。
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