日の光に瞼を射られ、小さく呻いて目を覚ました。体は怠かったが、気分は悪くない。
隣の体温に惹かれるように傍らを顧み、光を受ければきらきらと輝くはずの金の髪へ手を伸ばす。髪に口付けると、起こさぬように何度か梳いた。身なりをよく気にしている彼らしく、長い髪は滑らかで手触りが良い。
どんな宝石も、この黄金には敵うまい。
そんな馬鹿なことを真顔で思うほどには、浮かれている己がいることを自覚した。左手を己の口許を覆うように宛てると、深い溜息を吐く。白い石造りの天井を見上げた。
本当に、浮かれてしまった挙句の暴走としか言いようがない。ゲオルグ自身は自分を理性は強いほうだと思っていたが、自己評価を変えなければならないかもしれないと思い直すほどにはひどい。
(……体力の違いも考慮しなかったな)
できるはずもなかった。できていれば、やり過ぎたことに対して反省などしない。目を閉じれば、昨晩のカイルの媚態が脳裏に浮かぶ。
名を呼ぶとカイルの顔が見る間に歪んだ。
泣き出してしまうのではないかと思った次の瞬間には、両腕で顔を隠されてしまった。どうしたのかと問うても、かたく閉ざされた唇から返される言葉はない。再度名を呼べば、優しくするなと言う。
震える体に愛しさが募り、明確な意図をもってカイルをベッドへ押し倒し、口付け、肌に触れた。いつもと何か違ったことをしたわけではない。あえて言うなら、心情が多少違ったくらいのものだ。
わななく唇、かたくなった体。隠された顔は、多分赤かった。
それまで抑えておくのも一苦労だったが、腕が外れて涙に濡れた双眸を見た時には理性の歯止めはあっさり飛んでいた。徐々に乱れる息、確実に高まっていく体。どれだけ欲を煽れば気が済むのか。カイルにそのつもりはなかったのだろうが、そう思った。ゲオルグが我を忘れるには充分だった。
カイルがいつから両腕でしがみついてきたのか、よく覚えていない。乱れた彼は腰を揺らし、よがり、爪を立て、焦らせばねだってきた。いつもより奔放な、いや淫らだったのは己のせいだと自惚れて良いのか。確認したくて何度もねだらせた。
そのせいかどうかはわからないが、最後にはカイルは気を失ってしまったようだ。ゲオルグにしても夢中で、いつ体を離したのか覚えていない。
視線をカイルへ移す。ゲオルグよりずいぶん白い顔は、疲労が消えていない。それ以外に情事の名残らしきものは見当たらなかった。額に唇を触れさせれば小さく身動ぎしたが、起きる気配はない。
言葉ではなく、態度でわかった。あれでわかるなというほうが無理だ。気付くなと言われても、気付かざるをえない。とんでもない自惚れか勘違いか、いっそそのほうがよかったかもしれないが。
最初の過ちの夜からずっと、憎悪されていると思っていた。酒の勢いから始まった関係を、カイルは嫌悪しているものとばかり思っていた。続けているのは意趣返し、あるいは何か思うところがあってゲオルグを利用しているのだと。
そうではなかった。少なくとも、あの時点では。
想いが通じ合ったわけではないが、好いた相手に好かれているのがわかって、喜ばないはずはない。
自分勝手なものだと改めて思う。
己の気持ちを告げる気がないくせに、相手も同じ情を抱いてくれているのではないかと思うと、それを確めたくて仕方がなかった。嫌だと言われても、行為を止められなかった。すまないとも言えず、触れる唇、弄る手を優しくするしかできなかった。
(去る者が、未練がましい……)
溜息を誤魔化すように指先で枕やシーツに散らばる金髪を撫でた。さらさらとした髪は長く艶やかで、指の間をするりと抜ける。
風でありたいと思う。誰に対しても。
友であれば、不変的な何かが残る。十数年音沙汰なかったフェリドが便りを寄越したように。帝国で背を預けられるほど信頼できたテオのように。
朋友、盟友、仲間、そういった間柄には一定のルールがある。凭れ過ぎても寄り掛かられ過ぎてもダメだ。他人との関係の構築にあっては、少年時代から卒がなかったと思う。
だが、カイルは。
友情と言い切るにも仲間と言い切るにも、いささか踏み込み過ぎた。いくらでも距離を置く機会はあったのに、そうしなかった。馬鹿だとしか言いようがない。拳を強く握る。冷静な己が警告を発している。踏み込み過ぎだと。
(わかっている)
あんな風に抱くのは昨晩限りだ。カイルの気持ちがわかったことも悟られてはいけない。――戦いが終われば、去るのだから。去る者が残る者に何かを残すのは、ゲオルグの信条に反する。
(友情以上の気持ちを残しても、辛いだけだろう……)
本当に怖れているのは、去るにも関わらず誰かを胸の中に留め置くことだと知っていた。にも関わらず躊躇し苦悩するのは、迷いがあるからだ。己にそんな女々しさがあると信じたくなかったが、理解せざるをえない。
(――愚かだな)
己に対してまた溜息を吐き、右腕に視線を移した。負傷したことが夢だったのではないかと思うほど、綺麗に塞がっている。
怪我を負ったのは己の責任であり、余人はまったく関係ない。毒まで喰らったとはいえ、死ぬような怪我ではなかったことが幸いだった。帰着が予定より遅くなってしまったことは失敗だったと思う。それも闇に負傷を隠せるのだから、プラスマイナスはゼロかもしれないが。
のろのろと上体を起こしてヘッドボードへ背を預ける。改めて己の利き腕を見下ろした。色々な角度から見、薄らとも痕が残っていないことに驚かされる。ゲオルグは魔法を好きではないが、回復に関してはそうも言っていられない。毒まで消してくれる上、すぐに動けるようになるのはありがたかった。
(感謝しなければ……)
結果としてカイルがこの部屋にいたのはゲオルグにとって幸いだった。深夜に医者の手を煩わせることがなく、ゲオルグが毒を伴う怪我を負ったことも、怪我の程度も、カイル以外に知られずに済んだからだ。
(……カイルには、伝わってしまっただろうか)
ゲオルグの、カイルに対する想い。隠していても自然と現れてしまうものだと古の人は言う。ならば昨晩ほどわかりやすかった日はあるまい。カイルの様子を伺い、気持ちを引き出すことに夢中で、己の気持ちを抑え、隠すことを忘れていた。まるで少年のように余裕がなかった。伝わってしまったとしても不思議ではない。後は、カイルにゲオルグの想いに気付くほどの余裕があったか否かというだけだろう。
少しでも好いていてくれるなら、嬉しい。だが、気付かないでいて欲しい。
身勝手は充分過ぎるほど承知しておきながら、そう願う。
(本当に、勝手だ)
何度目かわからない溜息を吐くと、身を起こしてベッドを離れた。体を清めた後は、軍師への報告をしなければならない。夜が明けて間もないが、充分すぎるほど遅れている。その後に食事をする時間を取ってよいかどうか考えながら、静かに部屋を後にした。
久々に本拠地に戻ってはきたものの、戦時中であればなかなかゆっくりする時間は取れない。軍師の提案で群島諸国へスカルド・イーガンに会いに行くことになったは良いが、その日一日は旅立ちの支度に丸々費やした。
愛用の刀を研ぎに出し、痛んだ防具を売り、新しいものを買う。ゼガイだけでは手が足りなさそうだった武術指南も行った。
「ゲオルグ、休んだら?」
十以上年下の王子に声をかけられたのは、チーズケーキを道具屋で購入した後だった。母親によく似た面差しで、気遣わしげにゲオルグを見上げている。いつも彼に付いているリオンも頷いた。
「休むほど疲れてはいないぞ」
「そう? でも、怪我を負ったって聞いたけど?」
「……誰から?」
見張りの兵士にばれたはずはない。篝火があったとはいえ、マントの下になんとか隠れていたのだ。血の匂いに敏い者も、昨夜は遭わなかった。
王子の口からもたらされたのは、ゲオルグの予想とはかけ離れた答えだった。
「朝一番で南の国境近くの集落から、伝令が届いたんだ。夜に外出していた親子が、黒髪隻眼のやたら強い男に助けられたってね。名乗らなかったけど、セラス湖のほうに向かってたから僕の仲間の誰かじゃないかってね」
ゲオルグのことでしょ、と微笑む。理由がわかってしまえばなんてことはない。隠す必要もないので頷いた。
「大丈夫? ちゃんと診てもらった? シルヴァ先生のところには行ってないって聞いたけど……」
「大丈夫だ。カイルが癒してくれた」
耳が早いのは、報告を受けてすぐに救護室へ行ったのだろう。それでも王子は顔を見上げてじいっと見つめてくるので、頭を撫でた。
「……嘘だと思うなら、俺の体を調べてみるといい」
笑いながら言えば、リオンと顔を見合わせた王子はひとつ頷き、ゲオルグの体に触り始める。
この王子はよほど心配性なのか。苦笑は内心に留めて笑み、体の至る所をチェックしている二人の好きにさせた。しばらく顔を合わせていなかったせいもあるかもしれない。正確には、合わせないようにしていたのだが。
そういえば言えないでいる話がここにもあった。
カイルに対してと違うのは、いずれはきちんと話をしなければならないということだが。話をするタイミングを見計らっているのか避けているのか、己でも計りかねたが、いずれにせよ他人が評するほどには強靭ではない。だが平然としていなくてはならない。
二人は真剣な顔でシャツの上からゲオルグの体を撫でたり叩いたりを繰り返していたが、ようやく気が済んだのか顔を見合わせ「良かった、本当に大丈夫そうだね」と笑顔を見せた。仲の良い兄妹のようにも見える二人の様子は微笑ましい。
服を整えながら「それより、」と話題を転じる。
「ニルバ島へ連れて行く仲間は決めたのか?」
「うん、だいたい。ベルクートさんとリヒャルトにお願いしようかなって思ってる。あとひとりは考え中。戦いにいくわけじゃないから、少人数でも大丈夫かなって思うけど」
カイルの名が上がらなかったことに内心でほっとすると、それを読んだようなタイミングで王子が言葉を足す。
「カイルは留守番するって。珍しいよね、いつも連れて行けってうるさいのに」
「……サイアリーズが残るからじゃないか?」
何かを訊かれたわけではないが、とっさにそう言ってしまった。あながち的外れなことではない。王子も素直に頷いた。
「そういえばそうか。カイル、本当にサイア叔母さんを好きだね」
「先程もサイアリーズ様といらっしゃいましたし……」
「おかしいよね、カイルって僕より年上なのに、ああいうところを見ると、同じくらいか年下に見えるんだから。サイア叔母さんと姉弟みたい」
おかしそうにその時の様子を教えてくれるふたりに、ゲオルグは曖昧な笑みを浮かべたまま相槌を打った。そしてひとしきりカイルとサイアリーズのこと、明日からのニルバ島のことを話した後で別れた。
夕食の時間にはまだ少し早かったが、食堂が混む前に食事を済まそうと、主塔の階段を下りる。窓がない分、閉塞感があるのは仕方がないが、地下ということを感じさせない程度には明るい。
魚と野菜のバランスのとれたメニューに、スープとデザートを追加して、空いた席に腰を落ち着けた。喧騒というほどうるさくもない雑音は、ゲオルグを思考の海に浸らせるには充分なBGMだった。
カイルとは、朝に寝顔を見て以来、会っていない。どういう顔で会えばいいのかわからないのはお互い様で、これではまたいつかの繰り返しだということはわかっている。
意識的に部屋へ戻らないのが悪い。それもわかっている。せめて何か会話を交わすべきだと理解していても、何を話せばいいのかわからない。
(考えるだけ、無駄か……?)
軍師のように頭が回れば、気のきいた台詞のひとつやふたつ、出るかもしれないが――生憎ゲオルグはそういったことには向かない男だった。
ということは、やはり考えるだけ無駄なのだろう。心構えだけ作っておいて、後はその場をしのごうと心を決める。できれば同じことは繰り返したくなかった。
美味いはずの食事を味気無く済ませてしまうと、食器を返して自室へと戻った。
カイルは部屋にはいなかった。夜中に至るまでさりげなく探したが、結局捕まえることはできず、翌朝の旅立つの時を迎えてしまったのだった。