鼓動の正体

 主のいない部屋は、寂しく見える。そう思うのはカイルの主観だ。シーツも床も手入れは行き届いている。清潔感はあるが、どこかよそよそしい。人の気配や生活感がない分、部屋に温かみが薄い。そのせいだろう。
 風呂上がりの夜衣姿でゲオルグのベッドに寝転がる。軽くベッドが軋んだ。
 課された任務のため、ゲオルグが部屋にいる時間は少ない。それを良いことに、カイルはゲオルグの部屋を根城にしている。一応、本人の了承は得ているので不当占拠ではない。主が戻ってくれば大人しく出て行きもするし、時間を共有することもある。嫌がられたことは一度もなかった。もっとも、ゲオルグが何かを拒絶するところなど、カイルはほとんど見たことがない。度量が大きいのか、瑣末事を気にしない大雑把な性格なのか、判断しかねる。もしかしたら関心がないのかもしれない。
(ほんとに、何で嫌がらないかなー……)
 腕を枕に、白い天井を見上げる。湖水に浸かっていた割に染みや藻ひとつ見当たらない。壁は厚く、遮音性も高い。プライベートを重んじた造りだが、その分他の部屋の異変に気付きにくい。もっとも、大人の事情を優先するのなら、そのほうがありがたいに違いない。仲間たちに悟られたくないようなことを何度もこの部屋で行ってきたカイルにとって、失われた民の遺産はその程度でしかない。もちろん、相手がいないとそんなことはできないわけだが、現在その相手は外出中だ。
(わからない人だなー……)
 掴み所がわからない。洞察力が足りないだけではないと思いたい。彼が悟らせないようにしているのだ。フェリドもそういうところがあったが、カイルにとってはゲオルグのほうが難解なパズルだった。わかっているところなど氷山の一角ではないかと思える。
 溜息を吐き、天井に翳した手を見る。骨張った指は長く、ぱっと見では華奢な印象を与えるかもしれないが、剣を扱う者らしくそれなりに固い。ゲオルグの指も関節は骨が目立つが、やや肉厚なところがカイルと違う。ごつごつしていて、男っぽい手だ。
 あの指に、手に、今までどれだけ乱されただろう。今ここにいない、部屋の主を頭に浮かべた。
 ゲオルグについての疑問ならくだらないものから真剣なものまで、いくらでもある。
 甘いもの以外に執着するほど好きなものはないのか。
 どれだけ鍛練して今の強さがあるのか。
 本当は、あの夜のことをどう考えているのか。
 拒絶しないのは何故か。
(……今更だよなー)
 聞けば答えてくれるかもしれない。彼は誤魔化すことはしない男だから。だがタイミングを逃した問いは発されることもなくカイルの胸に蟠り続けた。ひとりでいる時に疑問は沸き上がる。
 何度も何度も考えては、思考の迷宮に嵌まった。ひとりで考えて、答えが出るわけがないのだ。ゲオルグにしか答えられないのだから。
 溜息を吐き、手を握っては閉じる。
(いつ帰ってくるのかな……)
 帰って来たからといって答えが得られるわけではない。だが、顔を見れば安堵する。話が出来れば嬉しいと思う。王子にとってのゲオルグ同様、カイルも彼を信頼しているからだ。少なくともカイルはそう考えていた。
 もしゲオルグに余裕があれば、武術指南をしてもらおうか。誰かの指南をしているところを見せてもらうのも良い。動きを見ているだけでも得られるものはあるし、初めてゲオルグがフェリドと手合わせをした時の、あの鮮やかな剣捌きが忘れられない。
 尊敬していたフェリドに誰より近い剣。憧れでもある。
「早く帰ってくればいーのに……」
 王子も顔を見たがってましたよ、とここにはいない人に宛てて呟くと目を閉じる。疲れていた自覚はなかったが、意識はあっという間に暗闇に飲まれた。
 
 
 
 人の気配と何かの臭いに気付いて目が覚め、視線だけ素早く室内を見回す。感じた気配に間違いはなく、窓から斜めに差し込む蒼い月光が照らしたのは、ゲオルグだった。
(あ……ベッド、避けないと……)
 今帰ってきたところなら、疲れているだろう。すぐに発つことはないだろうから、少しでも休んでもらいたい。そう思って身じろぎしかけて、臭いの元に気付いた。
 鉄の臭い。
 月明かりに照らされたゲオルグの右腕に見える、黒ずんだ染み。
 まさか、と背を向けた体を窺う。よくよく見、彼がどういう状態であるのかを知ると、血の気が引いた。勢いよく身を起こすと、ベッドから下りる。月明かりを背にしているから、カイルの顔色まではっきりとわからないはずだ。わかったとしても、月明かりのせいだと言えば誤魔化せる気がした。
「起こしたか……すまん」
 そんな言葉が聞きたいわけではない。
 カイルを顧みたゲオルグがあまりにも常と変わらない様子でいるので、今度は怒りが湧いた。
 何故、平気にしていられるのか。
「……どうした?」
「どうした、じゃないですよ……」
 ゲオルグをしばらくじっと見つめると視線を落とし、溜息を吐いた。
「普通、まず医者のところに行きませんか?」
 それとも痛覚いかれてますか。
 氷点下のように冷ややかな声を発してしまったことに己で驚いたが、構わずゲオルグの右肘を力任せに掴む。さすがのゲオルグも、これには眉を顰めた。声を上げないのは気に食わないが、痛がってはいるのだろう。当然だ。ゲオルグが服を脱いだから余計にわかるが、肉が抉れている。
「カイル……」
「痛覚は生きてるみたいですね。良かったです。言っておきますが、文句は聞きませんよ?……水魔法使いますからじっとしててください」
 言いながら、水の紋章を宿した右手を肘に翳す。短い呪文を唱えるうちに手の甲から淡い蒼の光が発され、術者であるカイルにも清涼感を与えた。
 痛覚がないわけではない。傷口は、怪我を負って間もないものだった。にもかかわらず、どうして大丈夫だなどと言えるのか。利き腕を、毒による攻撃を受けていたくせに。剣士なのだから、利き腕が使えなくなれば今までのようには生きていけなくなる、それくらいはわかっているはずだろう。戻ったらまず、医者のところへ行くべきだ。あるいは、苦手なりに水魔法を宿して利用すべきだ。
 この男は己の力を、運を過信しすぎてはいないだろうか。それを油断と言いはしないだろうか。油断で命を落とすことがあると、傭兵をしていたゲオルグが知らないはずはない。戦場の経験が少ないカイルですら知っているのだから。
 ゲオルグが怪我を負い、極論として、死ぬところは見たくない。かといって、知らぬところで野垂れ死にされるのも嫌だ。そう思う人間がいることを、この男は知っているのか。知っているなら残酷すぎる。そこまで酷い男だとは思いたくはない。
 淡い光が消えてしまう頃には、傷口は痕もなく塞がっている。布を濡らして血を拭ってしまうと、怪我を負った痕跡は消えてしまった。ついでに傷口を掴んだ自分の掌を拭うと、布をテーブルに放り出す。
「すまん。ありがたい」
 そう言ってゲオルグは笑う。
 笑うところなのか。カイルは唇を噛んだ。そのまま俯いていると、抱きしめられる。礼のつもりか。
 抱きしめられた体は己でもわかるほど震える。無様だとカイルは思う。ゲオルグにはカイルの心配はわずかなりとも伝わってはいないだろう。それなのに彼の腕は温かく、力強くて優しい。カイルは拳を強く握った。
「ゲオルグ殿……離して下さい……」
 声は渇いて強張った喉に張り付き、震える。カイルは自分が泣きそうだということに気付いた。早く体を離し、背を向けて眠ってしまいたい。握った掌に爪が食い込む。
 カイルがそう願うのとは裏腹に、抱擁はかえって強くなる。普段ならすぐに離される。言って要求を聞いてもらえないことは少なく、困惑させられる。
(また……何かあったのかな……?)
 時々ゲオルグはこんな風におかしくなることがあった。ルナスから帰ってきた夜、レインウォールで再会した夜、レルカーが仲間になった後に帰参した夜。
 何かあったのだろうと察せられる日の夜は、いつもゲオルグらしくなかった。ゲオルグほどの男をおかしくさせた原因が何なのか問うたことはなかったけれど、本当は訊いてみたい。
(何があったんですか……?)
 一歩踏み込むには、カイルに勇気がなさすぎた。
 しかし今宵は何かあったような雰囲気ではない。何だというのか。
 ゲオルグの素肌の背中を抱きしめた。ほんの少し冷えた皮膚は、カイルの体温が移るとすぐに温かくなる。首元に耳を付けるようにして頭を預ければ、ゲオルグの鼓動が聞こえた。そっと、怪我を負っていた右肘に指を滑らせる。血の痕すら残ってはいない。
 生きている。
 そう思っただけで目の奥が熱くなりそうになる。ゲオルグのことになると、時々そうだ。情緒不安定になってしまう。こんなに己は弱かっただろうか。
 王子やサイアリーズ、リムスレーアのことを考えている時には、最終的には「もっと強くなろう」と気持ちを強くすることができる。フェリドやアルシュタートのことを思い出すと、少し泣けそうになって困ることもあるが、あの二人はカイルにとって特別だった。ゲオルグのことで感情が動くのとは、少し違う。
(どうして……)
 こんなに揺れてしまうのだろう。どうして、この腕の中はひどく安堵してしまうのだろう。ゲオルグにだけ。
 フェリド、アルシュタート、サイアリーズ、王子、リムスレーア。
 大切な人たちの顔を思い浮かべていくうち、気付いてしまった。
 王家の人々に対する情は、家族に対する者。あるいは、家族というものに対する憧憬のような想い。ゲオルグに対する情とは明らかに違う。
 誰よりゲオルグのことが気になる。
(まさか……)
 そんなことがあるだろうか。今まで考えもしなかった。いや、無意識に考えないようにしていただけか。今まで思考を掘り下げなかったから、唐突に湧いた結論に、頭がついていかない。
 ゲオルグに、恋情を抱いているかもしれない、だなんて。
 女好きで、不実。そんな自分が何をとち狂っているのか。男にそんな感情を抱いたということ以上に、相手がゲオルグだということに驚かされる。
 思考を誤魔化すためにゲオルグの肌に口付けた。背に回していた腕に、力をこめる。震えはいつのまにか止まっていた。
「……カイル?」
 訝る声には答えなかった。
(こんな虫の良い話、ないな……)
 今更――そう、今更だ。想いを告げたところで、一笑に付されるに決まっている。酒の勢いで行為に及び、その後に女性相手に勃たなくなったからと彼を責めたのは誰か。ゲオルグの罪悪感を利用して今日まできたのは誰のせいか。
 ゲオルグがカイルに一片の情を抱いていることはありえず、彼は彼でカイルとの関係を利用しているだけに他ならない。体で誤魔化せる靄を晴らしているだけだろう。そこに何某かの情が介在していることを期待するのは身勝手だ。
(……心の中で……想っている分には、良いですよね……)
 殺して、消して、なかったことにできる程度の情なら、負傷したゲオルグを見てあんなに動揺しなかった。情を抱いていると自覚した今、過去の己を殺してしまいたいほど、こんなに苦しいこともない。自覚すると、苦しさがいっそう増した気がする。
 知られた時が恐しい。罵裡雑言を浴びせられるだけならば良い。
 もう、あの穏やかな顔が見られなくなったら。
 耳に心地良い声が刺々しいものに変わったら。
 耐えなければならない。少なくとも、太陽宮を――リムスレーアを、王子の元に取り返すまでは。ゲオルグは王子のために戦争時以外は舞台裏で働いていて、おそらく何があってもこの戦いに決着がつくまでは支えてくれるはず。
 だが、それが終わってしまえば。ゴドウィンが流した偽報とはいえ、女王殺しの汚名を着せられたゲオルグが大人しくファレナに残り続けるとは思えない。フェリドもゲオルグのことを「根無し草」だの「はぐれ雲」だの評していた。だから去ってしまうはず。きっと後ろを振り返ることなくこの国を離れ、次の国に落ち着く頃にはカイルのことなど忘れてしまうか、「そんなこともあった」と思い出になっていれば良いほうだ。それ以上の繋がりを、絆を作っているとは、とても断言できない。
(本当に……体だけの繋がりなんだな……)
 改めてつきつけられた現実に打ちのめされる。心が通い合った上で肌を重ねるのであったなら、こんなに動揺し、落ち込み、落胆し、悲嘆することもなかったかもしれない。
「……どうした?」
 静謐を壊すことを畏れるように、ゲオルグが囁く。カイルはただ首を左右に振った。
 ゲオルグが己から離れたらどうするか。
 元々顔の造作も体格も、人並み以上に良い男だ。ファレナに来る前も、女性がこんな良い男を放っておくはずがない。相手に不自由することはなかっただろう。カイルにしても、ひとりの男としてゲオルグに負けるつもりはないが――違う、そうではない。
 ゲオルグが、他の人間とそうなるのが嫌だ。
 そう思う感情の出所を何と言うか、カイルは知っている。己には無縁だと思っていた感情だ。
 懼れ、カイルはゲオルグに回した手にさらに力をこめた。
「カイル……」
 ゲオルグの抱擁が緩む。顎を取られ、上向かされると口付けられた。鳥が啄むような、触れるだけの口付けを繰り返され、次いで舌を絡める。続けていくうち、夢中になって舌を追った。
 口腔内を侵し合い、ベッドへもつれこむ。繰り返される口付けに、脳の芯が痺れた。
 こんなキスは止めてくださいと、喉まで出かかった。体を弄る手から、身を捩って逃げてしまいたい。そんな風に触らないでくれとゲオルグを詰りそうになるのを、必死に堪えた。今更純情ぶって逃げても、変に思われるだけだ。
(どうして……)
 触れる手や唇は優しいのか。今どうしてカイルを求めようとしているのか。ゲオルグを求めていることを悟られてしまったのだろうか。そんなはずはない。
 しばらく人肌に触れていないだけだ。きっと一時の欲求不満を解消できれば、それで良いはず。――今までゲオルグから求められるたび、何度もそう納得してきた。今回もそうなのだと、頭では納得している。
 それなのに、どうしてこんなに悲しいのか。
(ゲオルグ殿……どうして、)
 触れる手や唇が、そんなに優しいんですか。
 優しく触れられれば触れられるだけ、悲しみが増す。
 一体いつから自分がこんな想いを抱いていたのかわからない。わからなくても、今この胸が苦しいのは事実だ。胸が締め付けられ、押し潰されるように苦しい。
「カイル……」
「……っ」
 咄嗟に顔を逸らした。
 ――そんな風に呼ばないで下さい。
 ――こんな時に名を呼ぶなんて卑怯です。
 言いたくても言えなかった。
 言ってしまったら、何か言葉を発すれば、きっと泣いていた。堪えきれなくなっていた。
 歪んでしまった顔を見られまいと、交差させた腕で顔を覆い隠す。情けない顔を見られてしまったかもしれない。だがこれ以上見られたくはなかった。
 優しくされたくない。
 掌をきつく握り締める。顔を隠した腕で、目蓋を押さえた。あとほんの少しでも見つめられていたら、塞き止めている涙は溢れ出してしまっていただろう。
「カイル……? どうした?」
(そんな風に……優しく、呼ばないで下さい……勘違い、してしまう……っ)
 もしかしたら。
 ゲオルグも、己のことを好いてくれているのではないかと。
 ありえない期待を抱いてしまう。
 そんなはずはないのに。
「……カイル……?」
「…………優しく……しないで、ください……」
 何とか絞り出した声は無様に震え、シーツを滑り落ちてひび割れた。わななく唇をきつく噛み締める。
 ゲオルグがどんな顔で己を見つめているのか、見たくなかった。腕の下の悲惨な顔を、見られたくなかった。この場から逃げ出してしまいたいのに、宥めるように髪を梳く指に、あやすように落とされる口付けに、もっとそうして欲しくて逃げられない己が嫌だ。
「……っ、やだ……ゲオルグ、殿……っ」
 優しくするなと言ったのに、彼の動きはどこまでも優しい。そう思えてしまうのも錯覚か。
 わずかでもゲオルグが好いてくれているのならいいのに。
 そんなことを思っている己は醜悪な顔をしているだろう。見せたくないから隠しているのに、いつまでもつかわからずに恐怖感が湧く。
 これ以上醜態を晒せばいっそう追い詰められると怖れても、ゲオルグの手管に容赦はなかった。
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