旅に出て

 ファレナを出て数日、特に当てがあったわけではないが、ゲオルグとカイルは二人で北へ向かっていた。
「雪を見ながら温泉に浸かってみたいですー」
 とカイルが言ったからだ。アストワル山脈で散々寒さと雪に悪態をついていたことを忘れたらしい。
 ゲオルグに異存はなく、北の大陸へふたりで赴いた。
 大陸の地図を広げて検討し、ある山にターゲットを絞ってそこへ向かう。山の麓に辿り着くまで、二週間以上を要した。続いて装備、防寒を整えて天気の良い日を選んで登山を決行した。
 山の天候が変わりやすいことは知っていたが、何も気持ち良い青空から猛吹雪に変わることはないと思う。
「さ……寒いってもんじゃないですよこれ寒い――!! 痛い――!!」
 がちがちと噛み合わない歯を鳴らし、カイルが喚く。アストワル山脈でもずいぶん寒そうに凍えていたカイルに、せめてと思い首元まで起毛の毛皮で覆われた暖かなコートを買ったし上にマフラーまで巻いているが、それでも寒いらしい。ちょうど進行方向から吹いてくる風に、ゲオルグを盾にするようにして歩いている。
「我慢しろ。あともう少しだ」
「もう少しってどれくらいですかー?!」
「この坂を越えたら、だ」
 坂の上限は見えている。あとは歩くだけだが、強烈な風が吹き付けてきて、ほんのわずかに気を抜いただけでも吹き飛ばされるのではないかと思う。
 天候が良ければ、昼を少し過ぎた頃には山間の村に着いて、それこそのんびり温泉に浸っていられるはずだった。行程の半ば過ぎからの悪天候で、昼はとっくに回っている。もしかしたら夕方が近いかもしれない。
 こんな吹雪で日暮れを迎えるなど、たまったものではない。カイルの手を引きながら、脚を前へ前へと進めた。
 
 
 
「うわー、なんかすごいですねー!」
 部屋に入った途端、カイルが歓声を上げる。
 あちらこちらと子供のようにキョロキョロと見回っているカイルを見れば、相場より値が張る宿代も惜しくないと思う。
「わっ、ちょっとゲオルグ殿、こっち見てくださいよ!」
 わざわざ示さなくとも、部屋に入るなりそれは嫌でも目に入る。ふたつ並んだベッドに向かい合うように作られていたのは浴室だ。――ガラス張りの。廊下側の壁面以外がすべてガラス張りなのは何故だ。窓側は、窓一枚隔てた外の景色を見るためなのだろうと理解できる。だがベッド側の壁をガラスにする意味は何なのか。
 一応さりげなく確認したが、連れ込み宿の類ではなかったはずだ。この部屋を設計させた人間の顔が見てみたい。何を考えて温泉宿でこんな趣向を凝らしたのかと。
「これ、お湯は温泉なんですかー?」
「ああ……さっきそう言っていたから間違いないだろう」
「へー……」
 面白い面白いと連呼し、ブーツを脱ぐと早速浴室へ入り、色々見回っているようだ。
 ゲオルグはと言えば、コートを掛けると大きな窓から見える雪景色を一瞥し、ソファの代わりとばかりにベッドへ腰を下ろした。風変わりな内装はともかく、寒風をしのげるのはやはりありがたい。まだ暖房は効いていないが、充分温かいと思った。
 寒さで緊張した体が、ほんの少し緩む。
「カイル……、」
 ずいぶん寒がりのようだったから先に風呂で暖まったらどうだ、と言いたかった。
 言う必要もなく、カイルはすっかり裸になって猫足のバスタブに身を沈めようとしている。
「あー、お湯が溜まってからにすればよかったー」
 浴室独特の反響がカイルの言葉を揺らす。どぼどぼと湯がバスタブを満たすまで、まだ時間はかかるだろう。
「どーせならゲオルグ殿も入りませんかー?」
「湯が溜まるまで寒いんだろう」
「あったりー」
 肩や上半身が寒いと訴えを寄越すが、半ば以上は自業自得ではなかろうか。
 ともあれ、そのままにして風邪を引かせるのも癪だ。せめてもの抵抗に大きく溜息を吐くと、服に手を掛けながら立ち上がった。
 服を脱ぎ捨てると、くるぶしの中程しか湯が溜まっていない浴槽に向き合って入り込む。浴槽は男ふたりが入るにはさすがに狭かったが、充分に脚を伸ばせるだけの広さはあった。
 目の前に入ってやったというのに、カイルは不満を隠さない。
「どーしてそっち側に行くんですかー」
 口を尖らせると、わざわざ正面からゲオルグに抱き着く。素肌は温まっておらず、ひんやりとしていた。
「こーしないとあったかくないじゃないですか」
 言い訳がましく言うと、頬を鎖骨のあたりへ擦り付けてくる。おまえは子供か、とは胸の中だけに留め、背に腕を回した。
「それはそうかもしれないが……」
「でしょ。それにー……」
 顔を上げたカイルがにこりと笑う。
「温まるのはお湯で、だけじゃないって思いませんか?」
 わかりやすい言いように、ゲオルグは口の端を持ち上げた。ひんやりした背と、肉の薄い頬を撫でる。
「誘っているのか」
「そーです」
 臆面もない言いように喉の奥で笑い、改めて抱きしめた。
 
 
 
 結局溜まり始めた湯を換え、浸かり直すと夕食の時間は間近だった。広い食堂はそれぞれの卓に囲炉裏があり、個室風の造りになっている。
 味噌を使用し、山の幸や猪、鹿や兎の肉をふんだんに盛り込んだ鍋料理や山菜を白胡麻であえたもの、何より名産だという地酒が胃に染み渡る。自覚はなかったが疲労はあったのだろう、酔いの回りが速い。
 それはカイルも同様だったようだ。
 食事の大半を食べ終わり、ゲオルグはデザートに取り掛かっていたが、目の前のカイルはうつらうつらと頭が前後に振れている。雪山登山を強行した上に、風呂場でも体力を使ったのだから、当然と言えるかもしれない。
 宿で手作りしているという白玉あんみつをすっかり平らげると、カイルの肩に手をかけた。
「おい……、戻るぞ」
 このまま寝かせてやりたいのは山々だが、部屋まで運ぶのにどう抱えたものか頭を悩ませるより、自力で歩けるならそうしたほうが良い。
 幸い、不明瞭ながらも返事を寄越したカイルは自分の意思で体を動かせる状態にはあった。
 それでも目は半分以上閉じた状態であるため、体を支えてやらねば倒れてしまう。仕方ないなと苦笑しながら、腕を脇から回して支え、部屋へと戻る。背が高い割に重さは伴っていないが、真っ直ぐ歩こうとしない男を運ぶのは、なかなか一苦労だった。
 ベッドでシーツを抱き込むように眠っている男は、幸せそうな表情をしている。その頬を人差し指の背で撫でた。暖かいのは酒のせいかもしれないが、冷たいよりはずっと良い。
 顔を近付けると、頬と額にひとつずつ唇を落とす。髪を指でひと撫ですると、「明日が楽しみだ」と独り言のように呟いた。
 ふたりでいられる時間は、これからいくらでもある。焦る必要も焦れる必要もないとわかっているからこそ、ゲオルグの口許には笑みが浮かんだ。
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