夜に降る雨

 カイルがレインウォールに到着したのは、晴れた日の午後だった。
 底抜けに明るい、絵の具で塗ったように嘘臭いまでの青空。気持ちとまるで真逆で、笑いが込み上げそうになるのを堪えねばならなかった。
 そもそもレインウォールの街自体、青空と同様に嘘臭い。表面は華美で美しいが、行き過ぎた華美は鼻につく。そして住人の内面までが美しいとは限らない。表面だけの取り繕いはまったく領主と同じかと、笑いを禁じえなかった。
(飼ってる動物は飼い主に似るっていうけど、人間もそうなのかなー)
 あの男が吐くのはいつも耳障りの良い言葉。だが裏でどんな腹黒いことを考えているのか知れたものではない。腹黒い貴族の筆頭なだけのことはあり、老獪な狸だ。
 丘の斜面に合わせて作られた街は、中央に階段、左右に街と分けられている。店も流行っているらしく、構えは立派だ。
 街に入ってすぐ目に付くのは、サルムの像だ。貴族のくせに成金のような趣味はいかにも俗っぽい。彼の権勢欲の現れかもしれないが、今のカイルには稚拙に思えた。別の時には別の感想が湧いたかもしれない。ソルファレナから遠回りをして数日かけて馳せ参じた今、気持ちは王子やサイアリーズにしか向いていなかった。
 攻める時は面倒そうだなどと不穏なことを考えながら重い脚を引きずり、階段を上る。まったく、疲弊した体には重労働だ。しかし女王騎士の装束で身を固めている以上、だれた姿を見せるわけにはいかない。必要以上に目立たないように装束の上からマントを羽織っているためか、土埃にまみれているためか人々の奇異の視線を受けたが、カイルは構わず階段を上った。普段なら目に付く女性すべてに声をかけて回るところだが、今はそれどころではない。
(もうちょっと……もうちょっとだ……)
 随分と遠回りをさせられた。それでも王子の挙兵を聞いて十日経たないでここまで来られたのは早いか――もう十日近く過ぎてしまったと言うべきか。いずれにせよ太陽宮で、ソルファレナでいつまでもひとりで頑張ってはいられなかった。ゴドウィンに一矢報いることも叶わなかったが、できたとしても処刑されただけだろう。リムスレーアが軟禁状態では分が悪い。
 護るべき女王と、仕えるべき女王騎士長を失った。女王騎士としては無様だ。それでも生きてレインウォールに辿り着いたのは、それらを奪ったゴドウィンが許せないから。
 この国で一番高貴な家族は、カイルの理想を象っていた。誰にも壊させたくはない、見ているだけで幸せになれる一家だった。
(綺麗で優しくて強い心を持った母親、強くて大らかで時に厳しい父親、素直で可愛くて聡明な子供に、子供たちにとってはお姉さんみたいな叔母上。オレもあんな家庭に育ったら、人間違ってただろうな……)
 ヴォリガが嫌いだったわけではない。彼には感謝しているし、一人の人として好もしいと思っている。彼を慕うのと、女王一家を慕うのは、種類が違った。
 憧れの具現。それに尽きる。
 けれど今はもう、ない。たとえサイアリーズや王子、リムスレーアが生きていても、カイルが憧れたあの家族の姿は、もう見られない。
 そう思うだけで胸が潰れそうに苦しい。
 ゴドウィンが呪わしい。
 彼らが何を考えてクーデターなど起こしたのか、理由はどうでもいい。幸せな家族を壊した。カイルにはそれだけで充分、ゴドウィンを討つ理由になりえる。
(病人や怪我人やお年寄りには、絶対不親切だよこの街……)
 階段を何段上ったのか、もう覚えてはいない。苦行に思えたが、確実に目的地へ近付いていた。
「……屋敷の趣味はまあまあかなー」
 サルムが建てさせたわけではないのだろうバロウズ家の屋敷は、控え目に表現しても瀟洒であった。女王騎士である以上、気後れする必要などないし王宮に比べれば随分格は落ちるのだから気にすることなどないはずだが、汗と埃に塗れた自分を省みれば場違いであるように思う。
 それでも屋敷に行かねば、入らねばならない。そこにはカイルが女王騎士である意味が、まだ存在するはずだから。
(サイアリーズ様、王子……今どんな気持ちでいらっしゃるのか……)
 憤りや嘆きや悲しみは、絶対に彼らのほうが強いはずである。あれから何日も経ち、サルムによって担がれて軍の盟主とされてしまった王子は、どんな思いを抱えているのか。拳を強く握り、胸の痛みをやり過ごす。
(できれば戦争なんて知らずに育って欲しかったな)
 アーメスの侵攻があった時、まだ王子も王女も幼かった。あの時のことをまったく覚えていないとは思わないが、戦場は知らなかったはずだ。あんなところを、彼らは知らなくて良いのだ。それなのにバロウズの狸めは、よくもやってくれた。
 握った拳でドアを叩いて家人を呼ぶ。心の中でサルムのことをどう思おうが、カイルは女王騎士である。不良騎士は今更だが、家人にまで侮られるわけにはいかなかった。装束を隠していたマントを脱ぐと、背を伸ばす。助けるべき人の下へ馳せ参じただけで、バロウズに与するわけではない。自分にそう言い聞かせる。
 家人との少しばかりの問答の後、すぐに屋敷の中へ招かれた。生憎とカイルがすぐにでも逢いたかった人たちは不在だったが、もう苦にはならない。
 間もなく戻ってくるというルセリナの言葉を信じ、勧められた入浴も断った。本当ならルセリナのような可憐な少女や落ち着いた魅力のあるキサラやルクレティアのような女性の前では小綺麗にしていたいが、時が時だ。もし入浴中に待ち人が帰ってきたらと思うと、気が気ではない。――それでも女性を見れば口説いてしまうのは、身についた習性かもしれなかった。
 ルセリナに勧められ、茶だけは口にした。温かな茶は疲れも溶かしてくれるようで、心を落ち着かせてくれる。
 ――何から話せばいいだろう。
 自分がソルファレナで見聞きしたすべてをどう知らせるか。家人が待ち人が帰還したと呼びに来るまで、考えを巡らせた。
 
 
 
 賓客扱いと言えど、屋敷の部屋数には限りがある。女王騎士とはいえ女性、さらに王族であるサイアリーズと同室になるわけにもいかず――勿論カイルの素行も影響していたに違いない――王子やサイアリーズ、リオンとは別に部屋を与えられた。
 三人の部屋には劣るが、充分に華美を尽くした部屋は調度の少ない部屋に慣れたカイルを落ち着かなくさせた。救いは同室にゲオルグが割り当てられていたということか。
 再び訪れようとしている戦を前に、戦場になると目されている場の周辺を探っていたというゲオルグがふらりと戻ってきたのは就寝時間になった頃だった。手には酒瓶を持っている。
「無事だったか」
「お陰様で、なんとか。ゲオルグ殿もお元気そうで、何よりですー」
「……ああ」
 一瞬間を置いて返された返事に、本当はどこか怪我をしているのかと思ったが、そうではないようだった。マントも脱がずに椅子に腰掛けると、酒瓶の栓を抜く。
「おまえが来ていると知っていたら、グラスを持ってくるんだったな」
「あー、オレはいいですよ。あんまり酒って気分でもないですし、お気持ちだけ頂いておきますー」
「そうか」
 では遠慮なく、と断ってから瓶に直接口を付けて飲みだすゲオルグを、ベッドに腰掛けたままぼんやり眺める。そのまま体を後ろに傾け、仰臥した。
「ゲオルグ殿、何か調べてたんじゃないですか?」
「ああ……ちょっとな」
「珍しいですね、仕事の途中で引き上げてくるなんて」
「近くまで戻ってきたついでに仮眠を取ろうと思ってな……早朝には出るが、夕刻には戻る」
 少しも眠る様子を見せずに言うと、酒を呷る。何を探っているのかまでは教えてくれなかった。明日の夕刻にはわかるという。
「……眠れない、か?」
 ゲオルグがベッドに寝転んだカイルに問う。カイルは深い溜息を吐くと、横臥してゲオルグを見た。
「眠らないと体に毒だっていうのはわかってるんですけどねー」
 何とも形容しがたい、焦燥感と安堵と憤りと無力感と悲しみ、その他色々な感情が混ざり、体が落ち着かず気が高ぶっているのは事実だ。王子やサイアリーズに再会したことで、それらは増幅したように思う。
 王子が体験した戦争は、ただの戦争ではない。同じ国の民がそれぞれの正義を掲げて闘ったのだ。妹姫を救う決意は固いとはいえ、まだ十代半ばの少年にどこまで耐えられるだろうか。力になれることなら何でもしたいと思う。
 気ばかりが先に立ち、目は冴える。戦場に慣れているはずのゲオルグがまったく同じ状態にあるとは思わないが、似たようなものだろう。
「ゲオルグ殿も、でしょう」
「……ああ」
 太陽宮を脱出してからの話は、夕食までの間にざっと聞いた。
 緊張に次ぐ緊張。レインウォールに着くまで、心安らぐ日はなかっただろう。また到着しても、サルムは腹を割って話せる相手ではない。王子やサイアリーズ、あるいはゲオルグやカイル、ルクレティアのことにしても、手駒が増えたくらいにしか思っていないに違いない。加えて幽世の門がいつ現れるとも知れないとリオンが警戒している通りなら、気を抜く時などありはしない。できればすぐにでもラフトフリートへ拠点を移してしまいたいだろうが、現状ではそれも難しい。
 ましてゲオルグは。
 今王子の周囲に集う人間は誰も信じてはいないが、ゴドウィンから女王殺しの大罪人として名指しされている。表立ってではないにせよ、偵察だ何だと外に出ていれば別の緊張感もあるだろう。
(太陽宮にいた頃と変わらないようにも見えるけど……それは王子のためでもあるんだろうなー……。戦いを前にして、頼りになる人がいるって思えるだけでも安心できるし)
 そう思わせるために平常心を装えているのは、場数を踏んでいるからだろう。だがいつも平静を装うのは、強い精神力があっても疲労しないわけはないはずだ。
「疲れてるんじゃないですか」
 あの夜から、この男が気を抜いたことがあるのだろうか。酒を飲んでいるのは、そうでもしなければ眠れないからではないのか。
 カイルの視線をどう受け取ったのか、ゲオルグは苦笑した。困ったように。空になった瓶をテーブルに置く。
「気を回しすぎだ」
「そうですかー? ゲオルグ殿だって人間なんだから、そういうことだってあるでしょう。オレはおかしいとか思わないですよー?」
 事実としてカイルは眠れないでいるのだから。
 夜番としては良いかもしれないが、そうでなければ翌日に障る。わかっていても頭は冴えるばかりで、どうしようもない。
(これはちょっと、無理矢理にでも寝ないとまずいよねー……。考え事するのなんか、向いてないのになー)
 体を起こすとベッドの上で胡座をかいた。ゲオルグを見つめる。
「――で、お願いがあるんですが」
「……何だ」
「どうせ寝るなら何も考えずに眠りたいんですよ」
「ああ」
「そんなわけで武術指南、お願いできませんかー?」
「……いいだろう」
 王子の傍を離れても大丈夫かどうか、考えなかったわけではない。だがリオンがいるし、屋敷の周囲はサルムが雇った傭兵やボズの連れた兵士、セーブルの屈強な兵士たちもいる。彼らを信用することにし、二人は立ち上がった。装備は傍に整えてあった。
 
 
 
 一時間ほど全力で打ち合っただろうか。
 バロウズ邸や民家から離れた木立の中で、剣はもとより魔法まで駆使した。明かりはランタン四つばかりという視界があまり効かない中で、五感や六感まで研ぎ澄まして打ち合った。
 体力が尽きたのはカイルが先である。
 剣をなんとか収めると、両膝に手を付き肩で呼吸を繰り返した。
「く、やしいなー……」
「何がだ」
「ゲオルグ殿、息……あんまり切れて、ないじゃ、ないですかー……」
 こめかみを伝う汗を乱暴に手の甲で拭うと、涼しい顔をしているゲオルグを見た。強さの違いを見せ付けられているようで、悔しい。
「……生れつきの体力の違い、だと……いいなー」
「何故?」
「自分の努力が足りなかったから、なんて……思いたくないですから」
 額に貼り付く前髪を掻き上げると、息を吐いて空を見上げる。ゲオルグの視線を意図的に避けた。
(王子や皆は、あー言ってくれたけど……でもやっぱり、オレがゲオルグ殿くらい強かったら、もう少しなんとかなったんじゃないかな……思い上がりだってわかってるけど)
 誰もカイルを責めなかったが、カイルは自分を責めた。明日には普段通りでいたいと思うから、今だけだ。
 夜空は昼間は晴れていたのに、今は厚い雲で覆われている。遠雷。じきに降り出すかもしれないと思った端から、ぽつりと雨粒が頬を打つ。
(オレのくだらない考えも、バロウズ卿の悪い考えも全部、洗い流してくれればいいのに)
 雨粒が頬だけでなく体を濡らしても、しばらく動けなかった。禊ぎのような気持ちで雨を受けた。
「……風邪を引く。戻るぞ」
 ランタンを手にしたゲオルグの言葉に、ようやく我に返る。前髪から雨が滴った。ほんのわずかの間に、雨脚は強くなっている。周囲は夜陰に沈み、雨が地や木々、家々を打つ音しか聞こえなかった。
「そうですねー……戻りますか」
 風邪を引くほどやわではないはずだが、好んで引きたいわけではない。頷くとゲオルグの後に従い、バロウズ邸に引き上げる。
 屋敷の静謐を壊さぬように部屋へ戻る途中、起きていたバロウズ家の家人にタオルとガウンを借りた。深夜に外出していたことに奇妙な顔をされたが見回り等と言い訳すれば、どうやら信じてくれたらしい。温かいものでも、という厚意は断り、宛がわれた部屋に戻った。
 上着はすべて脱ぎ、クロゼットに掛けておいた。下衣も下着も脱いでしまうと腰にタオルを巻き、結っていた髪を解く。雨に打たれたのは短い時間なのに、突然強くなった雨のせいか、しとどに濡れてしまった。ゲオルグのように短い髪ならすぐに乾くかもしれないが、長髪ではしばらくかかる。
 タオルを頭にかぶり、影からゲオルグを窺う。
(やっぱり、かっこいいなー……)
 逞しい背に、新しい傷痕は見当たらない。日に焼けた浅黒い肌、広い背にもかたくついた筋肉。元々の筋肉の質の違いか、カイルの体にはゲオルグと同じようには筋肉はつかない。見るからに頼り甲斐がありそうな体は、男として羨ましいと思う。そこに歴然たる力の差が存在しているから、なおのこと。ガウンに隠れてしまうのが惜しいと思った。
(古傷ばっかりかー……魔法攻撃はあんまり得意じゃなさそうだけど、詠唱終わる前にばっさりやられたら終わりだし……)
 筋肉で重い体をしているはずなのに、ゲオルグの動作は素早い。体重が身長の割に軽いカイルよりずっと身のこなしは軽く、一撃は重い。もし敵対していた場合、遭遇して初手を取れなければ即座に斬り捨てられるだろう。
(味方だから心強いんだろうな……)
 そんなことをぼんやり思っていると、振り返ったゲオルグと視線が合う。気まずさを感じてすぐに逸らしたが、咎められはしなかった。
「風邪を引くぞ」
「鍛えてますから大丈夫ですよー」
「疲労はおまえのほうがあるだろう」
「まー、そーですけど」
「早く寝るといい」
 視界の端に映っていたゲオルグが、これ以上見るのは堪えられないとばかりに視線を逸らした。それを意外に思い、ゲオルグの顔を見る。先ほどは気付かなかったことにいくつか気付いた。
(もしかして、痩せた……?)
 記憶しているより、細くなった。頬が削げたようだ。締まった、と言えるかもしれないが、窶れたとも言える。先程見た背や肩にしても、同様に思える。
 ここに来るまで、いや来てからも、太陽宮にいた時以上に体を動かしていたのだろう。王子の傍にいるという選択肢もあるはずだが、そうしないのはいかにも彼らしい。
(ゲオルグ殿も人間なんだなー)
 そこで喜ぶのは違うと思わないでもないが、少なくともカイルには完璧でないほうが好ましかった。
「……ちゃんと眠れてますかー?」
「動ける程度には眠れている」
「しっかり頭回ってます?」
「回ってないように見えるか?」
 問いに問いで返され、カイルは肩を竦めた。
「……見えませんけどね」
「先のことを考えるなら、今はそれに見合った奴もいる。任せられるだろう」
「ルクレティアさんのことですか」
 ゴドウィンによって見出され、ゴドウィンの考え方に反発し、ゴドウィンにより失脚させられたかつての名軍師は、今は王子の隣にいる。
 彼女は信頼できる。ゴドウィンの私欲に捕まらなかった人だから。
 ゲオルグが信用しているのは、もしかしたらルクレティアの人間性というより、軍師という生き物自体に対してかもしれないが。
「早くここから、バロウズ卿の手を借りずにやっていけるといいんだが」
 カイルと向かい合うように、ベッドに腰掛ける。
「もっとたくさん、王子だけの仲間が増えないと難しいのかなー……」
「そうだな……何か機会があれば、という気もするが」
 ふと、金色の眼に見据えられた。瞳がぞっとするほど昏いと感じたのは、明かりのせいだけか。
 女王騎士の中でも、フェリドと張るほどの強さを持つ男だ。精神も肉体同様に強靭だろう。ほとんど自然にそう思っていた。それともこの昏さはカイルのものが伝染したか。
 無意識にベッドの端に座り直すとゲオルグの目元へ手を伸ばす。ベッドの間は狭く、そうすれば触れられるはずだった。
(手で払えたらいいのに)
 後になって思い返してみれば、馬鹿なことを考えたものだ。この時は真剣だったのだけれど。
 触れそうになったところで手首を掴まれ引き寄せられた。バランスを崩すと思ったが、ゲオルグが腕で支えてくれる。一瞬、息が詰まるほど抱きしめられた。
「いきなり、びっくりするじゃないですかー……」
「……すまん」
 謝りながらも腕を解く気はないらしい。素肌にガウンの滑らかな生地が擽ったい。ゲオルグの温もりが伝わり、己の肌が冷えていたことを知った。
「冷えているな」
「ゲオルグ殿が暖かいんですよー」
 両手で温もりを抱えるように、ゲオルグの体を抱きしめる。中途半端な態勢ではつらいので、ベッドに膝を乗り上げさせた。微かに軋む。
 ガウン越しに、鼓動も伝わる。ゲオルグの常の脈を知っているわけではないが、カイルの鼓動よりほんの少しだけ早い。深く息を吐いた。
 広い胸にすっぽり、とはいかないまでも収まってしまうのは少し悔しい。しかしそんなことがどうでもよくなるほど、腕の中は心地良かった。大きな掌に背や腰を撫でられれば、うっとりと目を閉じた。
 こうして誰かと触れ合うのは久しぶりだ。いつ以来かと考え、もしかしたら王子がルナスから帰ってきた日以来だろうか。女の子相手ではないなど、不良騎士の名が廃る。
(それどころじゃなかったから、仕方ないけどね)
 拘束めいた抱擁が解かれないのならと、体を弛緩させ、ゲオルグにもたれた。それにしても珍しい。ルナスから帰還した日にすら、ゲオルグがカイルに触れる時にはカイルの意思を問うたというのに。
 あの夜は、原因があるとするならフェリドとの会話だ。ルナスからラフトフリートを経由して戻ってくる間に何かあったとは、王子は言っていなかった。隠している素振りもなかったから、本当に何もなかったのだろう。だからフェリドとの会話でゲオルグに人肌を求めるようなことがあったのだ。
 抱くのならそうしても良かったのに、抱かなかったのはそんなつもりがなかったか、カイルの微妙な苛立ちを察せられたか。
 では、今は?
(わかんないよ、そんなの。ゲオルグ殿じゃないのに)
 少しは知りたいと思うが、今聞いていいか判断がつかない。迷っているうち、抱擁が緩くなり、肩に暖かく柔らかい感触を感じた。口付けられた、と気付くのと頬にも口付けられたのは同時。
(これは……ええと、そーゆーこと、なのかなー?)
 以前ゲオルグに言った言葉は、カイルの中では未だに有効だ。ゲオルグから求められたことは、まだなかったけれど。
(ゲオルグ殿って元々女性とも少ないらしいし、性欲薄いんだろうな。……男のほうが好きってわけでもないみたいだし、だから躊躇するのはわかるんだけど…………気持ちいいから、じゃ、理由にならないかなー……)
 己の価値観をゲオルグに強要する気はないが、そう思ってくれればいい。身勝手なことを思いながら、ゲオルグの背に回した手でガウンを掴んだ。
(いや、そもそも気持ち良いと思ってくれたのかどうかわかんないなー……気持ち良くなかったから、しないのかなー?)
 大きな掌が肩から首筋を撫で、擽ったさに顔を上げると唇に口付けられる。唇を押し付けられるだけの口付けは、角度を変えられると舌が差し入れられ、歯列や歯茎をなぞられる。肉厚の舌を食み、絡めると抱きしめられた腕に力が篭る。そのまま押し倒されれば、肌を撫でられた。
 そろそろ眠らなければ明日に差し障るだとか、寝不足の顔は格好悪いだとか、色々と断る理由は浮かぶのだが、言う気は起きなかった。それはきっとゲオルグの体温が心地良いからだと自分に言い訳した。
 掌も腕も唇も、触れられた場所はどこも暖かく、安堵すらしている。触れたいと思うのもそれが理由だろう。気持ち良くなれるのなら大歓迎だ。他の男となんか考えたこともないが、ゲオルグならば良い。
 首筋から胸へと唇が下り、太腿から中心へと掌が滑る。体は無意識に緊張するが、ゲオルグの手はお構いなしにカイルの肌を弄った。
 肌の心地好さは口を開くのも億劫にさせる。喋る代わりに、ゲオルグの頭を撫でた。
「……んっ……」
 乳首を口に含まれ、下肢を撫でられる。タオルが取られると、自分でも笑いたくなるくらい緊張した。
(初めてじゃないのに……、……いや、初めてになるか……)
 素面で求められるのは初めてだ。気付いた瞬間、羞恥で体が熱くなるような錯覚に陥った。
 ゲオルグの手が、カイルの性器に触れる。掌に包まれ、ゆっくり擦られると自然に息は上がった。歯で乳首を噛まれ、擦り合わせるように刺激されると肌が震える。
「……、っ……」
 頭皮に爪を立てていたことに気付き、慌ててガウンを掴み直す。
 乾いた皮膚、掌の感触は敏感な部分には痛いほどだったが、ゲオルグの手に弄ばれるうち、先端から先走りが溢れ始めた。
(ホントに……何でこんな気持ち良いかなー……)
 先走りはすっかりゲオルグの掌を濡らし、手の動きをスムースにさせている。このままだと達してしまいそうで、ゲオルグのガウンを引っ張った。
「どうした?」
 胸に口付けたままの体勢で視線だけ寄越す。本当にこの男が眼帯をしていて良かったと思った。
「……オレばっかり、触られるのは……不公平だと思うんですけどー……」
「気にするのか?」
「そりゃ、まあ……」
(というより、一方的に触られるのが恥ずかしいっていうかー……今までゲオルグ殿が気持ち良くなかったんなら気持ち良くなってもらいたいしー)
 言い訳は頭の中でだけ、口はもごもごと言い澱んだ。それをどう受け取ったのか、ゲオルグはふと微笑む。カイルの鼓動を跳ねさせるには充分だった。
(う……何でどきどきしてるんだ、オレ……)
 そんな風になるのは自分だけなのだと思うとひどく自分が滑稽に思える。顔を逸らすと胸に口付けられた。
「気は遣わなくていい」
「や、気を遣ってるわけじゃないです……」
「ふむ……?」
 わずかに考える素振りを見せたゲオルグを見る。腕を掴まれたと思うと、抱き起こされた。向かい合い、膝に座らされる。
 そうして、手をゲオルグの性器へと導かれる。薄ら熱を帯びた性器に触れると、ゲオルグが小さく息を吐く。代わりのように性器に触れられた。
 ゲオルグの手の動きに合わせるように、カイルも手を動かす。根本から先端へと形を確めるように指を這わせ、括れた部分を撫で擦り、裏筋を辿り下ろす。
 これはヤバイかもしれないと、途中で気付いた。
 責めている箇所は違うのに、互いに自慰を見せ合っているような倒錯的ですらある。視覚的な刺激も相当強い。
「……んっ……、は、アッ……」
 先端を中心に、裏側を指先で辿られれば息を飲んだ。先走りが掌に擦られて淫猥な水音を立て、聴覚も刺激する。
 声はなるべく押し殺さなければならない。隣で眠っている王子やリオン、サイアリーズに万一聞かれたり気付かれたら、どう弁解していいのかわからない。そうは思っても、強い快感に晒されている今ではなかなか困難だ。
 ゲオルグのガウンを着たままの肩に額を擦り付けるようにし、歯を食いしばる。少しでも気を散らすためにゲオルグの性器を強く握り込み、根本から先端を往復させる。先端から括れたところはゲオルグも弱いだろうか。
(……ゲオルグ殿のも、固くなってきた……? 気持ちいい、のかな……)
 表情を窺おうと顔を上げると、
「……あ……っ?!」
 耳に柔らかくぬめらかな感触。反射的に顔を逸らすが、それでも舌は追ってきた。耳の輪郭を食まれ、耳孔に舌を差し入れられる。
「ぁ……っ、ッ……」
 がさがさと音がした次にはくちゅくちゅと水音がし、耳が犯されているような錯覚に陥る。耳と性器への刺激に気を取られていると胸をひと撫でされ、乳首を弾かれた。びくりと背が跳ねる。
「……手が止まってるぞ……?」
 俺は構わないが、と耳を噛まれたまま囁かれると、ぞくりと背を何かが走る。
(み……耳元で喋るのは反則……っ)
「そんなこと、は……」
 はっきりと否定しきれないのは、自分でもそれを認めているから。されてばかりいるのはなんとなく悔しいが、手を動かすのも一苦労だ。
「気持ちいいか……?」
 窺う言葉とは裏腹に、胸や性器を弄る手、耳を嬲る舌や歯は容赦がない。左手を背に回してガウンを掴むと、カイルは小さく頷いた。
「んっ……きもち、いい、です……」
 顔を上げてゲオルグを見ると、満足そうな表情をしたように見えたのは気のせいか。言った後、にわかに性器を乱暴に思えるほど激しく擦り立てられてしまい、また顔を肩へと伏せてしまったのでわからない。
「あっ、あッ、もぉ……、……あぁッ……!」
 追い立てられればいつまでも我慢ができるはずもなく、ゲオルグの手の中で達してしまう。
(ゲオルグ殿、気持ち良くしたかったのに、なー……)
 荒い呼吸を繰り返し、くったりとゲオルグにもたれかかったのはわずかな間。性器から手を離すように促されると素直に従い、腰を支えられて中腰になると後孔の周辺をなぞられた。
「……っ」
 カイルの震えにも構わず、ゲオルグは指を浅く挿し入れてくる。指が濡れているのはカイルが吐き出したものを使っているのだろう。ぬめりは足りないかもしれないが、この際贅沢は言っていられなかった。
 浅い抜き挿しは徐々に深まり、しばらくすれば指を根本まで銜え込んだ。すぐに数を増やされ、中を掻き回される。
 性急な慣らしがつらくないわけではないが、早くゲオルグを気持ち良くさせたいという気持ちが上回った。なるべく体の力を抜き、指の動きを妨げないようにすると、労るようにこめかみに口付けられる。
 入れられた指に慣れると抜かれ、腰を引き寄せられる。息を吐き、ゲオルグを見下ろした。カイルを見つめるゲオルグは苦しげに眉を寄せ、どこか頼りない表情をしている。
(どうして、)
 そんな顔をするのか。
 させているのだろうか。心当たりはなかったが、カイルのせいではないと言い切れない。胸がひりついた。
「っ……、う……」
 身を裂かれるような圧迫を、ゲオルグにしがみついてやり過ごす。呼吸をすることすら忘れそうだ。
 すべてを中に収める前に、掴まれたままの腰を緩く揺さ振られる。律動は内部の敏感な部分を刺激した。
「っ、ああ……!」
 思わず声を殺すことすら忘れ、ガウンの背に爪を立てる。一瞬ゲオルグも息を飲んだらしく、その時だけ動きが止まる。しかしすぐに抽挿を続けられた。
 ゲオルグの性器が敏感な場所を突くと背が跳ねた。体が逃げるのを許さぬとばかりに腰と背を抱かれ、揺さ振られる。きつさが勝っていたはずなのに、抽挿が楽になる頃には声を抑えるのは困難になっていた。
 己の意思とは無関係にされるがまま中を穿たれ、掻き回され、それでも泣きたくなるくらい感じてしまう。そんな自分が信じられなくても、何かを考える余裕すら奪われる、体は痛みを伴った嵐のように凶暴な快楽をただ追う。
 気が狂ってしまうのではないか。
 己の性器をゲオルグの腹に擦り付け、後孔に彼の性器を銜え込んだまま、それだけが頭に浮かんだ。
「は、ぁっ……、ゲオルグどの、もっとぉ……」
 気持ち良くなりたいのだと体が訴える。ゲオルグにも気持ち良くなって欲しいと頭では思っている。しがみついたままねだれば、腰を拘束している手に力が篭ったのがわかった。
「……っ、…………ぅ、あっ……」
 奥まで入れられていたものが、ゆっくりと抜き出される。背筋がぞくぞくし、ゲオルグの肩を掴んで背を反らした。途端、さらけた喉や胸に食らい付かれる。カイルの体を支えていた手が放されれば、自らの重みでゲオルグを深く銜えた。
 ゲオルグの腹に擦り付けていた性器は熱を取り戻し、先走りすら溢れさせて腹を汚していた。はしたないと思う余裕もなく、握り込まれると喘いだ。
(こんなのが続いたら、絶対に頭がおかしくなる……っ)
 そう思っても、今はどうすることもできず、ゲオルグから与えられる悦楽を享受するだけだ。
 いつの間にかまた腰を片手で掴まれ、浅いところでの抽挿を繰り返される。もどかしさに腰をよじらせれば、焦らされてからようやく奥まで入れられた。そのまま深いところを何度も突かれ、ゆっくりと抜かれては突き入れられた。ひたすら翻弄され、声を殺すために肩に噛み付いた。
 二度目に精を吐き出す頃には自ら腰を振り淫らな悦を追い、ゲオルグにも吐精させた。抜かれた時には自失していたかもしれない。いつ終わったのか覚えていない。
 呼吸を荒くしたまま、くったりとゲオルグにもたれる。離れたほうが良いのではないかと思ったが、わずかでも動くことが億劫なほど、怠かった。
 今までに比べて――といっても二回しかないが――、手荒い行為だった。今までが偽りだったのか、今回に限って何かあったのか。
 せめて確実に明朝腰が痛くなる分くらいは問おうと思い顔を上げたのに、緩く抱きしめられて背や腰を撫でられる。慈しむような手の優しさに騙されかける。
「……ゲオルグ殿……?」
 額、こめかみ、瞼に口付けられると問いの言葉を失った。唇の感触は柔らかく、体を撫でる手は切ないほど優しい。
 ゲオルグの肩に置いていた手を首へと回すと、残った力で抱きしめた。きっとそんなに力は入っていない。わかっていても、そうしなければならない衝動に突き動かされる。問おうと思っていた言葉は霧散してしまった。
 この男が何も語らないのは、語りたくないからだろう。訊けば答えてくれるとは思うが、無理に話させたくはない。
 見るからに頼りにされるタイプだ。本人の力量も期待に見合うほどに備わっている。いつかフェリドがゲオルグを評して「風来坊」と言っていた。寄る辺なき風来坊の頼りは、己のみ。だから必然的に他人から見ても頼れる男になったのではないか。
 誰かに縋り付き、簡単に頼る性質の人間には見えない。何だって独力でできるに違いない。少なくとも、周りにそう思わせるだけの雰囲気がある。今は特に、王子やサイアリーズを支えねばならない時だ。もしかしたらカイル同様、太陽宮脱出以来気を張っていたのかもしれない。
 気を抜きたい時だって、あるはずだ。
(オレが帰ってきてたゲオルグ殿を見つけた時みたいに、ちょっとでも安心したり……気を抜ける相手になれたらいいのに)
 そうして、ゲオルグの負担が少しでも減るならいい。
 体の始末をつけて抱き合ったままベッドに転がり、目を閉じてゲオルグの体温を感じる。窓を打つ雨の音は、ちょうど良い子守唄になった。
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